第16話
唯は大学の講義室の中央でうつむき加減のむすっとしたひなの顔を見つけた。
途中で他の学生からも大きなカバンを持った唯を振り返ってくる人も数人いたが、学生は自由気ままだ。講義終わりにそのまま旅行に行くということだってそんなに珍しくはではない。一瞬集まった視線はすぐに霧散して各々の時間に戻っていく。その無関心さが唯にとっては有り難く、軽くなった足をひなへと向けた。
ひながあんな顔をしている理由なんて、一つしかない。今朝の亮のニュースのせいだろう。今はその話は避けたかったけれど仕方がない。唯は意を決してひなに声をかけた。
「おはよう」
ひなは目線を下に落としたまま「ねぇテレビ見た?」と怒りと嫉妬と落胆が複雑に入り混じった声を吐きながら、唯へと曇り顔を向けてきた。だが、用意していた言葉は発せられることなくすぐに大きなバッグに吸い込まれて、目を丸々と見開く。
「……どうしたの、それ」
ひなの頭のほとんどを占めていた話題はこのバッグにすべて占領されてしまったようだ。まったく同じセリフを一日で二回も聞かれ唯は苦笑しながらさらりと笑みを浮かべた。
「家を出ようと思ってね」
「えっと、確かに出ようかなって話はしてたとは思うけど……ビックリ。唯がそんな衝動的に行動するような人じゃないと思ってたから」
唯自身もそうなのだから、ひなが驚愕するのは無理もないと思う。考えてみたら、衝動的に行動するなんて人生で一度もない。石橋を叩いて叩いて叩き壊して、結局前へも進めなくなるという性格だという自覚があるくらいだ。
「出るなら今しかないって思ったんだよね。この機を逃したら、このまま何も変われない気がして。だから、出てきた。とりあえず、今日はカプセルホテルに泊まるつもり」
唯は重たかったバッグを床に置いてひなの隣に座りながらこれから始まる講義の準備を整える。ひなは、驚きの余韻が消えないようで黙って唯の手元を見ていたが、目を何度か瞬くとやっと驚きから解放されたようだ。そうだ、と手をたたいた。
「それならうちのアパートにおいでよ。大家さんに話聞いたら、一室空いてるってていつでも来ていいよって言ってたし、そのまま来ればいいよ」
ひなのピンク色の唇が弧を描く。今頼る場所がない唯にとって、有難い話だった。
「ありがとう。でも、急に押しかけたら悪いし二、三日はどこかに泊まるよ」
唯がそう言うと、ひなは隠すことなく大きく溜息を吐き、諭すようにいった。
「唯は、何でもかんでも遠慮しすぎ。頼るときは、頼ればいいの」
そう言われてハッとする。高校の時に亮にも全く同じことを言われたことがある。『唯は何でもかんでも一人で背負いこみすぎなんだよ。そのくせ誰にも頼ろうとしない。そんなんじゃいつか潰れるぞ』と、心配されすぎて怒られた。
亮以外の人にそんなこと言われる日が来るとは、思っていなかった。その頃から私は全く変われていないんだと頬を平手打ちされたあとのように、ひりひりと傷んで情けなくなりそうになったところで、ひなの明るい声が響いた。
「それにちょうどよかったわ」
急ににこにこし始めたひなに、急に何の話かと唯が頭いっぱいに疑問符を浮かべていると
「まさか、本当に忘れてた? 前にした約束。紹介する代わりに水曜日付き合ってねって」
「あぁ……」
ここ数日色々なことがありすぎて、すっかり抜け落ちていたが確かにそんな約束をしたような気がする。
「今日はその水曜日よ」
ひなは唇を右端だけ上げてニヤリと笑う。大抵気の乗らない提案をしてくるときのひなの顔だ。そんなひなに唯はどうしても警戒感が生まれる。いったい何に付き合わされるのかと思っていたら、それを先回りしてひなは更なる不敵な笑みを浮かべていた。
「別に大したことじゃないよ。夜ご飯付き合ってねっていうだけ。授業終わったら、その唯の荷物置いて行こう。宮川亮の衝撃的な熱愛報道で、むしゃくしゃしてたから、おいしいもの食べて現実逃避よ。よろしくね」
ひならしい言動に唯はふふっと笑う。確かに気晴らしに美味しいものはいいかもしれないと秘かに楽しみにしていたが、その期待は見事に裏切られ、波乱に満ちたものとなることをこの時の唯は知る由もなかった。
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