第9話

 目が覚めると、自分の部屋のものではない枕に手が触れた。

 ――しまった!

 体中の血が青く冷える心地で飛び起き、周囲を見回した。

 隆史はいなかった。

「って、あ、あれ……?」

 隆史の部屋でもない。ここは……。

 ガラスの板のこたつ。

「あれ? あれ?」

 体の動きがしばし止まる。記憶がない。まったくない。

 ザーっと音がしているのが止んで、風呂場のドアが開く音がする。

 麻生だ!!

 私は体中緊張し、そして……寝たふりをすることを選んだ。

「あつ……」

 麻生のつぶやきが聞こえ、冷蔵庫を開ける音。なにか飲む音。

 なぜ。なぜ。なぜ!

 なぜ私は麻生の部屋にいるのだ?

 隆史の部屋ならわかる。なぜ麻生??

 枕に顔を押し付けていると、あの日と同じ香りがして、私は急に麻生の指を思い出す。

「児嶋さん?」

 ひょいと、麻生はこちらに意識をむけ、近づいてきた。私が目を閉じているのを確認すると、ベッドの淵に座った。スプリングがきしむ。 私の心臓が、押さえきれないほど、脈打っている。

 温かい熱気が耳の近くに感じられ、……麻生が私の髪を指に巻きつけている。

 私が瞼をわざと動かすと、麻生はびくっと手を引いた。

 麻生の息の音が、やけに近く感じる。私の耳が鋭敏になっているのか?

 そしてその音は、記憶を呼び起こす。

 ああ! もう!

 私は観念して目を開けた。

 麻生はパッと目をそらし、体まで向こうを向いてしまった。髪にタオルを押し当てている麻生が不審な動物のように振り向く。目が合った。

「起きてました?」

「今目が覚めた」

 完全に嘘っぽいが、麻生はそういうことにしてくれたようだ。キッチンへ行き、私の分の牛乳をついで持ってきて、渡してくれる。

「昨日……」

 私が聞きかけると、麻生は首をかしげ、

「抱っこ?」

 と聞いてきた。

「違っ、違っ、違」

 どうしてそういう言葉に聞き違えるんだ!?

 麻生はため息をついた。

「酔っ払ってましたね。昨日」

「そ、そうみたいね」

「どこまで覚えてます?」

「……まったく覚えておりません」

 麻生は眉をしかめて、苦笑いのような、それでも笑っていないような、変な顔でまばたいた。

「酔うと、いつもああなるんですか?」

「私、どうなってました……?」

 私、そんなに酒乱だったっけ? そんなことないと思うんだけど。記憶がなくなるなんてことはなかった。

「記憶がなくなるまで飲んだのは初めて」

「児嶋さんは」

 麻生は一言一言区切るように、ゆっくりと発音した。

「うん」

「昨日、男連れで私の部屋に来て」

「…………」

「ドアを開けたらこの部屋に押し入ってきて。覚えてません?」

 何? そんなことしたのか、私は。

「このままいたら、ホテル行っちゃう、と言って泣くんですよ」

 痛たたたたた……。

 嘘だ、と言いたいけど、昨日の心理状態からして、それは本当だろう。

「隆史さんとやらを帰して、部屋でコーヒー飲んでもらって、とりあえず部屋に置いとくとなんか色々したくなってくるんで」

「……ハイ」

「近くのファミレスに行って、時間潰して、家まで送るから帰ろうねって言って、終電の駅の改札まで送ったんですよ。家まで送るからって言っても児嶋さんが『いいからいいから』といってきかないので、改札まで送ったんですよ」

 うーん。紳士だ。

「で、バイバイして、家の近くまで帰ってきて、後ろ振り向くと、児嶋さんがいたんです……」

 あああ。まったく、覚えていない。

「…………」

 ううう。これは、謝るしかない。

「ごめんなさい」

 大失態だ。

「その後は……もう……」

 麻生は言いかけて、やめた。

「もう……いいや……」

 よくないよくない。そんな言い方されたら、かえって何かあったのか知りたい……ような知りたくないような……。

「なに? なに? 麻生さん」

「いや、だから」

 麻生は名探偵でもあるかのように顎に手をかけながら、言った。シャワーの後のせいで、眼鏡をかけていないのが残念なくらい、それはポーズがきまっていた。

「その後は、ですね。またヒクヒク泣きながら、麻生さんだっこ、麻生さんだっこ! って。児嶋さんが。せがむから。私は、部屋に入れたんですよぅ。で、抱っこしてたら、児嶋さんからチュウしてきて」

「ほ、ほんとう!?」

 麻生はにたにたしている。

「嘘でしょう~?」

「あははっ」

 麻生は手をひらひらさせて笑った。

「どこまで本当なの?」

「チュウ以外は本当ですよ」

「うーん」

「麻生は紳士でした」

「ごめんね」

 麻生を見ると、顔を真っ赤にしている。

「別に、……なんていうか。ちょっと、うれしかった」

 首のうしろをさすりながら、麻生は言った。

「酔ったときは。本当に、危ないから、頼ってくれれば」

「大丈夫だよ」

 麻生は困ったようにこっちを睨んだ。

「怒りますよ? 他の人に酔ってあんな態度したら」

 …………。心配してくれているのだろうか。本当に怒っているような口ぶりだったので、不思議になった。あんな態度? べろべろに酔ったから?

「いっときます。いっときますけどね……。児嶋さんは昨日、悪魔でしたよ。そのパジャマ着替えさせている最中、前のボタンはだけた状態で、また抱っこしろってせまってきましたよ。しかもね、私が……私が、抱っこしてる間に、襲いますよ、襲うけどいいですか?と何回聞いても、うるうる目でこっち見ながら、いいよって言いましたよ。これは本当ですからね?」

「……そ、それで何もしなかったんだ?」

「胸に触ったら、あなたは泣き出して、麻生さんのばか、何もしないでって。で、手を離すと、抱っこを要求してましたねぇ。だからずっとそんなことしてると襲いますよ? って言うと、パジャマの胸のところをさらに開けて、ストリップショーみたいなことを」

「うそっ!」

「嘘じゃないって。踊ってましたからね。家に帰そうとは思いました。でもタクシー拾わないと電車もないし、帰る途中とか路上とか、自宅のベランダとかでそれされてもアブないから。ストリップショーあたりで、さめたというか、こっちも冷静になってきたし。いい子だから寝ましょうね、ってなだめて、抱っこして寝かせてあげましたよ」

「そ、それはどうも……」

 麻生はにやっと笑った。

「どうも、ありがとうございました……ご迷惑を」

 背中を冷や汗が流れている。

「シラフな状態なら聞いてもいいと思うんですけど」

 麻生はずるそうな目つきをしてずいと身を乗り出した。この子は、聖母のような表情とオヤジのような表情と、小ざかしい表情と……いろんな顔をする子だな。

「酔ってるあなたに何もしなかった麻生へのプレゼントとして、酔ってない児嶋さん抱っこしてもいいですか?」

「へっ?」

「ベッドで」

「いやっ、あの」

「酔ってると、反応つまんないし、なんか手篭めにしてるみたいで悪い感じがするんですけど、酔ってない状態だと、割とやりたいほうだい悪気なくしやすいというか」

 ……は!?

「……麻生さん、ぜんぜんこの前のこと反省してなかったんじゃないの」

 情けなくなって言うと、麻生は近づいてきて、私の手首を持った。

 そのまま背中に手を回して、自分の手を私の背中のクッションにしながら、押し倒してきた。

「…………」

 私は息を呑んで麻生を見つめた。麻生は覆いかぶさってきているせいで翳った目で見返してきた。この前の乱暴さとは打って変わって、今日は少しやわらかい。

「反省ってなに? この場合、麻生が反省するべきなの?」

「…………」

 じっと見つめあうこと7秒。

 麻生はあっさり手を離した。

「ごはん食べましょう。朝ごはん。もう昼ごはんかな? 煮付けと、オクラのおひたしがあるんですけど、パンしかありません。それでいいですか?」

 くるくるとした巻き毛がぴょこぴょこ跳ねたまま、キッチンを移動する。

「それと、プレゼントは4つ欲しいんですけど」

「は?」

「プレゼント4つ。昨日隆史さんから守ってあげたぶんと、泊めてあげたぶんと、ゴハン代と、昨日何もしないであげたぶん」

「は……はぁ……!?」

 麻生は振り向き、にやっと光に満ちた笑顔をみせた。このまえ泣きそうになりながら「目を見てくれ」と訴えたのと同一人物と思えない。この調子のよさはなんだろう。

 冷蔵庫からオクラだのなんだのを盆にのせて持ってくると、テーブルにおいて、私の真横に正座して姿勢を正した。

「2択にしてあげる。」

「な、なにが」

「一つ目のプレゼント。今から麻生が児嶋さんを襲うのと、麻生とこれからごはん食べながらこのDVDをみてオウチデートするのと、どっちがいいですか?」

「…………」

「二つ目のプレゼント。今から麻生が児嶋さんを襲うのと、毎週一回だけ私とそういうオウチデートするのと、どっちがいいですか?」

「あーー、うーー……」

「三つ目のプレゼント。今から麻生が児嶋さんを襲うのと、これから他に人がいないときは私のこと『はるか』って呼ぶのと、どっちがいいですか?」

 なんというか……選択の余地がない2択ばかりのように感じる。

「四つ目のプレゼント。今から麻生が児嶋さんを襲うのと、……」

 麻生はじいっと私を見た。見つめて、口をひらきかけた。が、ふりきるように首を振った。

「……ん……まぁいいや。そうですね。隆史さんと会った後は私の家に泊まるのと、どっちがいいですか」

 本当は、会うな、と言いたいようだった。しかしそれではちょっとハードルが高すぎると判断したのだろう。眉をよせている。

「ただし、隆史さんとラブホとかで休憩、も駄目です。まっすぐ、うちへ来ること」

「麻生さんは……」

 麻生は首をかしげて、

「はるかと呼ぶより、襲われるほうが?」

「いや、違うけど、麻生……」

 麻生はずいと近づいてきて

「なに?」

 と聞いた。

「…………」

「どう呼ぶことにしました?」

「はるか。」

 私は観念して、言った。

「はるか」は、花が咲いたように顔をほころばせた。

(なんて素直に笑うんだろう……)

 はるかは、まるで初めて口紅をつけた少女が嬉しそうにうつむくみたいに、口の端を微笑ませたまま、目を伏せて、パンを切り分けた。

「はい」

 両手で私に差し出して、目が合うと、首を振って笑い出した。

「まいったな、けっこう恥ずかしいですよね」

 おどして言わせた割には無邪気なものだ。

「麻生、恥ずかしい~!」などと言って一人で頭を打って騒いでいる。うかれたテンポでパンにマーガリンを楽しそうに塗っている。手つきがなんだか不器用そうというか、ぎこちない。

 隆史も、そういえば最初の頃は、ぎこちなかった。麻生も、しばらくしたらこのぎこちなさを消して、隆史のようになっていくのだろうか。

 純粋そうなそのぎこちなさを、不器用さを、昔隆史に感じたように可愛いと思うことができない。可愛い…可愛いけれども、自分の心が変わってしまうことを知らない、幼子の決意のような可愛さ。

 逆に突いてしまいたい隙のような気がして、私は攻撃心のようなものを抑えるのに、少し苦労しなくてはいけなかった。

 DVDは、もしやエロDVDではないかと疑っていたが、そんなことはなかった。海外のアニメの短編集だった。

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