第42話

 それは、打ち合わせの休憩中だった。

 ひなの焦りが確実に亮の心臓を抉っていた。電話を切ったと同時に吹き出す血液は、どくどくと流れ出そうとしていた 。いつかの似た感覚が蘇り視界が赤くなっていく。それを無理やり押さえつけようとすると、血流が逆流していくようだった。物凄い勢いで全身の血が頭に集中してゆく。亮はその血流に乗るように叫んでいた。

「徳島さん、帝東ホテルだ! 車を用意してくれ!」

 眼鏡を貫いて、徳島のいつも揺れない瞳に動揺が走っていた。亮が走り休憩室のドアを開け放つと、徳島は我に返りそのあとに続いた。


 駐車場へと向かうべく廊下を走る。その途中で行く手を阻むように黒いスーツが立ちはだかっていた。亮は目の前の男を感情のままに睨み付ける。だが、白髪の男はまるでこの事態を全てを把握しているように落ち着き払っていた。


「宮川さんですね? わたくし、こういうものです」

 印籠のように差し出してきた名刺。亮は鋭く睨み付けていた。白髪の男は、そんな威圧を払いのけて構わず亮の手に押し付ける。亮の後ろにいた徳島が何かいいかけようと、一歩踏み出し口を開いたところを亮は手で制し、無理やり握らされた名刺を見ることもなくジーンズのポケットに押し込んだ。目の前の男の素性を確認することもない亮に白髪男は無表情を努めながら嘆息し、複雑な皺を眉間に寄せて口を開いていた。

「映王の杉崎と申します。宮川さんの映画のプロモーション活動を明確化しろと言われて参りました」

 その自己紹介に亮の怒りに油が注がれていた。

 映王といえば、大阪が副社長に就任する映画配給会社。唯とこちらの行動を見越してわざわざ杉崎を寄越してきたことくらい、腹立たしいほど理解する。大阪の顔が脳裏にちらついて仕方がない。亮の沸点を通り越した激怒が動悸に成り代わり息苦しくなる。それを整えながら亮は問うた。

「次期副社長の大阪さんの命令ですか?」

 怒りの滲んだ声で道を亮が抉じ開けようとするれば、再び杉崎は目の前に立った。

「今打ち合わせできなければ、あなたの映画から手を引くと……言っています……」

 杉崎の顔は皺だけでなく表情までも複雑に変わっていた。こんなことやりたくない。不本意だ。そう杉崎の顔にかいてあって、亮の怒りがすっと吸い込まれ、上がっていた頭の熱が冷えてゆく。そこから、冷静な自分が顔を出した。


「上からの命令に一社員のあなたは逆らえるはずもないですよね。そうやって、汚れ役を押し付けられてお辛いですね」

 亮が同情を示しながら、杉崎の横を通り去り際に更に言葉を重ねた。

「手を引いてもらって構いません。僕は、行きます」

 亮が穏やかにそういえば、杉崎の眉間の皺は何倍にも増えて苦悩に変わっていた。

「……映王は、この業界最大手。そこからあなたが手を引くということは、他社も足並みを揃えることになります。勿論制作に関わるビッグテレビも」

 亮の背中にぶつけてくる杉崎の悲痛な叫び声に亮の立ち止まり、受け止める。それを感じ取った 杉崎は更に続けた。

「本当に、あなたの道は絶たれてしまいます。今すでに控えているあのスクープ以外に、この後もきっとまた何かしらスクープが出されることになる。これまでも、そういったことをこの目でみてきました。ですが、宮川さんには……そうはなってほしくないんです。だから、どうかここに留まるという賢い選択を」

 最後は絞り出すような声で、涙が見え隠れしているように聞こえて、亮はゆっくりと振り返って微笑んだ。

「あなたの僕を評価してくれる言葉は素直に嬉しい。僕にも成功させたいという欲がある。これまでの努力だって報われる形にしたかった。けれど、僕はただの人間です。自分の感情を殺して、一番大事な人を見捨て、傷つけてまで自分の名誉にしがみつけるほど賢い大人にはなれそうにありません。それで、もうやっていけないというのであれば仕方のないことです。

 真っ直ぐにやっている人間が評価されず、ただ個人の感情や思惑で暗い穴に落とされるような理不尽な場所ならば、僕の居場所は元からなかったということだけの話だ。僕は、そんな世界に何の未練もありません」

 亮はそう言い切る。

 唯を見捨てるなんて、できるはずがない。そんなことするくらいなら、こんな世界を捨てることなんて俺にとって大したことじゃないんだ。

 唯さえいれば、例えこの先どんな困難が待ち受けていようが、自分で新たな道を切り拓いてやる。


「僕はあなたを恨むようなことはしませんよ。あなたは、自分の仕事をしたまでなんですから」


 亮はそう伝え踵を返すとそのまま走って行った。その背中を見送る杉崎の目には涙が浮かんでいた。徳島も遅れて亮を追いかけ、二人はタクシーに乗り込んだ。亮がホテルのフロントの電話番号を調べるよりも早く徳島が動きスマホを耳に当てていた。


「大阪という人が水島さんと一緒に来ているはず。出きる限り足止めしていてほしい」という声が充満して緊迫感に埋めつくされる。電話を切り、濃度の濃い重苦しい空気に押し潰されそうだった。徳島が耐えきれずに項垂れてながらもそれに抗うようにいった。

「私は、宮川さんも水島さんも諦めるなんていませんから」

 徳島の眼鏡の奥の瞳にもまた、うっすらと水の膜が張っていた。そんな徳島の声に亮は笑い受け止めながら、嫌な予感を握りつぶすように拳を握り前を見据えた。そして、自分のために飛び込んでいった唯を思う。


 俺は、どんなことがあろうと唯が傷つくことなんて望んじゃいない。唯、それは自分でもわかっているんだろ? なのに、何でそんな無茶なことをするんだ。頼むから、どうか無事でいてくれ。

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