第21話

「午後、休講だ! ラッキー! じゃあ、夜まで時間があるし一旦アパート行こう」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 大学の掲示板から踵を返し、唯とひなは大学から電車で二駅乗った。到着した駅の小さな改札口を出て十分ほど歩き閑静な住宅街を抜けると、一軒家との一軒家の合間に『グリーンガーデン』と書かれた二階建ての緑色のアパートが現れた。ひながそのまま手馴れた手つきで、門扉を開くとすぐ横に集合ポスト。どうやらこのアパートは十世帯ほどが入居しているらしいことが伺えた。ひなのあとに唯が続くと、花の香りがふわりと漂った。アパート入口へと続くアプローチの両脇に植木鉢が設置されていて、色とりどりの花々が花開いていた。


「大家さん、お花が好きなんだって。毎日手入れしてるんだよ。ちなみに、大家さんは今見える手前の階段の隣。一階の一番手前の部屋一〇一号室。ちなみに私はその突き当りの一〇五号室ね」

 説明をしながら、ひなは大家さんのドアの前に立って呼び鈴を鳴らすかと思ったら、ドアの奥に向かって声をかけ始めた。

「こんにちは。大家さんいます?」

 呼び鈴も鳴らさずに、大きな声を上げるひな。唯は目を剥きながら、そんなこといきなりして大丈夫なのかとおろおろしていると数秒でドアが開いて、白が目だつ短髪の男性が現れた。無数の皴が顔に刻まれていて、七十代くらいなのだろうが、日によく焼けた茶色い肌が艶々していて、ずいぶん若く見えた。

「おお。ひなちゃん、どうした? 相変わらず元気だねえ」

 ひなの突然の訪問に、怒るどころか目じりに皺をいっぱい作って、目じりを下げて嬉しそうにそういった。

「この前言ってた、アパートに住みたいっていう友達連れてきたの」

「水島唯です。突然押しかけてすみません」

「お話は聞いてましたので大丈夫ですよ。すぐそこの外階段を上って、すぐの部屋を使ってください。いつでも入れる状態になっているから、今すぐにでもどうぞ。家賃は来月からでいいからね」

 柔和な笑顔を浮かべて、もう今日来るとわかっていたかのように玄関脇の棚からさっと点々としみのある手で鍵を取り出すと、唯に手渡した。唯はぎゅっと、その鍵を握りしめると丁寧に頭を下げた。

「ありがとうございます。でも、突然押し掛けてしまったし、貯金は少しはあるので今月からしっかり支払わせてください」

 律儀にそういう唯に、大家さんは驚きと共に笑い声を上げていた。そんな様子に唯は頭を上げて首を傾げると大家さんは、すまんすまん、と言いながらニコニコと笑っていた。

「いや、あまりにひなちゃんとタイプが違うものだから。唯さんは、とても真面目で甘え下手な子なんだねぇ。私はそういう今時ではない若者も大好きだよ。家賃の話はまた今度。何か困ったことがあったら、遠慮なくいってください」

 そういう大家さんに、ひなは私は真面目じゃないっていわれてるみたい。と文句を言っていたのを唯は苦笑しながら聞き流していた。



 唯に当てが割れた部屋は、二階に上がって一番奥の部屋。ひなの部屋の上が二〇五号室だった。ひなとは一旦別れて、渡された鍵でドアを開けて靴を脱ぐと、すぐ左側にトイレとキッチン。右側に浴室。一番奥に広めのフローロング部屋とクローゼットがあった。

 初めての誰もいない空間に唯の胸は静かに高鳴っていた。新たな一歩が踏み出せたという嬉しさと、安堵。その後にすぐに顔を出す、どこか寂しい気持ちと、あんな形で家を出てきてしまったことへの後悔。様々な感情が渦巻き始める。明るいような沈んだような、自分自身でもよくわからない複雑な感情にそのまま訳も分からず飲み込まれそうになって、唯はバッグを開けて中身の整理を始めた。


 しばらくすると、「唯ー、入れてー」とひなの声が響いてきて、唯は手を止めて立ち上がりドアの鍵を開けると、そのままひなが数種類の食器を持って中に入ってきた。

「これ、引っ越し祝いね」

 唯が渡されたマグカップとお皿をキッチンに置く。そういえば、衣類ばかりで他のものは一切持ってこなかった。フライパンもなければ、冷蔵庫もない。これから、少しずつ揃えていかなければならない。これまでそれほど熱心にバイトは入れてこなかったけれど、今後は頑張って働かなければと思っていたら、ひなは我が家のように奥の部屋に入っていってくるりと唯の方へと向き直って手を叩いていた。その音に思考は中断されて、視線をひなに送ると満面の笑みが飛び込んできた。


「それで、今夜よ! 唯、ちゃんとお洒落な服持ってきてる?」

 高めの熱でそういってくるひな。今更ながら、唯の頭にふわりと疑問と警告音がなり始めていた。眉を顰めながら唯はひなを訝しんだ。

「ねぇ、ひな。普通にご飯食べに行くだけなのよね?」

「うん。そうよ」

「オシャレをしなきゃいけないような高級レストランに行くの?」

「高級ではないわね。普通よ、普通。でも、それなりにお洒落はしていってほしいわ。あ、お金の心配? それは気にしなくても平気よ。支払いはしてくれるから」

 支払いはしてくれる? 唯は脳内で反芻すると顔が一気に険しくなる。それをみて、ひなはしまったと声を上げた。そこに唯は畳みかけるように問いつめる。

「ひなと私の二人で行くんじゃないの?」

「男性が二人。私と唯を入れて四人の楽しい食事会よ」

「そんなの聞いてないわよ」

「言ってないもの。前もってそんなこと知らせたら唯、絶対行かないって言いそうだったから、店の前でお知らせしようと思ってたのよ」

 唯の非難と怒りを重ねてきそうなのを遮るように、ひなは大げさにため息をはきながらぴしゃりといった。

「私前に言ったよね。ここを紹介するのは、タダというわけにはいかない。文句を言わず私に付き合ってくれって」

 勝ち誇ったようにひなは言い切った。確かに、一人暮らしでもしてみようかと言ったとき、ひながそんなようなことを言っていたような気がすることを思い出す。そして、実際にすでに、お世話になってしまっているこの現実。唯は閉口するしかなかった。そんな唯をほとんど無視してひなは続けた。


「私さ、彼いないでしょ? だから、男友達にだれか紹介してくれって頼んでたのよ。そしたら、その友達フミヤっていうんだけどね。美人な友達を連れてきてくれたら、紹介してやるっていうもんだからさ。私の周りにいる美人さんなんて、唯しかいないじゃない? だから、唯の写真見せたのよ。そしたら、フミヤ、唯のこと一目で気に入ったみたいで。唯を連れてきてくれたら、いくらでも私に紹介してやるって言われたのよ」

 ひなは、お願いと両手を合わせて拝むように唯に言った。

「唯だって、今の彼とうまくいってないんでしょ? 今日だけでいいから! ここは私のためと思って付き合って! 」

 唯はいいともダメとも言えず、顔を曇らせる。それを打ち消すようにひなは明るく言った。

「これがきっかけで、唯の運命が劇的に変わる可能性だって秘めているのよ? ポジティブに行こう!」

 ひなのポジティブさを何とか飲み込もうとした唯だったが、それが消化されると、胃の中は憂鬱という名の重たさに変わっていった。

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