第10話

 その日の夜から、隆史からのメールが何件も入るようになっていた。

 次はいつ会えるのか?

 いい友達ができたようで安心したけど、あれ誰?

 未来が行きたがっていた遊園地に行こう。会社に迎えにいくから。

 私は、最後の一文に関してだけ、メールを帰した。会社に迎えにきてもらうのだと困るから、そういう時は本屋で待ち合わせにしない?

 どうして私は隆史を振ってしまわないんだろう。わからない。今は私に集中しきっているように見える。他の女性の影もない。プロポーズもされた。

 はるかは……はるかは、結婚などできない。それに、もう私に手を出さないと言っている。振る振らないもなかった。どうせ一時の気の迷いで私に入れあげているだけだ。隆史のほうは、もう何年も付き合っていたのだから……。

 私は、隆史といるところをはるかに見られるのが怖かった。そのあと、はるかの家に泊まらなければいけない約束など関係なかった。そんなものは、単なる約束だ。隆史と夜を過ごさせないためだけの。

 私が隆史と泊まりさえしなければはるかはそれで安心する。隆史と会った後のような異常な精神状態の時には、かえって私を気遣ってくれることもわかっていた。

 それでも、何度も隆史と出かけるのを見られるのは怖かった。はるかに、「可能性がある」と思わせたかったのかもしれない。そうしたら、はるかは私から離れていかない。隆史と継続的に会っていることを知られなければ。

 私は、隆史と会ったのがはるかにばれてしまったときだけ、はるかの家に行った。でも、約束どおりに泊まることはなかった。泊まらなくても、はるかのもとに帰ってくれば、彼女は安心して私を家に帰したからだ。

 はるかとは、オウチデートなるものも続けてはいたが、どんなに疲れてしまっていても、泊まることはない。一緒にベットを背にもたれて、DVDを見ることはあっても。

 はるかが髪をなでる。はるかの肩に頭をもたれる、そんなことはある。はるかはそんなとき、幸せそうに私の頭に自分の頭をこつんとぶつけた。でも、はるかがじっと見つめてくれば、目をそらして空気を変えた。はるかの方でも、肩を抱くことまではしてこなかった。

 はるかの気持ちを受け入れるには、まだ自分を納得させる準備ができていなかった。でも、今はるかに離れていかれたら……。

 はるかと隆史、両方の気持ちが私に向かってくる。メールが入ってくる。はるかが私の家に遊びにくることもたまにはあって、彼女はお気に入りのマグカップを持ち込んだ。一人暮らしの部屋はもう寂しくはなかった。

 


 

 隆史は徐々にストーカーのようになっていった。駆け引きという毒薬が効いているのかもしれなかった。

 毒を少しずつ混ぜて、甘い蜜の香りを追わせる。

 おいで。こっちにおいで、こっちにくれば、私に手が届くよ。

 そうしておいて、私は隆史をじっくりと観察していた。

 許される、手が届く、と思って隆史が伸ばす手。大きな、かつて太陽の香りのした手。じっと見たままで拾わずに無視すると、隆史はその男らしい節くれ立った、頼りがいのある指を力なくだらんと下げて、暗い目で私を見るようになった。私の中にあるのと同じものが目の奥に見える。笑いたくなる。弱った虫でも見ているかのような気分にさせられる。

 滑稽で、かわいい、小さなかわいい虫。私の体によじ登り、蜜を吸えずにぶら下がっている。

 そんな隆史に対する気持ちは、浮気されても隆史を完全には思い切ることができない、自分への嫌悪だったのかもしれない。

 二ヶ月を過ぎる頃には、隆史からの連絡の多さに、はるかといても気まずくなる回数は増えていた。一緒にいるときに隆史から電話がかかってくることがあるのだ。そんなとき、はるかは口をへの字に曲げて黙ってそれを聞いていた。

 なるべく短く答えるだけにしていたし、はるかのいるところでは会う約束もしなかった。それでも、ときたま会ってはいたし、いついつ、というように会う約束をしなくなるにつれて隆史のほうで焦ってきたのか、かえってまめに私に連絡を入れるようになっていた。

 それが何度も続いた頃、はるかは、私の携帯を見るだけで口をへの字にするようになった。携帯のメール着信を知らせる点滅が青く、こたつの上で光ると、はるかの部屋は青い光の点滅で宇宙空間のようになる。人間は呼吸ができなくなる。

 私は、うっかり携帯をこたつに置いたことを後悔して、かばんに入れようとする。その手を、はるかは携帯ごと押さえた。

 はるかは黙っていた。重かった。

「もう、だめです……」

 私は何も言えない。

「ひどいじゃないですか」

「…………」

「児嶋さんがですよ。ひどいですよ。ずるいです。私は今、児嶋さんには手が出せないじゃないですか。約束したから。こういうものを見せ付けて何か楽しいんですかね?」

「…………」

 いきなり激して、はるかの声が大きくなった。

「児嶋さん、本当に性格がわるいですよ!!」

 私が、駆け引きをしたりするのは、男性相手ではよくあることだった。でも、はるかに対しては、そこまでのつもりはなかった。女は女の駆け引きのしかたがわかってしまうから。

 はるかにも、指摘されるくらいだったから。

 だから、はるかに対してのこういうのは、駆け引きのつもりではなく、……本当に駆け引きのつもりではなく……。

 はるかは眉をよせて鬼のようにもみえる皺をひたいに作っていた。その皺が、私と目を合わせている間に、だんだんと緩み、穏やかになって、怒りの炎めいた熱気がため息になってはるかから抜けていった。

「なんでそんな目で見るんですかね?」

「はるか、……」

「ん?」

 はるかは、私の言葉を待ち、私の唇が何も言葉を発しないとわかると、私の肩に手をのばそうとし、やめて、目を伏せた。

「友達でいられるなんて嘘です。児嶋さんが……児嶋さんの気持ちがほぐれるのを、待っちゃってる自分がいるんです。でも、友達でもいいんです……」

 はるかは私の手を引っ張り寄せた。両手で私の指をひらいて、携帯を取って、こたつに置いた。そしてそのまま私の手の指の間に、自分の指をすべりこませて握ってきた。

 どきりと心臓が鳴る。私はもうどうしていいかわからなくなる。自分から手を振り払ったほうがいいのか、そのままで話だけは聞いたほうがいいのか、まったく判断がつかなくなる。

「いつ会いましたか?」

「え? 何?」

「隆史さんと最後に会ったの、いつですか」

 正直に――

 正直に、答えようかどうか、迷った。迷ったが、本当のことを答えた。

「おととい」

 はるかの呼吸がとまった。

 どこか、わき腹でも痛いかのようなしぐさと表情をして、はるかは浅く息を吸って、吐いた。

「もう、……」

 そのまま、私を背もたれになっているベットに押し付けて、私の肩に額をのせた。空気が熱く湿っている気がして、私ははるかが泣いているのかと疑った。

「児嶋さん、はるかはもうリタイヤです。きめてください」

 決める……なにを。

「隆史さんとはもう付き合わないって決めるか、私ともう会わないか、きめてください」

 心臓が高鳴りだした。言い訳がましく、私は言った。

「隆史とは、もう付き合ってない」

「デートしてるじゃないですか」

「会ってるだけで、手もつないでいないもの」

 それは本当だった。

「私が、隆史さんと連絡をとってデートしている児嶋さんを見ていられないんです。手をつないだとかそういうのは関係ない」

「はるか」

「友達でもいいです。でも、はるかと友達でいたかったら、隆史さんとはもうデートしないでください」

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