第46話


「……私はあなたの手はとらない」


 唯の白い手は、大阪の手を払いのけた。大阪は頬に不意打ちのビンタを食らったように黒縁眼鏡がずれていく。レンズ越しではなく明け透けになった双眸は、鋭く尖り毒に冒されていくように濁ってゆく。宙に舞った大阪の手は情けなく太股に行きついて、拳を握り怒りに打ち震えていた。

「お前が守りたかったものを、みすみす潰すというのか? 本末転倒にも程がある」

 米粒ほどでも見えていたはずの中心の光さえも大阪から消えていく。身の毛もよだつような、闇と不気味さに気圧されそうになるが、唯は怯むことなく背筋を伸ばした。


「私は……確かに亮を助けたいその一心でここに来た。どんな手を使ってもいいから彼を守りたい。そう思ってた。だけど、私があなたの手を掴んでしまったら。この手までも黒く染めてしまったら、きっと私以上に亮が傷つく。今まで二人で築いてきた綺麗な風景が全部汚れてしまう。そんな黒い手を使って守られる名誉なんて、亮は望んでいない。

 私がこの選択をすれば、亮のキャリアは全部潰れてしまうことは、わかってる。私がどんなにがんばっても、今の彼に匹敵するような素晴らしいものなんてあげられない。だけど、私が彼から奪ったものは、私が一生かけて償っていく」

 それが、私の覚悟だ。唯の透き通った瞳の奥に火が灯る。決して強くはないけれど、誰にも消せない確かな明かり。

 大阪は忌々しいものを見つけたように、ギョロリと目をむいた。

「そんなお前の償いなんて誰が望むんだ? 男という生き物は、地位と名誉で成り立っているんだよ。一度味わった上からの景色はな、一生忘れられない。何がなんでも、守りたいと思うものなんだよ!」

 中毒性の高い薬は二度と手放すことができない。曇った視界にはもう、それしか映らない。すべてを黒から白にできるのいっていたこの人の魂は、二度と黒から白にはできないんだろう。何が彼をそうさせたのか。推測しようとして唯はやめた。いくら同情しても、憐れんでも、この人の心にはきっともう届かない。

「あなたはそうかもしれない。その景色を守るために、人を傷つけて、陥れて、踏みつけても平気なんでしょう。だけど、亮はあなたとは違う」

「そんなの本人にしかわからない。宮川ではないお前にわかるはずがない」

 大阪の鋭利な眼差しが、唯の中心に浅黒く差し込んでくる。

 思わず怯みそうになる。だけど、私はあの時とは違う。亮の背中越しで何もできずただ見ているだけなんて、もう御免だ。

「確かに、今は私と亮とみている景色は違うかもしれない。だけど、それまで私はずっと見てきた。亮はいつだって面倒くさいほど、ブレない。どこまでも真っすぐで嘘をつくのが下手で、正々堂々。それが彼のモットーで。絶対に逃げない。曲がったことが大嫌いで、いつだって直球勝負。時にそれが人との摩擦を生むけれど、だからといって亮は人を蹴落としたり蔑んだりしない。そんな亮が、あなたのような人間になるはずがない。私にはわかる。ずっと私は彼の背中を見てきたんだから」

 確かに輝き続けるこの光はどんなに黒く染めようとしても、決して染まることはない。亮と歩いてきた日々は誰にも消すことなんてできない。


「……宮川も、お前も。お前らは俺の邪魔ばかりだ……」

 激しい憎しみの中に埋もれそうな声は、やけに小さい。なのに、鼓膜に鮮明に届いてくる。唯の体温を奪うように手と足先が冷えてゆく。

「俺の人生が思い通りにならないことは、絶対にないんだ。絶対に!」

 呪いをかけるようにそういう大阪の目は憎しみの色が燃え盛り、その背からは黒い炎と羽が生えはじめていた。

 すべての黒い感情をぶつけるように、大阪は唯の肩を殴るように突き出した。細い身体のくせにどこにそんな腕力があったのかと思うほどの力。唯の華奢な体は、簡単に後方に吹き飛ばされていく。衝撃に耐えきれず足がもつれ、咄嗟に身体を捻じらせて椅子の背もたれを掴む。だが、洒落た椅子にはそんな体重を受け止められる力はなかった。面倒なことには関わりたくないとそっぽを向いていた椅子は、急な波乱に巻き込まれ、不恰好に転がっていた。


 唯は左肩から勢いよく倒れ込む。固い床に容赦なく叩きつけられ、激痛が走り、堪らず顔を歪めていた。その横で椅子が丸びを帯びた背もたれは床でゆらゆらと揺れる。痛む左肩を抑えようとしたところに大阪が覆いかぶさり、唯の両肩を床に押さえつけ組み敷いてきた。痛む左肩に大阪の体重がかけられて更なる痛みが走り、耐え切れず唯は呻く。大阪はそれを見て容赦なく唯の左肩を更なる力を込めて床に押し付けた。

「俺の手にかかれば、どんなものも思い通りになるんだよ。俺は何でも手に入れられる持てる者。だが、お前らはどんなに足掻いたって、結局何も手に入れられない。持たざる者なんだ」

 薄汚い笑みを浮かべた大阪は唯を見下ろしていた。大阪の手は唯の左肩を抑えつけたまま、片手はずり落ちていた黒縁眼鏡をもとの位置に戻した。

 右肩が自由になった一瞬で、唯は自由を奪われている左肩を掴んでいる大阪の手を外そうと試みるが、ビクともしなかった。肩の痛みが全身に回って、心拍数が上がる。息が切れる。酸素を吸い込む度に、恐怖が体に侵入してくる。蔑んだ瞳が迫り、唯のなにもかもを支配しようとしていた。

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