第40話
ひなが亮の電話番号をタップすると「徳島です」予想外に硬く機械的な女性の声が聞こえてきた。
すぐに噂のマネージャーだとわかったけれど、もっと物腰柔らかく、唯のような優しい人が出るんだろうと思っていたひなの予想とは真逆。電話越しでもわかるほどの威圧感にひなが用意していた言葉が喉の奥へと引っ込んでいた。その余計な時間が徳島のイライラを刺激したのか「ひなさんですよね? 用件を早くおっしゃってください」と、ひなの口を無理やりこじ開けてきた。
「水島さんに変な動きがあったら、電話が来るようになっていると聞いてます。何かあったんですよね?」
促されて、ひなは緊張を吐き出し、今日一日の行動を説明した。黙って聞いている徳島のプレッシャーをひしひしと感じながら、何とか話し終えホッと安堵する間もなく徳島は言った。
「ひなさん。申し訳ないですが、もう少し水島さんの尾行を続けてもらってもいいですか?」
「もちろん、そのつもりです」
「宮川さんは、会議の真っ最中で席を外せません。私も立て込んでいるので、終わり次第また連絡を入れます」
「わかりました」
気合を入れ直し高めの温度でそういうひなに「ひなさんがいてくれて、助かります。ありがとう」と思いがけず、徳島の優しい声が返ってきてより一層ひなの闘志に油が注ぎ込まれていた。
ひなは北風に吹かれながらも、その炎によって寒さを感じることはなかった。持て余す時間は、普段あまり深く物事を考えるのが不得意なひなでさえも思考が働く。
そういえば、何で亮さんは唯にバイトに行ってほしくないんだろう。唯が病み上がりだからって言ってたけど……。あ、もしかして。唯があまりにモテるから、亮さん嫉妬してるのかな? あんなに有名人なのに。亮さんも人間なのねぇ。そんな人間臭いところもまた、素敵。寒いどころか、熱が上がっていくひなはひたすら百面相していると、ぞろぞろと店から人が出てくる気配。
時計を見れば、唯が店の中に入ってから二時間が経過していた。身を屈めて、そっと壁に隠れながら店の入り口を覗く。
「大阪さん、これからがんばってくださいね」
「映画のプレミアチケットとか手に入ったら、副社長権限でよろしくお願いしますね」
大阪。映画。その単語でスイッチが入ったひなは神経を研ぎ澄ます。黒縁眼鏡の男を囲って、口々にそういう若者たちは、少しずつ解散して群れが散り散りになっていく。だけど、唯の姿が見当たらない。まさか、見過ごした? ひなは焦りながら息を潜め目を凝らす。すると、その集団から数刻遅れて店に入る前に話していた山形とかいう男と談笑しながら唯が店から出てきた。また、あの男だ。まさか唯が浮気? あの亮さんという素敵な恋人がいながら?
ドキドキしながら、様子を見守っていると。唯が山形に手を振って会話を終了させていた。ひなは、ホッと胸をなでおろす。
そうだよね。あの唯がそんなはずないよね。そう思っていると、今度は山形から数歩離れた大阪の元へと歩いて行く。
今日はどうやらあの大阪という人の送別会らしいから、別れの挨拶でもするのかなと思いながら様子を伺う。
すると唯が大阪の肩に手を置いて耳元で何かを囁き始めた。あまりの二人の距離の近さにひなは目を疑った。
見間違い? 唯があんなことする?
目をごしごしこすっても、状況は変わらない。どう角度を変えても唯だ。その後の大阪の顔は、遠目からわかるほど緩んでいて、ぞっとするほど悍ましかった。その後、大阪が何か唯に言っている。一方、唯に別れを告げられた山形は数歩後方で目を見開いていた。聞き逃すまいとひなは体中の全神経を聴覚に集中させる。
「じゃあ、これから……」
大阪の声。だが、タイミング悪くパトカーがサイレンを鳴らし目の前の道を走ってきて、大阪の声が掻き消される。
思わぬ妨害にひなが静かに怒りを爆発させていると。大阪はちょうど目の前に走ってきたタクシーに手を挙げて停めていた。大阪は、唯を先に乗るように促し、そのあとに乗り込んだ。いつものひなならば、迷わず呼び止めていたはずだ。なのに、目の前で起きていることが、あまりに衝撃的でひなの足は完全に出遅れていた。
「ちょっと! 待って!!」
裏路地から飛び出した時には、タクシーは走り出した後。遠くなっていくテールランプの赤。ひなは全身から血の気が引いていく。
どうしよう。どうしよう。あの二人、どこに行っちゃうのよ! 亮さんの一筋だった唯が何で急にあんな男と? そんなことは今はどうでもいい。何か手がかりは? 何かないの?
あたりを見回すひなは、あそこにあった! とその前にずんずん近づき声を張り上げた。
「ちょっと、あんた! さっきあの黒眼鏡男が何か言ってたの聞いてたんでしょ? なんて言ってた!?」
呆然としていた山形は、ひなの大声にやっと我に返ったのか、目を何度も瞬かせ「あなたは、誰ですか?」と、的外れな返答。
そんな山形にひなは胸ぐらにつかみかかり、声を荒げて叫んでいた。
「早くしないと取り返しのつかないことになる! 唯がどうなってもいいの!? 早く教えて!」
鬼の形相のひなに山形は圧倒されながら答える。
「……帝東ホテルなら、何とかって……」
「何とかって何?」
「最初の単語で頭がいっぱいで……。その先はよくわからなかった……」
使いものにならなくなったガラクタを捨てるように山形を突き放して、ひなは急いで手を震わせながらスマホを操作し、亮に電話を掛ける。こんな時のやけに落ち着いた呼び出し音が、更なる焦りに代わる。スマホを握る手が汗ばむ。早く、出て。お願い。
「ひなさん?」
亮の声が聞こえたと同時に、ひなの緊張の糸が途切れて急に鼓動が早まる。
「唯が、唯が」
息が切れてうまく言葉が出ないひなに亮は、ゆっくりと落ち着き払った声をかける。
「落ち着いて。唯がどうしたんだ?」
「大阪っていう男の人と、帝東ホテルに行っちゃった! 早く追いかけないと!」
泣き叫ぶひなの声が周囲に響く。
「わかった。あとは俺に任せて」
二度目の亮の声は電話越しからでもわかるほどに、焦っていた。プツリと切れるスマホを握りしめてひなは立ち尽くす。
ひなは真っ暗な空に光る星を睨むように見上げて、ありったけの願いを込めていた。
お願い。どうか間に合って。
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