第36話
「俺は生きた心地がしなかったんだからな」
主治医がやってきて「明日には退院できるでしょう」とにこやかに去っていった直後から亮の小言が止まらず、唯は辟易としていた。
「だから、何度も謝ってるじゃない。ごめんって。今度から気を付けるからさ」
「当たり前だ」
ムッとしながらそういう亮に、ため息も止まらない。心配からくる怒りほど亮がしつこくなることを唯はく知っている。そこから逃れるために、他の話題を掘り起こし「そういえば」と話を逸らす。
「亮の映画。相変わらず大盛況なのよ。明日にはうちの映画館の最高動員数を記録するんじゃないかなぁ。ちゃんと見届けなきゃ 。楽しみ」
笑顔でそういえば、亮の顔はみるみるうちに険しくなる。
「……退院して早々働く気じゃないだろうな?」
「だって家賃滞納は絶対嫌だし」
平然と唯がそういえば、亮のアーモンド型の目が三角につり上がる。
「唯はな、他人のことは過剰なまでに心配するくせに自分のことになると適当すぎるんだよ。もっと自分を大事にしろよ。そうやって、無謀なことばっかりされるとこっちの身が持たないのわかんないのかよ」
亮の止まらぬ文句に唯もだんだんムカッとくる。
「亮だって、人のこといえないじゃない。没頭すると寝るまも惜しんで無理するくせに」
「俺は唯と違って、ぶっ倒れるような真似はしない」と、偉そうな亮に思わず唯が口を開こうとしたところで、ガラリとドアの開く音が間を取り持っていた。
「はい。痴話喧嘩はそれくらいで。外まで聞こえてますよ。さっき明日の何時くらいの退院になるか聞いてみたら、夕方くらいとのことでした」
徳島が仲介するように告げても、二人の間に険悪な空気が漂っていた。それを打ち消すように徳島の黒い炎が燃え上がる。
「宮川さんは、頭に血が上りすぎですよ。そして、水島さん。あなたが無理をすればするほど、宮川さんが暴走することを十分自覚してください。周りにも被害が及びます。
お二人とも、これ以上私を怒らせない方が身のためですよ」
メガネを鋭く光らせて、声を荒げずともビリビリと伝わる圧力。二人の背筋に冷や汗が伝う。徳島の静かなる一喝で二人の間の重苦しい空気は跡形なく吹き飛び、徳島への怯えに変わっていた。
――翌朝
「じゃあ、あとで迎えに来るよ」
「一人で大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。じゃ、またあとで」
強制的に唯にそう言いおいて亮は仕事へ向かった。
徳島は昨日頼んでおいた調べ物や週刊誌のところへ抗議へ行ったりと別行動。徳島抜きで、方々の打合せや顔合わせでその日はほとんど一日を潰し、あっという間に唯を迎えに行く時間になっていた。
事務所の車に乗り込み、亮が病院に夕方到着。
唯の病室はエレベータを降りて、廊下を真っすぐ行った突き当り。その途中に談話室がある。談話室といっても、自動販売機にちょっとした応接セットが置いてあるだけの場所で囲いも何もないただの休憩場のようなものだ。そこを通り過ぎようとしたところで椅子に腰かけている徳島を見つけた。
「お疲れ、徳島さん。病室行かないの?」
「ちょっと、お話が」
滅多に表情が変わらない淡々とした徳島が、深刻な顔つきな上にワントーン低い声。ここで俺を待っていたということは、唯に聞かれてはまずい話か。何となく察した亮は、身構えて徳島の向かいの席に座った。
「いい話じゃないってことだな」
「話は、二つあります。まず。悪い知らせから」
徳島は背筋を伸ばし亮を見据える。緊張感が亮にも伝染して、背筋を伸ばした。
「記事の差し止めができませんでした」
「どうして? 社長自ら潰すっていっていたはずだ。……寝返ったってことか?」
「いえ。そういうわけではないみたいです。
先ほど、私が抗議しに行ったとき直接雑誌の編集長に話を聞いたんですが……」
そこで、徳島は息を整えて眉間にしわを寄せる。
「確かに社長自らあの記事を差し止めるように、出版社のトップ。所長に社長自ら怒鳴り込みの電話をしたらしいんです。ですが、そこの所長は金になる記事をみすみす逃す手はないと、突っぱねた」
そういうことか。亮は椅子の背もたれに身体を預けた。
どういつもこいつも、自分の金と利益のためにしか動かないのか。亮は深い深いため息を吐き出す。
「どうやら所長は以前、今のビッグテレビの社長の座を巡っての覇権争いをしていたそうです。ですが、その争いに敗れ、冷遇されてテレビ局から子会社である週刊誌の方へ追い出されたそうです。そんな根深い確執がその二人にあって、尚更社長の命令なんか聞けない。あの記事を出すと意固地に」
「……なるほどね。で、記事はいつ出される?」
「四日後です」
「……そうか」
「あの写真だけだったら、水島さんの素性はわからないはずです。水島さんも回りに言いふらすようなことはしていないから、すぐにはわからないと思います。ですが、時間の問題かと……」
記者の取材力は馬鹿にできないことは重々承知している亮は、嘆息する。
留学している間の身辺を調べらても恐らく唯にはたどり着かないだろうが、高校以前まで遡られたら一発だ。当時のクラスメイトのところに取材されたら、たぶんベラベラ喋る奴は、ごまんといるはずだ。どう足掻いたって、曝される。
腕組みをして黙り込む亮を見ながら、徳島は続けた。
「それと……わかりました。例の『サトシ』という人物」
そういって、徳島は自分の鞄を探りテーブルに一枚の写真と紙を置いた。
その写真を亮は手に取り、目に焼き付ける。
こいつが、黒幕か。
その写真に気を取られている亮に徳島はその下にある紙を見るように促され、写真を机に置いて、視線を移す。徳島も自分用にまとめた資料らしきものを手に取り目を落とす。そして、ずらりと書かれている経歴書の内容の要点だけを、かいつまんで口に出した。
その事実に亮の目は見開き、愕然とした。まさかと顔を上げて確認するように徳島を見れば、亮が聞きたいことは口に出さずともわかるとでも言いたげな眼鏡とぶつかった。
徳島の眼鏡がさっと曇り、眉間により一層深い皺が出来上がる。
「水島さんがこれを聞いたら……」
それ以上言葉にできずに俯く徳島。
一方の亮はこれからどうすべきか、冷静に答えを導こうと必死に頭を回転させようとしていた。だが、それはあまりの情報量とこの忌まわしい男の顔のせいでうまくはいかなかった。
その時、談話室の死角で一つの陰が大きく揺れていることに気付ける余裕もなく、これからどうすべきか亮は思考の波に沈んでいた。
――一方
血が滲むほどの後悔を胸に刻みながら唯は、影のように静かに病室に戻りベッドに座っていた。自分の体を沈めていくベッドの感覚は、どこまでも暗く冷たい波に呑まれいくようだった。体の芯から冷えて身動きができず沈んでいく。見上げても水面さえも見えない。そんな中で唯の身体から弾き出されるように、ぶれない確かな思いが上へと浮かんでいく。
亮にこれ以上迷惑をかけられない。私が。私が何とかしなければ。
強い光を放ち水面を目指し進むその道を唯は必死に辿っていく。
亮を亮を助けれなければ。私ができることをしなければ。
その時、ベッドサイドに置いてあったスマホが震えた。
光につられて、画面を見るとバイト先の佐々木先輩からだった。バイト先には入院したことは知らせておらず、風邪を引いたとだけ伝えてあった。唯は画面をゆっくりと動かす。
『体調、大丈夫? 大変な時にごめんね。実は明日の夜、大阪さんの送別会をすることになったの。水島さんは当然欠席でしょうって言ったんだけど、一応聞いてほしいって幹事の山形くんに言われたので連絡しました。欠席でいいわよね? 返事待ってます』
唯は迷わず指を滑らせていた。
『出席します』
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