第30話
唯は息を大きく吸い、渦巻く痛みを体外に排出するように大きく息を吐いて、電話を取った。
「もしもし唯? 今大丈夫か?」
「うん。今、授業終わったところだから大丈夫だよ。バイトまで時間あるし」
「そうか。明日のことなんだけど、俺さ……」
亮が明日の行動を説明し始めると、唯の気持ちは勝手に上がっていく。浮かれた隙を突かれたように鋭い痛みが突き刺してきて、唯は思わず顔を歪めた。危うく呻き声をあげそうなのを押し殺す方に集中するので精一杯だった。まともに亮の話す内容が入ってこない。邪魔しないでよと抵抗すればするほど、反撃するように更に痛みが増してくる。痛みに気を取られてまともな返事もしなくなった唯に、亮の訝しむ声が痛みの隙間に飛び込んできた。
「……もしもし? 唯? 聞いてるか?」
「……うん」
適当に返事をすれば、電話の奥から亮の溜め息が漏れていた。
「……唯は、明日自宅待機」
「え? なんで? 明日、会えるんでしょ?」
「……今、疲れてるだろ? このあとのバイトも止めておいた方がいい」
そんなこと言い始める亮にドキリと心臓が跳ねる。何でこういう時は、こんなに鋭く察知するのだろう。本当はすぐ近くにいて、どこからか様子を伺っているんじゃないのだろうかとさえ思えてくる。
「バイト先の先輩に代わりに緊急で入ってくれって頼まれてるから、休めないのよ。それに、全然平気平気。大丈夫だよ」
唯は笑みを混ぜながらそういってみても、電話越しでもわかるほど曇った声が返ってきた。
「……多分、自分の想像以上に酷い声してるぞ。バイト先だって、事情話せば休めるだろ。今すぐに帰って絶対安静。わかったな?」
「え……でも……」
忙しくてなかなか会う機会がない貴重な日なのに。そんな喉まで出かかった言葉を飲み込むと、楽しみにしていた気持ちが消えて沈んでいく。
少しでもいいから会いたい。だけど、確かに今会ってしまったら、今亮に指摘された声の何十倍も悲惨な顔がばれて心配されるだろう。それに、この頭痛を亮にうつすわけにもいかない。
そんな正直な気持ちと、冷静な判断がぶつかったところから、出火するようにまた激しい頭痛が襲ってくる。痛みで声が詰まりそうだったが、亮には気付かれないようにそっと息を吐きながらいつもの声を探していく。
「……わかった……。じゃあ、また今度の休みの時ね」
「あぁ。バイトも休めよ」
切れた電話が落胆に変わっていく。ゆっくり落ちていく気持ちを皮肉るように、激しかった頭痛がほんの少し和らいでいく。
気持ちを切り替えるように、唯は深呼吸する。明日会えないからと言っても、一生会えないわけじゃない。そう言い聞かせても、どうしても沈んでいきそうな気持ち。それを誤魔化すために、働けといっているかのように和らいだ頭痛。その意思に従うように、唯はバイトへと向かった。
働いている間は、あれだけ痛んでいた頭は気にならない程度の痛みで治まっていた。一緒に入っていた佐々木先輩にも気付かれることもなかったのに、約一名なかなか鋭い人物がいた。
唯に告白して以来、売店担当の山形も気まずくなったのか。ずっと唯と顔を合わせることのなかった明るい茶髪の垂れ目の山形とちょうど映画館を出る時に鉢合わせたのだ。久々の気まずさを前に唯は目を泳がせていると、山形はすぐに眉間に皺を寄せていた。それに、唯が不思議に思っていると
「水島さん、顔色悪いよ。大丈夫?」
と、急にそんなことを言い出して、更に目が明後日の方向にいってしまいそうになる。それを何とか押し止めて唯は笑いながら「今日お化粧失敗しちゃってね」と答えてみたが、なかなか信じてくれず駅まで結局一緒に帰ることになったのだ。
まだ微かに残る気まずさと、また痛み始める頭痛を誤魔化すために唯は他愛ない話を続けていた。そして、やっと駅にたどり着き山形から解放されるとホッと行きを着いたところに
「本当に大丈夫? よかったら、家まで送るけど」
「あ、変な意味じゃないよ」と慌てて付け加える山形に「本当に大丈夫。心配してくれて、ありがとう。またね」
唯は明るくそういって山形から逃れていた。
余計な気を遣ったせいか。山形と別れて電車に乗った途端、頭を締め付けるような頭痛が襲ってきた。
何なのよ、一体……。痛みを怒りに変換しようとしてもうまくいかず、代わりに冷や汗が背筋を伝う。帰ったら、レポートを片付けようと思っていた気力も失せてゆく。これは、もう帰ったらおとなしく寝るしかないか。明日は、亮の言う通り一日ゆっくりしよう。
頭痛と闘いながら、何とか歩いてアパートに辿り着く。門扉を開けて、明日は部屋に籠るためにポストの中身を確認すると、一通のレポート用紙サイズの茶封筒が入っていた。封はされていない。普通なら裏面に宛先が書かれているはず。なのに、いくら確認しても宛先も差出人も何も書かれていなかった。嫌な予感が駆け巡る。早まる鼓動。あれだけ荒れ狂っていた頭痛も一挙に吹き飛んだ。脇の下からじっとりと汗が噴き出す。
ゴクリと喉を鳴らし、恐る恐る中身を探ってみると数枚の紙の感触を見つけて取り出し中身をみた瞬間。全身から汗が噴き出した。手にした紙が唯の全身の熱を奪い取るように冷え始める。心臓が痛いくらい早く脈打ち口の中はカラカラになって視界もぐるぐる回っている気がする。
震え始める手で、なんとか紙を茶封筒に戻す。
これは、気が動転しているせいだ。落ち着けば大丈夫。
そう唱えながら、唯は波打つ二階の階段を手すりを掴みながらゆっくりと一段一段上がっていく。ふらつきながら自分の部屋の前まで何とかたどり着き、カバンから取り出した鍵を鍵穴に差し込もうとした。だが震える手のせいでうまくいかない。鍵穴の周りのドアノブにカチカチ鍵が当たり煩く金属音が響く。
震える右手を左手で抑えても狙いはうまく定まらず悪戦苦闘していると、内側からカチャリと鍵の開く音が響いた。
唯の心臓が大きく跳ね上がり、その衝撃で空から激しい頭痛が覆い被さってくる。霞がかってゆく視界の奥の扉はゆっくり開いていくのに、唯の意識は足元から崩れていった。
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