第31話
明日の休み前に早めに仕事を切り上げた亮は、唯のアパートにやってきていた。
唯のやつ、やっぱりバイトに行ったな。唯は体調が悪くても休もうとはしない。それは小さいころからずっとそうで、責任感が強いのと周りを心配させまいとして、いつも無理を押して平気なふりをする。そこが唯の最大の短所だ。
亮は胸中でそんなことを毒づきながら、預かっていた合鍵で中に入って電気をつけ見たくもないテレビを付けてみる。だが、全く頭にも耳にも入ってこない。
手持無沙汰になって、テレビの横に置いてあった約束のノートを手にして、机の上に置いて書き込んだ。
『責任感で身体を壊したら本末転倒。無理は禁物』
そして、時計を見れば、二十二時。遅い。遅すぎる。そう思ったその矢先のことだった。
テレビの雑音をかき消しガチャガチャと玄関のドアノブに金属がぶつかる音が響いた。
やっと帰ってきたか。嫌味の一つや二ついってやろう。そんなことを考えながら、亮が玄関のドアに向かう。その間も金属音が続いていたが、なかなか入ってこないことに亮は疑問符を浮かべながら玄関のドアを開け放ったその瞬間。唯の身体が傾いていくのが視界いっぱいに映った。
「唯!!」
反射的に叫び、前方に傾いていく身体が床に叩きつけられる既の所で亮が唯を受け止めていた。
完全に力を失っている唯が手に持っていた鞄や封筒は床に落ち、そのあとを追うように唯の身体も足元からずるずると落ちていく。
「唯、大丈夫か!」
亮は支えながら、唯の身体を横たえさせて呼びかけてみても、玉のような汗が額から流れるだけで、真っ白い顔は微動だにしなかった。呼び掛けに全く反応のない唯に亮の全身から血の気が引いていく。どうしようもなく動揺する頭と心臓を無理矢理押さえつけて、亮は救急車を呼ぶと数分でサイレンとともに救急隊員が駆けつけてきた。亮が状況を説明すると、救急隊が手早く担架に唯を乗せ階段を下りていく。床に散らばっていた唯が持っていたものをすべて拾い上げて、亮も一緒に救急車に乗り込んだ。
運び込まれた病院の入り口。看護師や医師がバタバタとやってくる。
今目の前で起きていることがよくわからなかった。中へ運ばれていく唯を見送りただ呆然と佇む亮を見かねて、看護師が声をかけてきた。
「付き添いの方ですね? これから、検査して処置を行います。終わるまで、そちらの待合室でお待ちください」
あなたがしっかりしなくて、どうするんですかと言わんばかりのはっきりとした口調に、亮の揺れていた瞳はほんの少し鎮まって静かに頷いた。それを確認した看護師は小走りで唯が運ばれた自動ドアの奥の部屋へと入っていった。
亮は、すぐ横にあった待合室と書かれた札がぶら下がっているガラス張りの部屋に入った。四席ほどつながった椅子の左端に座り込み
唯が持っていた鞄と茶封筒を無造作に横に置き、亮は膝に両肘をついて顔を覆っていた。
未だに心臓が煩いほど早い。唯の真っ白な顔がフラッシュバックすると不安という波が押し寄せ足を浚われそうだった。
もしこのまま唯がどうにかなってしまったら。目を覚ますことがなかったら。顔を覆っていた手が勝手に震えだす。血管が止まるほど拳を握り抑え込む。座っていたらどうにも悪い方ばかり考えてしまういそうだ。そんな自分に嫌気がさして、亮は椅子から立ち上がった。
冷静になれ。唯は大丈夫だ。大丈夫。そう身体に叩き込みながら、右往左往していると椅子に置いてあった唯の鞄がばさりと落ちた。それを拾い上げ再び椅子の上に置こうとしたところで、今度は茶封筒もまっ逆さまに落ちてくる。パサリと音を立てて床に着地すると、茶封筒の中身が床に飛び散り滑るように亮の足元に届いた。
腰を折ってその紙に手伸ばそうと視線を落としたところで、亮の手は凍り付いた。
視界いっぱいに飛び込んできたのは、週刊誌の字体で印字された大きな見出し。
『宮川亮、二股交際発覚!!』
紙を引きちぎるように拾い上げるとその下には、いつの間に撮られたのか。唯と亮が抱き合っている写真と、ひなが亮に食ってかかかった瞬間。そして、一緒に唯のアパートの二階の部屋へと階段を上がっていくところの三枚のモノクロ写真。視界が真っ赤になるほどに見開く。そして、落ちていた残りの二枚も乱暴に拾い上げた、一番上の紙にこの写真を説明文書らしき文言が並んでいた。
『先日、山口アナウンサーとの熱愛発覚した今を時めく宮川亮。
誠実そうな顔の裏にはとんでもない裏の顔があった。国民的アイドルさながらの人気を誇る彼のファンたちはきっとこれを見て悲鳴を上げいていることだろう。この写真現場に居合わせた筆者も驚きのあまり言葉を失った。
この写真の一枚目。路上で人目を憚ることなく抱きあっているこれだけでも衝撃だったのだが、更なる目が飛び出るほどの出来事はこの後に訪れた。なんと、もう一人若い女性が怒りながらこの二人の間に割って入ってきたのだ。もしや、この女性も宮川と同時進行していたのか? 二股どころではなく、三股なのか? そう思った瞬間、女性同士が言い争う声が夜空に響きはじめた。血が降るかと筆者も肝を冷やしたが、修羅場は何とか収まり、しばらくするとその女性たちを引き連れてタクシーに乗り込んでいった。そのまま帰るかと思いきや、あるアパートの前にタクシーは止まる。そして、なんと宮川亮は抱き合っていた彼女の部屋へと消えていったのだ……』
頭に噴水のように血が上っていく。ドクドクと脈打つ音が頭に響く。呼吸が乱れていく。そして、最後の一枚を見る。
そこには、目をを突き刺すような角ばった赤い文字が亮の中心目がけて飛んできた。
『別れろ。さもなくば、このまま記事にして、宮川亮は地獄に落ちる』
尖った文字が亮の心臓に突き刺さった。流れ落ちる生ぬるい血液。そして、それ以上の赤が亮からあふれ出していた。
決して消すことのできない亮の逆鱗。亮の全身の血が沸騰しそうなほど煮えたぎっていく。
手にした紙を握りつぶすと、鋭く正面を見据えた亮の瞳は赤い炎が燃え盛っていた。
日付が変わるころになって処置室から出てきた中年の担当医が待合室にいた亮のところにやってきた。
「付き添いの方ですね」
中年の担当医はそういった後、亮の顔を見て少し驚いた顔をしていた。後からできた看護師に目配せをすると、同じように目を丸くしているようだった。どうやら、亮のことに気づいたらしい様子の二人。だが亮は、そんなことどうだっていいと急かすように言った。
「唯は大丈夫なんですか?」
亮の圧を感じて、担当医は萎縮する。そして、脱線した意識を恥じるように担当医は咳払いをするとピンと背筋を伸ばしていた。
「検査しましたが、どこも異常はありませんでした。おそらく、疲労とストレスが原因のものかと思います」
全身からすべての酸素がなくなるほど、安堵の溜息を吐く亮。張りつめていた空気が緩んでいく。それを感じ取った担当医も解いていた。
「念のため、数日入院はしておいた方がいいと思います。……特別室にご案内でよろしいですか? そこならば、マスコミを完全シャットアウトできます。うちの病院はそういった対策は万全です。勿論徹底的な守秘義務教育も万全ですのでご安心ください」
「よろしくお願いします」
「では、あの……あとでサインを……」
恐る恐る言う担当医に亮は、いつもの営業用の笑顔を披露できるだけの元気だけは取り戻しつつあった。
手続きを済ませた後、亮は唯の部屋へと案内された。特別室というだけあって、中は応接セットまであってやけに広い。その真ん中のベッドで眠っている白い顔の唯を見つけて駆け寄った。倒れた時の青い顔よりは幾分ましにはなっているように見受けられたが、やはり顔に生気がないように見えた。
思わず亮の眉間に皺が寄る。本当に目を覚ますのか。ちゃんと息はしているのか。不安が押し寄せて、横にあった椅子を手繰り寄せながら、亮は唯の手を握った。
確かな温もりと、規則正しい息遣いを感じて、ほっと息を吐いたところで、ポケットのスマホが震え始めた。亮は電話をとると「やっと繋がった」という溜息が聞こてきた。
「徳島です。いくらオフだといっても、緊急連絡もあるんですからちゃんと連絡取れるようにしておいてくださいよ」
静かな部屋に電話越しの徳島の声が響いた。いつもなら、何かしらの口答えをする亮なのに、何の反応がないことを徳島は不思議に思ったのか。徳島から「宮川さん、聞いてます?」と困惑の色を含んだ声が返ってきた。
「明日の朝一番でビッグテレビの社長との面会アポイントをとってくれ」
徳島の問いと亮の答えが食い違っていて、徳島の声は心配に変わっていた。
「……急にどうしたんですか? 明日は休みだから絶対仕事は入れないって言っていたのに。何かあったんですか?」
「いいから。緊急要件だと言って、強引に入れてくれ」
有無を言わさずという冷えたものの言い方に、徳島は訝る。
「……わかりました。わかりましたけど、理由を言ってください。そもそも、今どこにいるんですか?」
「病院」
「……今すぐ、場所を教えてください」
慌ただしい音を聞きながら状況と場所を教えると、ものの数分で息を切らした徳島がノックとともに入ってきた。
「水島さん……大丈夫ですか?」
「たぶん……。で、そっちは?」
唯から目を離さずにそういう亮の横顔は、一見冷静そうに見えるが全く違うことに気付く。
「いわれた通り、緊急案件だといって、明日の朝一番にアポイント入れておきました。だいぶ渋っていましたけど」
そうか。といいながら、亮は手にもっていた茶封筒を徳島に差し出した。徳島が中身を出した途端、目が飛び出さんとばかりに大きく見開き、何故亮がビッグテレビの社長と面会したいと言い出したのか嫌になるほど理解した。唯の元に届いたのは週刊誌のゲラ刷り。校正を加えればいつでも世に出せる段階にまで仕上がっていた。普段は温和な亮をここまで怒らせるのは、唯が理由だということは大方予想はついていたが。
「……頭に来るのはわかります。ですが、こんな時こそ冷静になってください」
「あぁ。わかってるよ」
口ではそういう亮だったが、全身に怒りを纏ったような赤黒いものが徳島の目に映る。普段は穏和な男を怒られせると怖いというのは、正にこの人のことなのだろうと思う。
ここまで露骨に唯をターゲットにされてしまえば尚更、今の亮に何を言っても無駄であることはこれまでの付き合いで呆れるほど理解している。本人たちではない、マネージャーという身であるだけの自分にさえもこの汚いやり口に怒りが湧いてくるのだ。ならば、亮の憤怒は想像を飛び越えたところにあるはずだ。
本来なら彼がこれからやろうとしていることを止めるべきだ。そんなこと頭ではわかっているし、止めるべき立場だ。
すべてが悪い方向に向かってしまえば、映画の話も築いたキャリアも消えるという最悪の事態も考えなければならないかもしれない。だが、彼のやることをここで止めて、何になる? 私だって、亮と同じような立場であったら、到底怒りを抑えきれるはずがないと思う。泣き寝入りなんて、御免だ。
ならば。自分がすべきことは、ただ一つだ。どんなことがあろうと彼らを支えよう。どこまでも真っ直ぐで、面倒なほど穢れない彼を。そして、傷つきやすく繊細でありながら、純粋な思いを貫き通し、彼に力を与える彼女を守り抜こう。
そう徳島は密かに覚悟し、翌日を迎えた。
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