第38話

 亮はアパートの階段を下りながら、胸の奥でつかえた異物が足にもしつこく纏わりついて、どうしても足取りが重くなっていた。

 昨日は、特におかしいと思えるところはなかった。いつも通りの唯で、今朝も打ち合わせに出る時も同じ様子だった。

 ふわりとした違和感を感じ始めたのは打ち合わせから帰ってきて、病院を出る時だ。話しかけても心ここにあらずで、何か考え事をしているような素振りが見られた。けれど、それはあの記事のことを思い出してのことだと思っていた。「気にするな」といっても、どうせ唯は気にするだろうし、あえてそこに首は突っ込まないようにしていたが、今は車内で踏み込んでおいた方がよかったのではないかと後悔に変わり始める。

 「バイトはやめておけ」と言って、唯がそれをすんなりそれを受け入れた時の強烈な違和感。

 さっきの唯はどう見ても、普通じゃない。自分は平気だと見せかけるためのただ強がりか? いや、その割には、様子がおかしすぎる。だったら、何だ? 

 そこまで逡巡したところで背中から、ひなの独り言が聞こえた。


「……唯。本当に大丈夫かな……」

 その呟きに亮は降りていた階段の途中で立ち止まり、踵を返しひなに顔を向ける。唯よりも背が低いひなは階段の段差で亮と同じ高さになって、視線がまともにかち合っていた。部屋にいたときだったら、まともに視線が交わったら顔を真っ赤にして恥ずかしいと、叫んでいたところだろうが、亮の目を逸らすことなく思いを巡らすようにいった。

「唯って、何か隠し事とかしているときって無理やり笑ったり、明るく見せようとする。正に今そんな感じ……いつもよりも数倍酷かったかも」

 ひなの声は、亮の頭の警告音のスイッチだったのか、けたたましくに鳴り響き始める。それと、ほぼ同時にスマホが震える。取り出し確認すれば、徳島からだった。画面に表示されている時計を見ればもう約束の時間も過ぎ始めていた。催促の電話だと思いながら、亮はどうすべきか考え始めるが活路を見いだせず舌打ちする。

 今唯のところに戻ったとしても、何を考えているのか話さないだろうし、むしろまた大丈夫だと明るく笑って済ませようとするだろう。強引に連れてこようとしたって、ああなってしまえば梃子でも動かない。

 一向に電話にでない徳島がしびれを切らしたのか車の短いクラクションが響いた。


「ひなさん。頼みがある。唯のことをよく見ていてほしいんだ。特にバイト先には行かないように」

「え? でも、唯バイトは行かないって言ってたけど……」

「ともかく、唯に何か少しでも変な動きがあったら教えてほしいんだ。些細なことでもいいから、何かあったら連絡をくれないか? 俺が出られないときは、マネージャーの徳島という女性が出るようにしておくから」

 亮の鬼気迫る物言いに、一瞬怯みながらもひなは力強く頷いていた。

「わかりました」

 手早く連絡先を交換しひなと別れた亮は遠くなっていくアパートに後ろ髪を強く引かれながら、この胸騒ぎが取り越し苦労であることをひたすらに願っていた。


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