第29話
余計なことを考えずレポートを終わらせた後に唯は泥のように眠った。だが、翌朝の寝覚めは最悪だった。体も疲れているけれど、何よりも内側が異様に重い。布団から這い出て、大学に行く準備を整えるために洗面所へ行くと、昨晩気持ち悪くてごみ箱に捨てたメモが目に入った。
『別れろ』
角ばった文字の赤に、押されてぐっと胃が押されたようにキリキリ痛むし、頭痛までしてくる。顔を洗って、鏡に映った自分の顔。目の下にはクマもできているし、生気が全部どこかに取られてしまったかのようだった。自分でも驚くレベルだ。今日は入念に化粧しないと、見れたもんじゃない。ファンデーションを分厚く塗り込み、いつもより濃くしながら考える。あのメモは本当に私に対するものなのだろうか。集合ポストの番号違いということもありうるのではないだろうか。唯は、ともかくそう思うことにして身支度を整えて家を出た。
途中で、スマホが震えて確認すると亮からだった。
『明日休みがとれそうなんだけど、会える?』という内容。重たかった体が急に軽くなる。『大丈夫だよ』と送れば『じゃあ、後で電話するよ』という返信が来て、唯はの顔は自然と綻ぶ。そして、ふと考える。あのメモ。亮に言うべきかどうか。ただの間違いかもしれないし、まだ自分宛だという確証はないし、無用な心配はさせたくない。もう少し様子を見てからいえばいいか。そんなことを考えながら、唯は大学の講義室に入っていった。
大学の講義室。今日は本来ひなと同じ授業のはずだが、相変わらずひなは欠席のようだった。 本当にひなに何かあったのではないだろうか。漠然とした不安と時折襲う頭痛と闘いながら、何とか授業を終え、唯は食堂へと向かった。
けれど結局固形物を喉に通せるほどの元気はなくコーンスープを買うことにした。
賑わう食堂の片隅の二人席の空きを見つけて、紙コップに入ったスープを口にしようとしたら「唯ちゃん」という声に遮られた。ぎょっとしてスープを机の端に置いて、視線をあげてみると目の前には何故かフミヤが立っていた。
「久しぶり」
「……何でいるんですか。あなたはここの学生じゃありませんよね」
「着信拒否までされたからさ。これはもう乗り込むしかないと思ってね。ほら、この前の男みたいに」
亮とは似ても似つかないのに、何を言い始めるのかと怒りが沸いてくる。噴き出してくる怒りと共に何とか胡麻化していた頭痛が更に酷くなって顔をしかめながら、唯は空かさず席を立とうと机に右手をつくとその上に、フミヤの手が重ねられて握ってくる。唯の手から悍ましさが全身を駆け巡る。
力ずくで手を振りほどこうとしても、唯の手の色が変わるほどガッチリ捕まれて離すことは叶わなかった。
「離してください!」
唯の声が食堂に響いた。学生達の視線が一挙にフミヤに矢を射られるように集まっていく。さすがのフミヤも渋々手を離したその隙に唯が立ち去ろうと机に置いてあった鞄を持ち上げようとしたが、フミヤはすかさず掴んでくる。唯は堪らずそれを振り払おうとしたら、いつからそこにいたのか。ひなが先にフミヤの手を弾いていた。
「フミヤ、何で来てるのよ! 唯に迷惑かけないでって言ったわよね?」
「だって、あまりにつれない態度を唯ちゃんにされるからさ」
「そんなことするんだったら、いくら友達といえど警察に突き出すわよ」
「お前が唯ちゃん紹介してくれたんだろ?」
「それは、あんたが迷惑かけないっていう前提の話だったでしょ? 断られたら絶対に諦めてねって言ってあったじゃない!」
ひなの声か周りの壁に跳ね返り数倍の威力となって、フミヤの耳を突き刺したようだった。フミヤは喉仏をごくりと鳴らすと、思いどおりにならなかった鬱憤を吐き捨てるように「うっせぇな!」と叫び、不機嫌な足音をおしげもなく撒き散らしながらフミヤは食堂から出ていった。
集まっていた学生たちの視線もさっと潮が引くように霧散していくのを見計らって、ひなは唯に今にも土下座しそうな勢いで謝り始めていた。
「唯、ごめんね! フミヤがあんな暴走するなんて思わなくて……」
「ううん、大丈夫。助けてくれてありがとう」
ひなは、視線を落として首を振り「唯。ちょっと、こっちきて」と食堂の学生達から逃れるように校舎を出た。
中庭のベンチに並んで座ると唯はひなに亮のことを謝ろうと口を開こうとした。けれど、それより早く「唯、この前の本当にごめん!」ひなが叫ぶようにいった。
「この前のことずっと謝ろうと思ってたんだけど、あんな酷いこと言っちゃった手前どんな顔して会えばいいのかわからなくなっちゃって……。唯はそんな人じゃないってわかってるのに。
前さ、宮川亮の熱愛スクープ出たでしょ? あの時、憧れの彼があんな胡散臭いキラキラアナウンサーなんかに引っかかったんだって、正直幻滅してたの。やっぱ、宮川亮もただの小さい人間だったなって。それが、蓋を開けてみたらそんなんじゃなくて、本当の相手は唯だったって……もう驚きで頭の中は大混乱。しかも、私の目の前に本人いるし、気が動転して何が何だかわからなくなっちゃって。気付いたら思ってもみなかったこと口走ってた……。本当にごめん!」
「ううん。私が悪かったのよ。嘘ついて……ひなには本当のことちゃんと言うべきだったのに。私こそ、ごめんね」
唯がそういえば、ひなはブンブン首を振って言った。
「唯は当然のことしたまでで、唯は悪くない」
神妙な面持ちだったひなの顔が、急ににやけ始める。そんな様子のひなに唯が首をかしげていると、ひなの瞳は恋する乙女に変わって頬を赤くし染めあげていた。
「それでね。時間が経って冷静になってみたら、益々彼素敵だって思えてきたの。あんな芸能界に首突っ込んだのに派手なモデルとかアナウンサーなんかじゃなくて、ずっと前から付き合ってる幼馴染を愛し続けるなんて! やっぱ、亮さん素敵。益々、彼の株が上がっちゃった! それに、よくよく考えてみたら……親友の恋人が彼だなんて、私めちゃくちゃラッキーじゃない?」
そういえば、この前私どさくさに紛れて触っちゃったし……と呟くと、頭から湯気が本当に見えそうなほど真っ赤にさせて興奮冷めやらない様子で続けた。
「しかも、唯を介せばいつだって会えるってことよね? もう最高! 唯、絶対別れないでよ」
唯は困り顔で乾いた笑みを浮かべると、忘れていた痛みが舞い戻ってきた。それを蹴散らしながら「善処します」と答えるのに精一杯だった。
「唯、このあと授業だっけ?」
「うん。一コマ出て、そのあとバイト」
唯が答えると、ひなの顔の中心に皺が寄り始めていた。急にどうしたのだろうと思っていたら
「唯、顔色悪いけど大丈夫?」
突然そんなことを言われて驚きながら、唯は笑いながら答える。
「昨日レポート終わらなくて寝不足気味なのよ」
「授業終わったら、帰ったほうがいいんじゃない? 顔真っ白だよ」
そういわれて、今朝鏡に映った酷い顔が蘇った。化粧でも誤魔化しきれないレベルになっているのだろうか。そんな不安を吹き飛ばすように、唯は明るく笑って見せた。
「それは目の下にクマができちゃってさ、ファンデーション塗りたくってきたからよ」
「そうなのかなぁ? だとしたら、その化粧失敗してるよ」
容赦なくそう言われて、唯は苦笑するとひなは、スマホに目をやって「あ、もうバイト行かなきゃ。唯、またね。無理しないでよ」と元気に手を振って、小柄な背中を揺らして駆けていった。
それを見送ってほうっと息を吐きながら、唯はベンチに背中を預けるとズキズキ頭に不快な痛みが駆け巡る。そこに、ふと昨晩のメモが蘇った。あれはフミヤの仕業だったのかもしれない。着信拒否をした私に腹立った挙げ句のあのメモならば、すべて辻褄が通る。
フミヤは、ひなにあんなにこっぴどくやられたのだ。もう、あんな嫌がらせはきっとしないだろう。それに、犯人の正体さえわかれば何とかなるだろうし。ひなとも仲直りできたこともあり、そんな根拠のない楽観が唯にじわりと浸透していく。 そして、ほうっと息を吐くと、張っていた気が急激に抜けた反動なのか、朝より数倍の威力となった頭痛が舞い戻ってきた。
痛い……だけど、この後は必須授業。痛みに耐えながら、授業を何とか凌いだころにちょうど亮から電話がかかってきて、スマホが震え始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます