第25話
「あら、ちょっと待ってよ」
ここではじめて
「先生、レインをほっとけって言ったのは先生でしょ?」
「ほっとけとは言ってない。夜と違って、日の当たる場所で見ると、あの女もいいところのお嬢様みたいな人だなと」
「先生がしっかりしてくれないと!」
先生をあぜ道に引っ張り上げる。今日一番の重労働で骨が折れる。
曽音田美杏は泥の中だと言うのにすいすいと歩いてくる。
ヒールを脱いだのかな。それより、その後ろでさっきまで抵抗していたレインがぐったりとして、すみちゃんとすみちゃんのお母さんにいいように抱きかかえられているのが目に入る。息が詰まりそう。レイン、死んでないよね?
「薄情ね? 「薄情」の意味は分かるかしら? 友達を見殺しにする酷い女って意味よ。かわいそうね。あの坊や、私が熱い抱擁とキスでかわいがってあげるわ」
先生はこのときになって目をしばたいた。
「いかん。あの女は魔性だ。なんてことだ。あのR18女の言うことは聞いてはいけない!」
R18女って、どんな女よ。普通にエロいって言えばいいじゃない!
「待って! レインをどうするつもり?」
「あら、噛まれたら口裂け女がうつると思う? 私達はキスで正式に仲間と認めるの。噛みついて感染させたら心までは奪えないじゃない?」
え、心? 口裂け女って、うつるだけじゃなくて心まで操作できるの? や、やだ。そんな。レインをどうするっていうの?
脳裏に駆け巡るのはレインの授業中の澄ました顔。授業を聞いてないように見えて、その実、成績優秀。私に色々教えてくれるけれど、クラスの男子とはハーフの私と仲がいいことでちょっと嫉妬されている。
ちょっとガラが悪くて、不良みたい。私、レインのこと、今まで意識したことなんてなかった。だけど、今この瞬間になって、泥だらけになって、レインと離れて……失ったものの大きさに気づいた。
「レイン! ねえ、聞こえる?」
レインの半開きの目。数メートル離れていると、それが白目をむいているようにも見える。
「しっかりして!」
そんなこと言える立場じゃない。私がいくら応援したって、レインには自力で脱出して欲しいというわがままな感情が芽生える。私、こんなひどい子だったんだ。レインを助ける方法、ほかに何かある? 先生の西洋剣は結局「出オチ」だったし、使える武器は残り少なくなったゴキジェットだけ。
私の身勝手な祈りが通じたのか、レインがかっと目を開いた。すみちゃんと、すみちゃんのお母さんを払いのけるようにして、一歩、また一歩と田んぼの泥の中を歩いてくる。明らかに様子が変。
「……レイン」
駄目だった。レインの唇は今しがたハサミを入れられたかのようにうっ血して紫色になっている。唇の端はまだ裂けてはいないけれど、それでも同じ深い紫色だ。
口が裂ける前の状態? そんな一時的な期間があるのかは知らない。けれど、レインが無事であるとも言い切れない。見ていて痛々しいあざのような色。口裂け女の方がきれいな肌の色のまま裂けていることを考えると、この中途半端な状態はかなりまずいようにも思える。
「あっははははははは!」
うろこ雲が高く留まる空に、甲高い
「に、にげよ!」と、先生が女みたいな声を出して私のブラウスを後ろからつかんだので、汗を吸った服が背中をこすって痛い。
先生の頭の中には「コメリに避難する!」しかない。私も、先生の背を追いながら「コメリコメリコメリコメリ」と暗唱しようとしたが、上手くいかない。「レインがレインじゃなくなった」「私はすみちゃんだけでなくレインも犠牲にした」そのことを呪いそうになる。
「コメリ! ……コメリ!」
私は私に喝を入れる。コメリで。あと三十メートルほどで着きそう。
「ああ、ロエリ君。もうすぐコメリだ! 僕らの今の装備では奴らに対抗することなど不可能だ! 分かっているだろ?」
「……はい……」
レインの笑顔を思い出そうとして、振り返ってしまいそう。だけど、固く目を閉じて思い浮かべる――ホームセンターコメリのカザミドリマークの赤い看板!
コメリの広い駐車場。入口のお花売り場。自動ドアの入り口に設置されたアルコール消毒と、顔を近づけて体温を測る検温カメラ。それから、工具売り場。ペンキ、画材、額縁。それに、家庭菜園用の土とか、犬小屋、高圧洗浄機! 夏にはバーベキューセット!
それから、テーマソング!
「コーコッコーコケッコー♪ ケッコーですーねコメリ♪ コーコッコーコケッコー♪ ケッコーですーねコメリ♪ 楽しい住まいのお手伝い♪ コメリホームセンター♪」
歌っちゃった。これ、十万回再生ぐらいでユーチューブにありそう。
う、ううう、こんなこと考えたってレインはもう、口裂け少年にまっしぐらなんだよ?
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