第6話

「ごゆっくりお楽しみください」

 映画館のチケット売り場で、唯は客にニコリと笑い送り出す。

 それを見た隣にいる同じ受付バイトに入っている唯よりも半年早く入っていた一つ年上のモデルのような顔立ちの黒髪の佐々木先輩がニヤニヤしながら聞いてきた。

「水島さん最近ものすごく張り切ってるよね。なんかいいことあった?」

 その手の話に敏感な佐々木先輩は少しの変化も見逃さない。その問いに、そうです。と本当は言いたいところだが、そんなこと言えるはずもない唯は逃げ道を作るために問い返した。


「え? 私、そんなに変でした?」

「ううん。むしろ、キラキラしてていい感じよ。だって、短期間で山形くんと大阪さんの二人に告白受けたんでしょ?」

 あぁ、そのことか。と、目がどうしても暗い方向へ泳いでしまう。唯は忙しさで資料やパンフレットなど散らかっていたチケットカウンターの内側を整理する。この手の話は、何故かこの職場ではあっという間に広まるのは仕方がないとは思っていたが。

「私、大阪さんからは本人から聞いたのよ。見事にふられたけどねって」

 それを聞いて唯は「え?」と、叫んでいた。本人自らがそんなことを他の人に話して聞かせるなんて。自分が今どんな顔をしていたのか知る術はなかったが、先輩はすぐに思いを理解してくれたようだから、相当わかりやすい顔をしていたんだろう。先輩は頷き、同情してくれた。


「そりゃあ、そんな顔になるわよね。私も大阪さんの常識を疑ったわよ。山形くんはその辺男よね。フラれたとか言いふらさなかったし」

 じゃあ、何で知ってるのかと聞きたかったけれど、話が長くなりそうで唯は口を引き結んだ。 佐々木先輩はうんうんと何かに納得したように頷いたかと思ったら、急に眉を潜め始める。

「でね、私大阪さんに聞かれたの。 『水島さんが付き合ってる人ってどんな人か聞いてる?』って。そんなの知らないに決まってるって答えたら残念そうな顔して行っちゃったけどね」

 先輩は、あの人一体何がしたいのかしらね、と呟きながら続けた。

「大阪さんって、本当は映画監督になりたかったんだって。でも、夢叶わず映画会社の副社長に路線変更。簡単にそんな凄いところに路線変更のできるって、どんな家で育ってるんだか気になるところよね。ま、ともかくその副社長の座に就くために、仕方なく一時的にここで働いてるという噂。一方の山形くんは出版社の社長息子なんですって。ちなみに、こっちは確実な情報。一見優男そうだけど、実は裏で暴露本でも世に出しそうだってみんな言ってたわ。水島さんってそういういい家の男を引き付ける何かを持っているのかもしれないわね。ちょっと羨ましいなぁ」

 先輩は、むすっとした顔をして唯の脇腹を小突いていた。やわらかい衝撃に押されて、唯の肺の空気が押し出される。

 そういう話に興味も湧かないし、いらぬ情報提供は必要ない。ただ、放っておいてくれればそれでいいのに。

 唯は佐々木先輩から視線を外してまとめたパンフレットに目を落とした。私も興味津々よとでも言っていそうな目をし、笑顔を浮かべた女優とまともに視線がかち合った。ただの写真なのに訳もなく責められている気分になって、パンフレットを客側のカウンターに追い出した。

 

「そうは言っても、気を付けたほうがいいわよ。そういう金持ちの男って、自分には手に入れられないものはないと思っている節があるから。ストーカーにでもなったら、大変。何か困ったことがあったら、遠慮なくいってね」

 その申し出に唯は感謝を述べて、その話は終わりになるかと思いきや、先輩は今度は先ほどの曇った表情が嘘のように輝かせて唯の顔を覗き込んできた。

 あまりの変化に思わず、唯は後ずさる。

「でも、確かに私も気になるのよ。そんな男たちをことごとく振ってしまう水島さんが付き合ってる人のこと。ここの人たちには、絶対言わないから、聞かせてほしいな」

 キラリと先輩の目に光が灯る。

 佐々木先輩もまた、この手の話が大好物なのだということを思い出しながら、唯はどうしたものかと考えあぐねていると、タイミングよく目の前に客がやってきた。

唯は心底安堵しながら唯は「いらっしゃいませ」と今日一番の笑顔で対応していた。


 いつもだったら大いに気にしていたはずのささくれも、家に帰って母に家事を押し付けられた不満も、自分への無関心さへの悲しみも今の唯には痛くも痒くもなかった。

 むしろ操る糸のない風に乗り、飛んでいるカイトのように勝手に飛んでいってしまいそうな気持ちをコントロールする方が遥かに難しかった。そんな高ぶる気持ちを秘めたまま、唯は亮と再会の日を迎えた。


 

――亮の帰国当日


「すごい……」

 唯は帝東ホテルの通りの向こう側。ホテル入り口が一望できる場所までやってきていた。

 驚嘆の声を上げているのは、人生初めての高級ホテルを目の前に怖気づいているというわけではない。そうならないために、昨晩は粗相のないようにときちんとシミュレーションしてきていたし、洋服には一段と気を遣った。今日のために奮発していつもより一段上の値段の紺色ワンピースと白のパンプスも用意した。準備万端。……のはずだった。今、目の前に起こっている状況以外は。


 もの凄いマスコミの数と、亮のファンらしき女性の人だかりがとんでもないことになっていた。人込みで全く入口が見えない。昨晩の突然の電話はこのことだったのか、と唯は思った。

 昨晩、亮のマネージャーで徳島と名乗る女性から電話があった。

「当日は、水島さんは宮川さんより早めに帝東ホテルに入るようお願いします。到着しましたら、車を誘導しているホテルスタッフに『徳島に言われた』とお伝えください。それだけで、事情が伝わるようにしておきますので」

 機械的な感情の薄そうな声を唯は頭に叩き込みながら、何で車を誘導しているスタッフなんだろうとふと思う。普通は、ドアボーイとかフロントスタッフなんじゃないのだろうか。

「今は宮川さんの大事な時期です。節度ある行動をくれぐれもお願いします」

 最後にそう付け加えられ、一切の隙のない徳島の物の言い方に唯は成す術もないまま、電話はピシャリと切られていた。


 この状況を見たら、大いに納得だ。こんなんじゃ、入り口に近づけもしないし、全く関係なさそうな宿泊客にまでカメラを向けインタビューしている記者もいる。

 あんなのに捕まったらとんでもない。ぞわりと鳥肌が立って、唯はホテルから一番遠くに立っていそうなホテルの制服を着た中年男性スタッフを見つけた。ホテルの紋章の入ったパリッとした黒い背広に仕立てのいいズボンを着ているものだから、声をかけるのにも躊躇しそうになる。金色のネームプレートには斎藤と印字されていた。それが、日光に当たって眩しい。唯は思い切って声を上げた。


「あの。私、徳島さんという……」

 マネージャーの方に言われてきた水島といいます。と続く言葉を全部いう前に、斎藤は鋭い視線でさっと唯の頭から足先まで確認し、さっと周囲に目を配り、誰もいないことを確認してから

「水島様ですね? 伺っております」

 という答えが返ってきた。唯はほっとしながら頷くと「ご案内します」ととても綺麗にお辞儀した。なんだか、やけに後ろめたい気分になってきて「なんだか、すみません」という言葉を添えて唯も頭を下げた。

「お待ちしておりました」

 いつの間にか斎藤の目じりは下がっていて、とても親しみやすそうな笑顔を浮かべていた。


 黒い背広を見ながら、唯はその後をついていく。行先はホテルだが、どうやら人ごみのある入り口には向かっていないようだと思っていると

「今当ホテルは、あのような状態ですので水島様は、裏道からホテルに入っていただきます。ご迷惑おかけして、大変申し訳ございません」

「いえ。こちらこそご面倒おかけして、すみません」

「水島様は、何もご心配なさらずに。わたくし斎藤が、サポートさせていただきますので、お困りなことがありましたら何なりとお申し付けくださいませ」

 気を使ってそう言ってくれた言葉だったはずなのに、唯は少し安心したような居心地の悪いような気分になる。

 本来の私はこんな高級ホテルに入れるような身分でも、何でもない。ただ普通の学生で、亮のような名誉も何も持っていない。急に履きなれていないヒールのせいか足が痛くなってくる。

 時折、笑いを交えながら唯を気遣うように話してくれる斎藤に相槌を打ちながら、たどり着いた先は。

 ホテルの最上階にあるスイートルーム。入った途端、飛び込んできたのは大理石の床と緻密に彫刻された陶器。

 その奥には、高級ソファや壁画、絨毯……東京を一望できる窓。リビング、ベッドルーム、書斎と何部屋もあることにも、圧倒されている唯に男性はゆっくりとお辞儀をしていた。

「宮川さまは到着次第こちらにお越しになられますので、それまでごゆっくりお過ごしください」


 斎藤は退室し、分厚い部屋のドアが閉じられる。

 一人残された唯は身の置き所がなくて、落ち着かない。こんなに広い空間なはずなのに、やけに息苦しくズキズキ足が痛くて仕方がなかった。

 だけど、亮に会える。その嬉しさがこの場に唯一の居場所を作ってくれている。そんな気がした。


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