果実 第2話

 ある朝のことだ。派遣先の上司の堺がやってきて、児嶋さんの机にUSBメモリーを置いた。

「……これ、昨日、作り直したの?」

 今日の朝イチが期限の、北海道のデータが見えた。

「それ、私が、……」

 思わず椅子から立ち上がると、児嶋さんはやんわりと私を手で制した。

「すみません。伝達ミスしました」

 児嶋さんはそう言って、個人情報1053件分のデータを開いた。

「ここと……ここ、変わるのを、言いそびれてしまいました。すみません」

 堺が、ああ、シートの変更か、と呟く。

 彼女の指さしたシートには、昨日なかった列が追加されていた。顧客の年齢、DM希望かどうかのチェック欄、店舗名と未婚既婚のチェック欄、電話番号の欄。

 しまった。

 メールを見たはずだ。新しいシステムに変わるため、取り込むシートに変更点が出ると。

 変わる欄がどこで、変更がいつなのか。確認しようと思っていたのに、すっかり忘れていた。全自動の機械のように、私は1053件のデータを「昔のフォーム」に入力した。

 あれだけメールに書かれていたのに、入力していて気づかなかった。

「昨日から使うシートが変わること、麻生さんに、全く言ってなかったから。ごめんね」

「……え?」

 呆然自失となっている私を残して、堺は納得して行ってしまった。児嶋さんに「気をつけてね」と言って。

「私のせいじゃないですか!」

 児嶋さんはひょいと私の顔を覗き込んだ。ドクッと心臓が鳴った。

「なんで?」

 本当に、どうしてかわからない、といった表情。

「え、なんでって、……私、児嶋さんからメール、ちゃんともらってましたよ?」

「そうだっけ?」

 そうだっけ、って……。

「どっちみち、切り替わる時期がわかったらまたメールするつもりだったし、当日も口頭で言うつもりだったし。それを忘れてたから」

 掲示板を見れば、切り替わりの時期がわかるとも、はっきりメールに書いてくれていた。

「ごめんなさい……」

 ちっちゃくなって、私は言った。児嶋さんは困ったように笑って首をかしげた。

「まるごと麻生さんに北海道分丸投げして、確認もしなかったのは、私でしょ。同じフォルダに昔のフォームを入れっぱなしにして、一言も触れなかったのも私だよ?」

 あれ。ここでこういう風に笑う児嶋さんて、意外だ。さらっと、嫌味もなく。

「いい機会だから、次から、1000件近くあるデータは、二人で分けて、途中でチェック入れることにしましょうか」

 児嶋さんはニコッと笑った。

 じっと見つめると、児嶋さんは視線にいたたまれなくなったかのように、口元に笑みを残して目をそらした。

 児嶋さんのせいじゃないのに。昨日が期限の、あんな大量のもの、コピペしたってかなり時間がかかるはずだ。チェックも一人でやったというのか? 昨日、何時まで残業したのだろう。知らずにさっさと帰ってしまったじゃないか!

「そんな顔しないで。麻生さん、私の2倍のスピードで入力してるんだから」

 児嶋さんの疲れの残る目じりに、見覚えがあるような気がした。ああ、違う、児嶋さんじゃない。しかも目じりなんかじゃない。高校生のあのころ、好きだった先輩の首筋の汗だ……。ふいに、文化祭の準備で残った夏の日の蝉の声が聞こえる気がして、私はどきっとした。

 その日の夕方、気づいてしまった。

 残業記録があるのは、昨日だけではなかった。9時、10時、11時。私がきっかり5時の定時で上がっているのに、児嶋さんのタイムカードの記録は、8時半を過ぎてからのものばかりだった。  

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