果実 第24話

 ……つもりだった。

 児嶋さんと職場で顔を合わせることは、まだあるのだった。

 予想していたことではあったが、児嶋さんがそばにいれば、やっぱり児嶋さんを見てしまう。自分でもう離れると決めたのだから、児嶋さんもそのつもりで拒否したのだから、仕事以外で話しかけるわけにはいかない――。

 私だけかもしれない。こんなに、まだ、引きずっているのは。児嶋さんは表面テキパキ働いているように見える。というか、彼女のミスをチェックする私も、集中力がなくなっていたから、本当のところはわからない。

 私は、眠れなくなった。

 学生時代以来だった。沙耶との別れの後だって、眠れないというところまではいかなかった。

 キツい……。

 早く離れるんだ。仕事でも離れるんだ。

 児嶋さんの声を聞くたびに、その声が体に響いて、動けなくなる。頭の中から彼女を排して、早く自分を取り戻さなくては。

 気が付くと、私の手は止まっていて、児嶋さんがどうしたかったのかを考えてしまう。帰ってくださいと言われて、どういう気持ちで帰ったのか。どうしてあんなに泣いたのか。まだ少し、一緒にいたい気持ちは残っているのか。それとも、もう私を拒否したことで、自分でもすっきりとしてしまったか。

 仕事中に目が合うと、児嶋さんは、何か言いたそうに私を見つめたままになることがある。

 そのあと、私は一日中、児嶋さんが何を言いたかったのかが気になって、眠れなかった。

 どうしてあんな表情で私を見るのか。言いたいことを抑えたのか。仕方がないって、そう思っているのか。視線に、抱っこをせがんだときのあの飢えが混ざっている気がして、私は、抱っこはいらないんですかと、余分なことを言い出しそうになる。

 どうして、あんな目つきをするんだろう。どうして、あのままにできるんだろう。

 どうして。どうして。どうして。

 契約更新の話を持って、派遣会社の営業がやってきたとき、私は、やめるつもりでいた。はじめに児嶋さんと話した営業の川田かわだは、入れ替わりに部屋に入ってきた私が椅子に座ると、ニコニコと笑って切り出した。

「麻生さんに、また、更新のお願いが来ています」

 眠さも手伝って、川田の顔が2つにぶれて見えた。首の上だけ分裂してる。3つにぶれたらどっかの仏像みたいだ。

「あはは」

「麻生さん?」

「あ、すみません、ちょっと寝てなくて。なんか、ゆるんじゃいました」

「お仕事大変ですか?」

 川田は気がかりそうな顔を作って私の顔を覗き込んだ。

 私は川田の顔を覗き込み返した。

「児嶋さんにも更新の話、来てますよね?」

 さっき、部屋から出てくる児嶋さんに聞きたかったことを、川田に聞いた。

「来てますよ。堺さんから、二人ともにいてほしいという風に聞いています。いったん定着すれば長く勤められる職場みたいですね。児嶋さんもあと半年は続けられるそうですしね」

 ……半年。

「ここって、一年ごとではなかったですか?」

 派遣の更新自体は三か月区切りでも、会社としては来年の決算にあたる12月までは働いてもらいたいと聞いている。

 川田は、それは、児嶋さんの事情で、と答えた。紹介予定派遣を望んで、資格取得などを頑張って、次のお仕事に移行する方もいらっしゃるんですよ、と。

 ――どうして。

 私の思ったのは、それだった。児嶋さんは自分から率先して仕事を探すタイプじゃない。こういったら失礼だが、大きく環境を変える勇気とか、あるほうじゃない。派遣なら派遣で、わりと同じ場所で淡々と続けるタイプだ。あれだけ毎日一緒にいて、いままで、正社員になりたいとか、そんな話を一度も聞いたことはない。「そうだね、いろいろ考えてみなくちゃね」とか言いながら、目の前の仕事に集中し続ける。

 だから、この話を聞いたとき、私ははっきりと「逃げたな」と感じた。

 私よりも先に児嶋さんが、私と会社で会うことを避ける行動を取ったことに、体中の力が抜けた。

「麻生さん?」

「答え、いつまで待っていただけますか」

「あ、まだ、すぐじゃなくて全然大丈夫。2、3日中にお返事もらえれば」

 川田はニコリと笑った。

 自分はやめようと考えていたくせに、おかしいのかもしれない。だけど、私は、……私が限界になったのは、もともと、押しても押しても中途半端に逃げ続ける児嶋さんに、どうしても意識が行くのを避けられないからだ。

 私は半年でももたないから、すぐにでもやめることを考えていたのに、児嶋さんは半年待てるほどの余裕があるのか。

「会社をやめる」「かも」しれない、そのために半年の猶予をもつ、という児嶋さんの考え方は、そのまま、隆史さんとうまくいかないかもしれないから麻生さんといたけど、もういいや、さよなら、といわれたみたいだった。

 いままで感じていた、少しは私と一緒にいることを喜んでいたのではないか、という期待が一気に崩れた。

 児嶋さんが急に、冷たく見えた。私ともう一緒にいませんという消極的な行動が。消極的だからこそ、冷たく見えた。

 もう疲れた。

「半年って、なんの半年ですか」

 部屋に戻って、児嶋さんの隣に座ると、私は久しぶりに児嶋さんに口を開いた。

「聞いたんだ」

「資格をとって逃げるんですね」

 わざと、嫌味を言った。もういい。どうせそういうことでしょう。もう恋愛なんかしない。最初から好きになんてなりたくなかったんだ。もう二度とこんな馬鹿な真似はしない。どうせ反論もしないでさらりとかわすだけだ、この人は。

 児嶋さんがあまりに何も言わないので、顔を上げた。彼女は私を見たまま、真っ暗闇に放り出されたかのような表情をしていた。私の嫌味に傷ついた顔とは違った。まるで、一番大切な人にでも突き放されたかのような表情。その表情、誤解をするから。

 突き放されたという表情の奥に、危険な場所に行く子供を抱き止めようとするような空気を感じた。

 こんな顔、いままでで一度もしたことない……。

 私の中に、その視線に対しての「何」「どうして」が広がっていった。

 背後にも視線を感じた。

 指揮命令の堺が、会話を聞いて、いそいそと近寄ってきていた。今の会話の流れじゃ、この会社から逃げるのかというケンカに見えたんだろう。

「仕事の話じゃないですよ」

「そ、そうなの?」

 堺は納得できなさそうだったが、無理に納得した表情を作って、場を外した。

「児嶋さんがどうしたいのか、わからない」

 思わず呟いた。

「帰り、話がしたいんだけど、駄目?」

「いいですよ。じゃ、うちで」

 うちに来る覚悟があるならね。っていうか、話の内容的に、外じゃなかなかできないかもね。

 やけくそな気持ちが、もう一度話す勇気をくれた。話がしたい? なんの話を。会社をやめる理由? 居心地わるくなったからやめる言い訳を、私は聞かされるのか。それとも隆史さんとよりを戻したとでも聞かされるのか。

 やっぱり、うちで話すんじゃなくて、あとでメールで送ってもらえませんか……勘弁してください、そう言おうか、迷いながら一緒に帰ろうとした夕方。

 隆史さんが会社の入り口に立っていた。

 ――ああ。ほら。児嶋さんには、いるんだ、こういう人が。私といるときだって、しばらく会ってないときだって、いつもいるんだ、隆史さんが。私にできることなんて何一つない。

「じゃ、明日」

 夢の中にでもいる気分で、私は児嶋さんに背を向けた。急に涙があふれてきて、どうしていいかわからなかった。

「はるか!」

「いいですよ。別に。いってらっしゃい」

 こっち、見ないで。もう私をかき乱さないでほしい。

 後ろを向いたままで手を振って、そのまま会社の出口を通り抜け、児嶋さんから姿が見えないだろう距離まで来て、私は走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る