第5話

 二十二時過ぎ。

 まだ帰らぬ母を待つことなく唯は軽くシャワーを浴び、疲れ果てた身体を無理に動かして、洗濯籠に溜まっていた洗濯物を洗濯機に放り込んだ。唯が家を出た時にはなかったはずの食べ散らかされたままテーブルに残った食器。それを見て、唯は深くため息をつく。母は片付けもせずに家を急いで出るというのは日常茶飯事だ。せめて、シンクに持っていって水に漬けておいてくれればいいのに。いや、それ以前に私は召使いじゃないといつも思う。せっせと運び、食器を洗い後片付けを終わらせると、唯は早々に二階の自室に向かった。


 今日は異常に疲れた。すべてあの大阪に体力を奪われた気がする。感情的になってしまった自分自身の失態とその後の受け答えばかりがぐるぐる頭の中で回っている。ろくに連絡をよこさない奴のために、何やってるんだろう。最初に交わした約束。ちゃんと守られている約束は、何個あるのだろう。そんなこと考えたらどんどん惨めになりそうで、そのまま眠りにつこうと電気を消した。そこにスマホが光り震えていた。

 こんな時間に誰? 

 サイドテーブルに置いてあったスマホにのろのろと手を伸ばして画面を見る。そこにあった名前に、眠気は一気に吹き飛ばされる。細かく震える指先を何とか落ち着けさせて画面に滑らせた。


「唯、久しぶり。寝てた?」

「ううん、大丈夫。……久しぶり」

 久々の亮の声。自分の声が震えてないか心配だった。その震えは、どういった感情によるものなのかもよくわからなかった。

 喜びなのか、不安なのか、緊張なのか。

「ごめん、ずっと連絡できなくて。本当に立て込んでてさ……」

「うん、わかってる。気にしないで。来月帰ってくるんだよね?」

「連絡できなくて本当にごめん」

……本当だよ。と嫌みのひとつでもいいたかった。けれど、相手の顔もなく距離も遠いせいかたった今のその言葉だけで複雑に混ざり合っていた感情すべてが解消されていく単純さに呆れそうだ。やっぱり、ただただ嬉しかった。

「私を誰だと思ってるの? 亮の性格くらい重々承知しているわ。……それに今電話をくれたんだから許す」

 よかった、という呟きとともに、本当にほっとしたような亮の息遣い。唯の気持ちはふわりと浮かぶ。

 やっぱり、私は亮のことが好きなんだと悔しいくらいそう思う。けれど、その後の少しの沈黙が空に浮かんでいきそうな気持を押しとどめていた。


「いつもなら空港で待ってて来てくれるだろ? ……悪いけど、空港は来ないでほしいんだ。マスコミがいっぱい来ているだろうし……。その……何て言うかマネージャーがそういうの嫌っててさ」

 言いにくそうにしている声。電話越しでも、今どんな表情をしているのか手に取るようにわかる。

 その途端、先ほどとは真逆の黒い感情が数倍になって湧き上がった。

 あぁ、その為の久しぶりの連絡か……。そういうときだけは、すぐに電話するんだね。こっちが、どんな思いでいたのか考えたことあるの?

 『そういうの嫌う』って、どういうの? 私は亮の何? そう本当は聞きたかった。

 いちいち、言葉を濁さなくたって私にだって大人の事情くらい分かっている。

 色んなものが絡んでくるのは仕方のないことだ。私だって場所は違えど同じだけ時間を積み重ねて、大人になっている。それに、私はひなの前で今まで通りにはいかないと、とっくに覚悟していたことだ。

 そんな中でもやっとこの電話で、ずっと沈んで いた顔を水面に出して息ができたと思っていたのに。今度は大きな波がまた覆い被さり、全身が深海に沈んでいきそうだ。


 涙と一緒に勢いよく沸き上がってきた言葉の数々が溢れ、口を開ことした一歩早く、亮はいった。

「だから、俺がその日に泊まるホテルで待っててほしいんだ」

「……えっ?」

 慌てて押し戻した言葉が喉に詰まって目を白黒させていると、亮は淀みなくその先を続けていた。

「俺、唯のところに胸を張って帰れる日をずっと楽しみにしてたんだぜ? そのために、今日まで頑張ってきたんだ。

 ……だから、待っててくれないかな? 連絡できなかったことは、本当に悪かったって思ってる。その上、帰ってきたときもいつも空港じゃなく、隠れさせるような真似をさせて……。けど、勘違いしないでほしいんだ。俺の気持ちはずっと変わってない。俺は、唯以外頭にない。どんなことがあっても」

 亮の直球に気圧されて、唯の視界は滲みそうになる。

 ……何なのよ、それ。

 狡いよ、亮。気持ちが浮いたり沈んだり激しすぎて、もういつ息をすればいいのかもわからない。なのにそんなこと言われたら、この鬱々とした数ヶ月の感情も跡形もなく消える決まってる。

 そんな憎まれ口も叩けないほど、安堵と嬉しさで上書きされてしまう唯は呆れるほど亮に一筋だと思い知っていた。

 

 やっぱり、私には亮しかいない。


――


「ちゃんと、伝えてもらえましたか?」


 唯との電話の余韻を浸る間もなく亮が電話を切ったのを見計らって、無造作に後ろに黒髪をまとめた二十歳年上の女性マネージャー・徳島が楽屋に入ってきた。今日はテレビ出演を控えているために、早朝からここに缶詰めになっている。

 あまりのタイミングの良さに、聞き耳を立てていたんじゃないか? と訝り視線を移す。唯の久々の声に湧き上がってきた思いが、ため息と共に吐き出されそうになるのを亮は慌てて止めながら答えた。


「言われた通り、空港では遠慮してほしいと伝えた」

「空港……では?」

 亮の返答にマネージャーの元々皺が多く刻まれている顔にさらなる溝が出来上がっていた。

 名が知れ渡ったとほぼ同時に、亮は芸能事務所から事務所に入らないかとオファーを受けた。取材やらテレビ出演依頼や今後プロモーション活動を全部一人で請け負うのも限界があるという友人からの助言もあり、二つ返事で亮その事務所に所属することになった。

以来、スケジュール管理などはこのマネージャーがすべて請け負ってくれている。とてもありがたい存在ではある。

「ちゃんと『会えない』とお伝えいただけてるんですよね?」

 険しい顔で、詰め寄ってくる彼女の圧は物凄い。徳島の背後に黒い炎が見えるのは、きっと気のせいじゃない……と思う。彼女は、この業界に長く、敏腕マネージャーだというもっぱらの噂だ。その理由は、とても責任感が強く、些細なことにも気が回り、完璧主義者というところにあるのだと亮は認識している。だから、この反応は想定内ではあるのだが。嘘が苦手な亮は、火に油を注ぐのを覚悟しながら、白状するしかなかった。


「ホテルに来てほしいと……」

「あの、宮川さん。自分の立場、わかってます? あなたは、今までとは違うんですよ。超が付くほどの有名人となったんですよ? それなのに、女性をホテルに招き入れるなんて……何を考えてるんですか!」

 甲高い声がキーンと亮の脳内にあちこち跳ね返って反響する。

 自分に厳しく、人にも厳しい徳島は、容赦ない。どんな有名人だろうが、間違えていることははっきりと言ってくる。

 出会ってまだ三か月程度しか月日は流れていないが、もうすでに亮の性格を熟知しているようだ。オブラートに包んだ言い方をしても全く伝わらないということ。そして、亮は何事にも真っすぐなくせに一筋縄じゃないかないことを。


「確かに名前も顔も以前より、断然知れ渡ったとは思う。だけど、環境が変わったからって、どうしてずっと付き合ってきた人と会っちゃいけないという話になるんだ?」

「この業界は、人気商売です。あなたは、若い女性ファンがとても多い。世の中のアイドルとか見ていれば、わかるでしょう? ファンがどれだけ自分お目当ての人の恋人という存在に敏感になっているのか」

「俺は、アイドルじゃない。あくまで映画を製作する裏方だ」

「あなたは、まだ駆け出しで最初が肝心なんです。すでに初映画監督作品の打診もきています。なのに、いきなり週刊誌にスクープでもされてみなさい。一気に好感度はがた落ち。スポンサーもどんどん離れて、やっていけなくなりますよ。そんな悠長なこと言ってられません。あらゆるチャンスは、ちゃんと掴みなさい」


 亮は押し黙る。確かにこの業界を熟知している彼女にとって、この手の話は一番敏感になるところなんだとは思う。

 彼女もまたこの仕事に情熱を燃やし、マネージャーという仕事に心血を注いいでやってきた人間だ。彼女の力により、のし上がってきた有名人は多く存在している。あくまで彼女の仕事は、そこなのだ。亮の魅力を最大限に引き出し、世間に広め、チャンスをものにさせる。それこそが今の彼女の最大の目的であり、使命であるのだ。

 そんな徳島に同じ土俵にも立ててもいない自分が勝てるはずもない。

 だけど。俺にはどうしても譲れないものがある。

「自分の人生に彼女がいなければ今はなかった。今の自分があるのは、全部唯のお陰なんです」

 躓いて諦めかけた時も数知れずあった。その度に、いつも唯の言葉はそんな自分を押し上げてくれた。

 諦めるなんてらしくないと。もうコテンパンになるまでやってこいと。中途半端で終わらせて帰ってきたら、一生罵ってやると。どんな思いで、亮を送りだしたと思っているの? と。

「もちろん、仕事は何でも受けさせていただきます。どんなことだろうと、一切我儘はいうつもりも、資格もないと思っています。

 だけど、どんなに激怒されても、責められても、脅されても絶対に譲れないものが一つだけある。それが唯なんです」

 唯がいるからこそ、この先の未来だって思い描ける。

 俺には、やっぱり唯しかいない。

 

 徳島の鉄壁の心に少しは刺さってくれるかと期待しながら紡いだ真っすぐな言葉。

 徳島の一番柔らかそうな細い目にぶつけてみても、銀縁メガネに跳ね返されてびくともしなかった。

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