果実 第3話

 児嶋さんは、私のミスを、自分のミスとして捉えていた。こう伝えたらこう受けとって当然だった。きちんと説明しなかった。自分でわからないまま麻生さんに伝えてしまった。そういうふうに。

 私が間違えると、児嶋さんは「次に間違えないために必要なこと」だけを教える。やりなおしが莫大でも、手渡されるのは、覚えるのに充分な量だけだ。私の仕事量は一定で、終業時間が来れば、仕事は終わりだった。

 私の取り違いや、児嶋さん自身のミスで溢れてしまった修正作業は、ずいぶん前から、児嶋さんが残業してやっていたようだった。

 児嶋さんの言うとおりに仕事しては「間違えた」と言われ続けていたあの頃、やり直しで残業をさせられていたら、たまったものじゃなかっただろう。

 トラブルになったとき、児嶋さんはサラリと私を庇う行動をとっていた。堺もそれはわかっていたのだろう。たいてい、後になってから私は庇われていることに気付いた。

 その人のよさが、いいほうにばかりいくとは限らない。

 社員が机に置いていく書類のなかには、児嶋さんの本来の仕事じゃないものまでが溜まっていた。疲れきった彼女はときどき、

「…………?」

 首をかしげ、当然のように片づけていた。

 どうして他の社員は、児嶋さんの机に、自分がやるべき仕事まで置いていくんだろう。

「結局、うちらが残業したって、なんだかんだ言われて残業代出ないじゃない? 派遣だったらさー、時給なんだから残業すればするほど得じゃない? なんであたしたちが残業代も出ないのにやんなきゃいけないの。部長マジむかつく。さっさと帰っちゃおうよ」

 偶然聞いてしまった雑談で謎が解けた。

 彼女は大量の書類を、児嶋さんの机に置いていった。

 なにそれ!? ふつう、戸締りする社員一人ぐらいは残らない? なんで派遣の児嶋さんが最後に会社出てるの? セキュリティ的にもそんなことする会社知らないんだけど……。

「残業するの? 終わらないのは君の仕事が遅いからだよね?」

 その社員が、上司に嫌味を言われているのを聞いたことがある。だから会社全体の問題かもしれない。

 いつの間にか、児嶋さんのじゃない仕事は「児嶋さんの仕事」になっていた。

 目にみえない圧力で、部署全体が重苦しい空気に澱んでいた。

 毎日、終業時間のチャイムが鳴ると、児嶋さんはため息をつく。

「ふう……」

「過労死」という単語が似合いそうなぐらい、むしばまれている感覚を受ける。

 ため息をついてしまったと気付くと、彼女はにっこりと笑って背筋を伸ばす。

 イラっとした。社員にも、にっこりして大人しくしていればいいと思っている児嶋さんにもだ。堺も、どうして放っておくんだろう。

 彼女は、残業できる状態にみえなかった。

 朝はそれなりに元気なのだ、でも、夕方になるにつれ、すごく苦しそうな目をする。

 ちょっと怖くなるような目だった。ザーッと音をたてて、白黒の滝が目の前に流れているみたいな、何も見ていない目。一瞬だけだ、そんな目をするのは。でもその瞬間、彼女が見ているのは、生きた世界ではない気がした。

 人がいいのか、疲れているのか、抜けているのかわからないが、そんな人に自分の仕事を押し付けようとは思わない。

 2倍のスピード? 人に自分の尻拭いをさせてさっさと帰れるか。

「私も、残業します」

 横からさらったシートを、児嶋さんは取りあげかえして、苦笑した。

「私は、時間があるからやってることだから。入ったばかりで疲れてるでしょ? 平気だよ。それに、もう私も帰りますから。ね?」 

 こういうとき、彼女は意外と頑固だ。シートを渡してすらくれない。ときどき、焦ったように、つぶやいていた。「麻生さんは仕事が速い、仕事できるよね、追いつけない」と。

 とにかく、児嶋さんがそう言うから、仕事場を出るのだ。

 翌朝、児嶋さんのタイムカードを盗み見ると、8時とか9時、10時までの記録が残っていることがある。

 私のミスのせいで負う残業だけでも減らしたかった。毎日、帰るとパソコンで検索した。本屋でハウツー本を漁った。作業の見落としを減らすための知恵はないか。

 作業が単調なせいで、時間が長くなればなるほど凡ミスが増えてくる。ただ入力、というのは……飽きるのだ。

 なんだろう、このイライラは。もともと、私は、過剰に自分のせいにする人間も、自分で何の対処もしないで弱っていくタイプの人間も、好きじゃない。助けないといけない気分にさせられるからだ。

 助けないといけない気分になっても、私は人を助けない。だからかえって、後ろめたさやモヤモヤだけが残って嫌な気分になる。

 児嶋さんは私を庇う。庇われる必要もないのに庇われると、自分がとても情けない人間になったみたいだ。私がしっかりすれば、児嶋さんはもっと楽になるはずだ――。

 何度となく児嶋さんに言った。やります、と。児嶋さんが残業するなら私もやる、いや、私「が」やりますから帰ってください。

 自分の側の間違いだとか、児嶋さんのミスだとか、社員の仕事だとか、先輩後輩だとか、関係ない。

 私の仕事は速くなっている。ミスも減っている。今の時点では、疲れきった児嶋さんの入力ミスのほうが増えているくらいだ。

 私がやります。帰って、さっさと寝ろ。帰ってください。はい。おやすみなさい。

 ――児嶋さんは意固地だった。

 「期限がある」と言う。「やらなければいけない」と彼女は言う。

 いくらなんでもおかしい。

 堺も、言葉では帰っていいと言っている。言葉では、だが。

 確かに少し前までは、途方もない量の個人情報が懸賞の期限つきで待っていた。でも、もうそんなにしてまでやらなくて済むはずだ。いまのまま分担していれば作業は無くなっていく。期限内に終わる。

 なぜか、今すぐに彼女はやろうとする。残業してでも。ひとりで。

 どうして私を帰すのか? 本当にせっぱつまっているのなら、二人でやるべきじゃないか。

 なんで帰ろうとしないんだ、この人は? 

 目から火でも噴いてしまいそうだった。  

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