第21話
「まだ動かないね……すみちゃん」
引田先生は荒い息を吐いていたが、やがて落ち着き、ガンマンのようにゴキジェットのノズルの部分に息を吹きかけ不敵に笑う。
「恐るべしゴキジェット。人類にとっての脅威とは殺虫剤、またはゴキブリ、口裂け女の三つであるということだな」
「とにかく運ぼうぜ。先生持ってくれよ」
華麗に先生の戯言をスルーするレイン。うん、見習おう。
すみちゃんがかっと目を見開いた! マスクを引きちぎるなり、レインに飛びつく。鬼の形相。そして、すみちゃんの口は耳まで裂けている!
「す、すみちゃんの顔――」
認めたくなかった。屈託ない笑顔のすみちゃんの面影はない。歪んだ唇に足がすくむ。だけど、こうしている間にレインが押し倒される。先生はすみちゃんの顔に向けて、シュコー!
「ぶえっふん!」
ゴキジェットがレインにまでかかってる。咳き込むレイン。やはり全人類にとって有害! やだよ! レインの死亡診断書には死因「ゴキジェット」と書かれちゃう! それだけじゃない。「ゴキジェットで亡くなったんですって」ってPTAや学校のみんなの保護者がレインの遺影を見て眉をひそめるの! 辛い。
気づいたらグーパンチしていた。すみちゃんを殴ったことなんてなかったけど、このときばかりは仕方がなかった。血に濡れている頭を更に殴ることになって私は、肩で息をしている。手が震えている。握りこぶしがじんじんする。ビンタにすればよかった。だけど、とっさに前に突き出せるものはこれぐらいしか思いつかなかった。すみちゃんはアスファルトに転がって、ぐったりしている。
すみちゃんの口、耳のところまで裂けちゃって。もう元に戻らないのかな。救急車を呼ぶべきかな。どうしたらいいんだろう。
「ねえ、救急車」
レインはゲホゲホとむせながら首を振る。
「口裂け女になっちまってんのにどうすんだよ!」
「でも、すみちゃんだよ!」
「僕も断固反対だよおお!」
先生まで。まだゴキジェットを構えている。
「正当防衛だ。僕達は襲われた被害者なんだぞ!」
そうだけど! じれったい。伝えたいことが伝わらないもどかしさ。すみちゃんは口裂け女になったまま……元に戻らないのかな。そもそも、口裂け女がうつるのならどうしてうつったの? 私もレインも、口裂け女や口裂け男とさんざん接触してきたのになんともない。やっぱり、何かされたに違いない。
「すみちゃんって、一回学校に来てたよね。思ったんだけど、すみちゃんが口裂け女になるまでに時間はあった」
レインはやっと収まり始めた咳を堪えたせいで吐き気に襲われて、おえおえ言いながらしゃがみ込んだ。
「そ、そうかもな」
口裂け女がうつって、変身するまで時間がかかる。まるで感染して発症するまで時間がかかるみたいな。コロナみたいに潜伏期間があるんだ。
「ねえ、私達は変身しないってことは空気感染、もしくは飛沫感染じゃないってことだよね?」
「接触感染? あるいはもっと、ディープな。例えばだが、飲食でうつるとか。もしくはゾンビのように噛まれたりするのか? だいたい君たちは無謀すぎる。相手は口裂け女。霊みたいなもんだ。感染対策より、もっと効果的なものがあるだろう」と、先生は懐からアルミニウムの容器を取り出す。まさか、それは! ワックス? いや、ポマード!
「ポマードは効かなかったんじゃ?」
「本物を目にしたらどうなるかは試していないだろう」
そう言うなり先生はポマードで自分の髪を固めはじめた。オールバックになっていく先生。元々ロンゲだったこともあり、ちょっとかっこいい。やだ、これは英語教師に転職した方がマジでモテてるって!
先生は今度は転がっているすみちゃんのボブヘアをポマードで固めはじめる。
「すみちゃんの髪が! 先生リーゼントだけはやめて下さい!」
「うーむ、ロエリくん。女子にアフロは似合わんな?」
すみちゃんの髪はもさもさにされてアフロみたいになってる。つ、辛い。こんなの学校中の笑い者になっちゃう。すみちゃん、今意識がないのに!
「ぐばあああ」
すみちゃんがかっと白目で起き上がった! 先生は即座にゴキジェットを噴射! すみちゃんダウンか? と思って見てたら……。
「ぎゃああああああ!」
先生の後ろからすみちゃんのお母さん!
駄目だ。ゴキジェットは一時的な時間稼ぎにしかならない。
「逃げろ二人とも!」
先生は両手に巻いた発砲スチロールで口裂け女のすみちゃん母の口を塞いでいる。というのも、すみちゃんのお母さんは噛みつこうとしていた。
やっぱり噛まれたら口裂け女になるの? 先生の予想当たってるじゃん。口裂け女・オブ・ザ・デッドだ。
ぐわっぐわっと噛みつこうとする口裂け女の白い唇と黒い歯。先生のゴキジェットは近距離すぎて上手く吹きつけられない。ほとんど取り落とし掛けている先生のフローリングクリーナーを拝借して、私はすみちゃんのお母さんをバシバシ叩く! ほんとごめんなさい!
そうこうしているうちに私の足をすみちゃんがつかんだ!
「きゃあ!」
「やめろすみこ!」
レインがすみちゃんを引き剥がしてくれた。すみちゃんの目は白目と黒目を行ったり来たりしている。意識が混濁しているように見えるのに、すみちゃんは的確にレインにつかみかかる。これじゃあキリがないし、そのうちみんな噛まれちゃう!
「あ、お巡りさん!」
こんないいタイミングでお巡りさんがいるわけがない! けど、頭が混乱して咄嗟に助けを求めた。先生の家に来るまでの道のりで交番は一度も見ていない。
「なんだい? お嬢ちゃ……ぐばあああ」
お巡りさん、わざわざマスクを外して口を見せてくる!
裂けてる裂けてるよ! この前の二人組のお巡りさんだ! この人達寧ろ、今までどこにいたの? 巡回して職務全うしてたのかな?
唇は肌の色そのままで裂けていて、口紅塗ってないから余計に生々しくて怖い。
ん? また誰か走ってくる……。知らない人、マスクしてる。待って待って!
「先生、どんどん人が走って来るよ!」
いつの間にこんなに増えてるの? 先生はゴキジェット噴射で自力ですみちゃんのお母さんの拘束から脱した。ゴキジェットは目にも効くらしい。
先生は私とレインの首根っこをつかむなり、自宅へと舞い戻る。一階の庭の割れた窓から入り、リビングキッチンを通り二階へと続く階段を踏み鳴らす。
「先生! どうしてまた戻るんですか!」
「ここで、一度態勢を立て直す! 君たちも装備したまえ! これは悪霊共との命を賭けたやり取りになる!」
ちょっと、何言ってるのか分からないんですけどー。とにかく、ドアにカギを締めて。って、先生、この部屋は?????
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