第8話
「なかなか、連絡できなくてごめん」
頭上から降ってきた亮の声。見上げてくる唯の顔。最後にちゃんと会えたのは半年前。記憶の中にある唯と印象が変わって、亮は目を何度も確かめるように瞬いた。元々の緩やかウェーブがかかった癖っ毛が胸元まで伸びている上に、化粧しているせいか美しさに磨きがかかったような気がする。うっすらと残っていたはずの子供っぽさは、消えて大人びてみえた。いつも空港で会うときはラフな格好をしているのに、今日はワンピース姿だからだろうか。
けれど「本当だよ」と電話越しでは見せなかった煙たさを唯が吐き出し、ムッとして頬を膨らませれば、その顔はやっぱりずっと変わらない唯だった。その顔をみて亮の中に欠けていた何かが音を立てて収まってくれた気がしてどこかホッとしていた。
「どれだけ待っていたと思うの? あのノートの約束、ほとんど破ったよね?」
唯自身もあの時言えなかった不満が勝手に溢れてきて少し驚きながらも、どこか嬉しかった。やっぱり、お互いの顔を会わせなければ言えないことがある。気付かなかった何かに気付くことも。
亮もそんな唯に安堵を重ねながら苦笑していた。
「ごめん。だけど、あのノートはちゃんと肌身離さず毎日持ってたよ」
言い訳がましく亮がそういえば唯はくすくすと笑う。
「本当だよ。今度ボロボロになったノートみせてやる」
「はいはい、わかりましたよ」
宥めるようににこりと唯は笑い「でも、仕方ないよね」と、亮からゆっくりと身を離し、窓際に歩いていく。亮も続いて唯の横に並んだ。
「亮は夢を叶えて、成功して帰って来たんだもの 」
「……何か実感ないし、思い描いていたのと大分違うけどな」
「そう? 私はいつかこうなるんだろうなってわかってたよ」
「こんなに、大人数に取り囲まれるって?」
亮の視線を落とした先を追うように唯も向ける。そこには、ホテルの入口付近。ずっと遠くに見えるけれど、ここに到着したときよりも何倍も人が集まってきているようだった。ゆっくりと視線をまた亮に戻しながら、唯はにこりと笑う。
「うん。そりゃあ、亮だもの。だから、今の現実に驚きはない」
当たり前でしょと、そう言いたげな顔を唯は向ける。そうだ。唯はいつだって、あんな目をしてどこまでも自分を信じて疑うことはなかった。自分がどんなに迷っても、立ち止まっても、いつでも唯の声は道しるべになっていてくれていた。
いつの間にか唯の透き通った瞳に強い光が帯びていて、それをもらい受けたように亮の心にも柔らかい光が灯っていく。やっぱり、唯は何よりも大切なんだと、情けないくらいそう思う。
「そういえばさ、亮はこの後仕事終わったらどこに帰るの? 実家に戻るの?」
「一週間くらいは、ここのにいて、その後一旦実家には帰ろうと思ってた。そしたら、唯といつでも会えるしって」
水島家と宮川家は向かい同士。本当に目と鼻の先だ。待ち合わせは、玄関を開けてすぐ。家の門の前だった。一番落ち着く、二人の居場所。
「だけど、これじゃな……」
もう一度視線を地上へ落とせば、込め粒ほど小さい人達がひしめき合っていた。
「あれだけ人が張り付いてくるとなったら、近所に迷惑かかるし。現実的じゃないよな。本当に顔合わせくらいか。まぁ、いい歳して実家暮らしって訳にもなぁとは思ってるんだ。だから、どこか部屋でも探すかなとは思ってる」
「そっか」
頷いた唯は、視線を落とすことなく窓の向こう側の景色に真っ直ぐ目を向けていた。高層ビル郡を背景に建つ東京タワー、すぐ横には皇居の緑と澄み渡る青空を見渡して目を細めていた。
亮がちらりと唯の横顔を見れば、近くいるはずなのにやけに遠くに感じた。いつの間にか大人の顔になっている唯。長く離れていた時間がそのまま表すように、自分の知らない唯がそこにいるような気がした。空いていた穴にぴったりと収まっていたはずのピースのほんの僅かな隙間を見つけて、ゆらゆらと水蒸気のように吹き上げてくる不安。
それを振りのに払うことに必死で、亮の口は勝手に動いていた。
「本当はさ……」
口が滑った事実に狼狽する亮。言おうとしていることは、ずっと考えていたことで決して思い付きじゃない。だけど、周りの状況が変わってもう少し大事に温めておいておこうと思っていたことだった。
だから、すぐに「いや……やっぱり何でもない」と早口に前言撤回を求めて亮の目は泳ぎだす。
それを不審に思ったのか唯の白い顔の中心に大きな皺を寄せていた。
「何よ、隠し事? そういうのなしって言ったよね? って、そもそも隠せてもないけどね」
ずいっと顔を寄せて半眼にさせる唯。それでも、目を逸らして分かりやすく口をへの字にして、抵抗する亮に唯は更に皺を深くして鋭く睨んでいた。
「この期に及んで白状しない気?」
亮の泳ぐ目をがっちり捕まえ追い詰める唯に「あぁ、もう!」
観念したように頭を掻きむしると今度は恨みがましそうな目を寄越してくる亮に、唯は怯む。
「な、何なのよ」
今度は一歩下がった唯の目が逃れようと泳ぎだす。だが、亮はもう逃す気はなかった。
「……本当は、プロポーズしようと思ってたんだよ!」
悲鳴に近い亮の叫びに唯は、ただただ目を丸々とさせることしかできなかった。
何の色にも染められない亮の黒い瞳にしっかりと唯を映し出されていた。しばらくしてふっと緩められた亮の視線は、唯から外されてばつが悪そうに頭をかき始める。
「こんなに騒がしくなったから、もう少ししたらカッコよく決めようと思ってたんだ。なのに唯が変に詰め寄ってくるから」
照れ隠しの恨み節を含んだ言葉の数々に亮の顔は、ほんの少し赤く見えるのはきっと気のせいじゃないと唯は思いながらも頭は大混乱だ。自分から聞き出したこととはいえ、どう答えていいのかわからない。むしろこの件は聞かなかったことにすべきではないかと思い始めていると亮は口を尖らせていた。
「何でだんまりなんだよ」
「……いや……だって……。聞いちゃって悪かったなって……。それに、そんなこと考えてたなんて私微塵も思ってなかったから……」
「そんなに何も考えてないとでも思ってたのかよ……」
「昔から、過去も振りかえなければ、先のことだって考えないじゃない」
唯のいう通りだ。過ぎ去った時間はもう戻ってはこないもので、いくら悔やんでも、感傷に浸っても、過去の栄光にすがっても仕方がない。まだ訪れない未来だっていくら夢を馳せても現実になるとは限らない。すべては今だ。目の前にある現実を全力で取り組む。そうやっていれば、先の未来は自然に拓いていくと、亮はそう信じている。その考えはいくら年を重ねようが揺るぎないと思っている。
けれど、たった一つだけその考えに当てはまらないものがある。
「唯だけは、特別だ」
いつの間にか亮は真剣な表情に変えて、唯の中心を真っすぐ捉えてくる。
亮はいつだって正直な言葉をちゃんと伝えてくれる。そんな亮の言葉に舞い上がるほど嬉しいはずなのに。何でだろう。ぎゅっと胸が締め付けられて苦しくなる。
「……」
「何でまた黙りなんだよ」
本当は、本当なら亮に抱きついて泣くほど喜びを爆発させたい。それが本音だ。けれど、昨晩の徳島からの電話の最後に付け加えられた言葉が鮮明に蘇って木霊する。それが唯の心の上に固く頑丈に蓋となって重く閉ざしていた。
「……嫌なのかよ」
いつも自信満々の亮の声がいつになく不安げに揺れてか細い。その声がぐっと押さえつけてくる重りほんの少し軽くしてくれたのかもしれない。
「そんなわけないじゃない。嬉しいに決まってる」
溢れた咄嗟の唯の本音。
「だけど……亮はこれから先長いんだし、もっと考えた方がいい」と、そのあと唯が続けようとした言葉は重ねられた唇に塞がれて、言わせてはくれなかった。本当は亮のことが好きだ。この溢れる思いは、純粋に亮を思う気持ちで、この思いに嘘も偽りもない。
私たちは小さいころからずっと一緒に同じ景色を見てきた。一緒に悩んで、笑って、怒って。家のドアを開ければ、すぐ目の前に亮がいた。そうやって、少しずつ近くで積み重ねた時間が私たちを引き寄せて惹かれ合っていった。
けれど、私たちの今いる場所は、全く違う。こんなに高いところに亮はいて。私はごく平凡な学生で。亮の世界を私は何も知らない。
せっかく花開き始めた亮の明るい未来に私は必要なのだろうか。
こんなに近くにいるのに。互いのぬくもりを感じているはずなのに。胸が潰れそうなほどに苦しい。
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