第35話
ぼんやりと霞んだ世界。その先に見覚えのない天井。
ここはどこ? 頭もまだまだぼんやりして、この状況が呑み込めない。目だけ動かして左右を見れば自分の部屋よりずっと広いし、とても病院には思えないけれど。腕から管がつながっているところからすると、ここはやっぱり病院らしいということだけは、認識し始めていた。そこに亮のマネージャーの徳島の顔が視界いっぱいに映って一気に目が覚めた。
「水島さん! よかった……」
心の底から安堵した徳島の顔はいつかの記憶にある時よりもずっと優し気な顔で余計に頭が余計に混乱した。けれど、お陰でゆっくりと思考回路がめぐり始める。
「えっと……」
額に手をやりながら、記憶を手繰り寄せる。たしか、バイトから帰って、そのあと気分まで悪くなって……。そこまで何とか思い出したところで、徳島は補足するようにいった。
「自分の部屋の前で倒れたんですよ。宮川さん、水島さんが体調悪そうなのを察知して、早めに仕事を切り上げていたんです。それで、水島さんのところへ。そしたら、水島さんが帰ってくるなり倒れて。宮川さんが慌てて救急車を呼んで、ここに運ばれたんです」
説明されて勝手に扉が開いたことをぼんやりと思い出す。そうか。あれは亮だったんだ。よかった。泥棒じゃなくて。と呑気に思ったと同時に、強烈に思い出す。あの茶封筒。
「あの……私、その時、何か持っていませんでしたか?」
そういいながら、黒い感情が津波のように押し寄せてくる現実。
息を詰め始める唯に気付いた徳島は、その波を押し返すように咄嗟に言った。
「今から私のいうことをよく聞いてください」
強くはっきりとよく通る声が唯の思考を止めるべく回り込んで、徳島は話し始めた。
「あれはただの脅しで、記事になるとは決まったわけじゃありません。私からも差し止めるように猛抗議してきます。だから、思い詰める必要はありません。
そもそもあんな汚い手を使って人を蹴落として、それが罷り通ってしまうこの業界がおかしいんです。何も悪いことなんて、あなたたちはしていませんよ。だから、あんな脅しに屈しないでください。堂々としていてください。後ろめたいと思わないでください。自分が足を引っ張ったなんて、思わないでください」
そこまで言って、一拍おくと
「……一方で、現実ほど残酷なものはないことは、私もよく知っています」大きく息を吐き出すようにいう。そして、徳島の眼鏡の奥の瞳は更に力が込められていた。
「けれど、時にそうじゃないことだって、希望を持たせてくれることだってきっとある。時に楽観的になることも必要です。あなたたちの真っ直ぐさは、きっといつか報われます。目に見えないものほど、儚く弱い。けれど、時にそれは予想以上の力を発揮することだってある。信じましょう。この世の中は、そこまで真っ黒じゃないと」
徳島の言葉は大きな波を真っ二つにしてしまうほど力強く唯に届いてくる。
沈みそうだった身体を何とか立て直し、唯はゆっくり身体を起こしながら思う。
そうだ。私はあの日。亮の手を取ると決めたとき、強くなると決めたんだ。
唯は、徳島を目をしっかりと見据えて「はい」と頷いた。
徳島は、唯の目をじっと見つめる。ちゃんと、届いてくれたようだとほっとした表情を見せる。それに唯がほほ笑むと、急に徳島が今頭を下げ始めた。
「……それと……すみませんでした」
「え?」
急に謝りだした徳島に虚を突かれて唯は目を何度も瞬かせる。謝るのなら自分の方なのに、何故? そう思ったとこで徳島は顔を上げるとついさっきまでの力強さが消えていた。困惑する唯をよそに徳島は、ぽつりと語りだした。
「ずっと、水島さんに謝ろうと思っていました。初めてお会いした時。二人のことをよく知らずに、頭ごなしに『別れろ』なんて言ってしまって本当にごめんなさい。私、お二人の恋は、地に足がついていなくて、フワフワして、浮かれているだけ。大抵の若い頃の恋愛なんてそんなものだから、宮川さんと水島さんもそうだと思っていました。けれど、全然違いました。もっと深いところであなた方は繋がっている。
宮川さんは、やっぱり私から見てもこれまで一緒に仕事をしてきた人達と比べても、全然違ってとても優秀。だから、そんな恋愛なんか置いておいて仕事一本でと思っていたんです。でも、蓋を開けてみたら、どうでしょう。宮川さんは、唯さんがないと全然ダメだということがよくわかりました。本当に彼はあなたがいないと……」
と徳島が言ったところで、大きなバタバタ走る音が廊下側から聞こえてきた。そして、看護師の「病院は走らないでください!」と怒る声。それを無視して、また騒がしい足音。そして、この病室の前で立ち止まる。誰? と思った唯に対して、徳島はため息をついて先ほどの言いかけた続きの言葉を付け加えた。
「こうなります」
部屋のドアを乱暴に開け放つ音と徳島の深いため息と共に、ガラリとドアが勢いよく開いたと同時に叫び声が部屋いっぱいに響いた。
「唯! 大丈夫か! 俺のことわかるか?」
今までの静かな雰囲気が一転、まるで嵐が来たかのような状態になる。唖然とする唯と徳島のあきれ顔を全部無視して、亮は唯に駆け寄り抱きしめた。
「よかった……」
息が苦しいくらいきつく抱きしめられて、亮がどれだけ心配してくれていたかを知り「心配かけて、ごめん」唯はその不安を和らげるようにそっと亮の背を撫でると、その手から力が身体に沁み込んでくるようだった。
落ち込んでばかりいられない。亮を少しでも助ける方法を。私ができることを見つけなきゃ。
そんな二人を見て、徳島が声をかける。
「では、私は主治医を呼んできます」
部屋から出ていこうとする徳島に亮は唯から離れ、駆け寄り声を潜めながら話し始める。
唯は二人から目を外し、一人前を見据えていた。
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