第13話

 本屋で、雑誌を見ていると、隆史が遅れてやってきた。

「ごめん! 仕事が入ったから行かないといけないんだけど、話したい。さき帰ってて」

 隆史が合鍵を放ってよこした。別れてから、まだ一度も部屋には入っていない。

 一度成り行きで隆史についていき、その鍵を開けるのを見た。前と同じ、いつもと同じ部屋の空気が感じられた。私はそれに怯えて逃げたのだ。はるかとの約束を思い出したからではない。別れる前の空気が漂ってきたから逃げたのだ。

「行かないよ!」

「待ってて。たのむよ」

 返したはずの合鍵が、手元に戻ってきた。私のつけたのとは違うストラップがついていた。

 小さな、300円ショップで買ったような白い玉の沢山ついたストラップ。

 私のつけたのは違う――。私のつけたのは、私の好きな、クマクマのストラップ。自分の携帯とおそろいにした、クマクマのストラップだ。お茶のペットボトルに付いてくるおまけで、お茶を飲んでいるやつだ。それに、白い玉を追加でつけたもの。同じに見える――かもしれない。隆史には。

 今付いているクマなしのストラップは、きらきらと揺れて、「きれいでしょ? わたし」とでも言っているかのように見えた。

 隆史がやるわけない。

 ぐらり、と本たちがうねった。

 この前、私が部屋に入らなかったあの晩、この鍵にはまだ私のストラップがついていたはずだ。

 確かめなくては……このぐらぐらする、めまいのようにはっきりしない何かを、整理しなくてはいけない。

 その辺の、読みたいとも別に思わない本をなぜか一冊手にとって、会計に向かった。この時の私は、なにか買って落ち着きたかっただけだったんだと思う。

 隆史が部屋に戻ってきたのは、10時を過ぎてからだった。

「未来!」

 玄関先でまるくなっている私に、隆史は驚いたように声をかけ、背中をさすった。

「なんで中に入らないんだよ!」

 なんとか喉から押し出した言葉は、小さな声にしかならない。

「入ったよ」

 はるか。はるか。助けて。はるか。

「入ったけど……もうここに来るのはいやなの」

 昔のとおりに、私の歯ブラシはコップにささっていたし、私の選んだタオルもきちんとかけられていた。

 でも、コーヒーを淹れてミルクを垂らそうとすれば、冷蔵庫の中に見慣れぬ使われていないドレッシングが入っている。かき混ぜようとスプーンを探せば、見知らぬスプーンが1セット増えている。

 隆史、あなたは、雑貨屋めぐりは嫌いだよね? このスプーンは、自分で買ったもの? ごまだれのドレッシングを選んだことは、一度もないよね?

 部屋のぬいぐるみに、新しい女物のパンツをはかせるような趣味は、なかったはずだよね? お客様はぶらし三本セットが一本なくなっているのはどうして? 部屋がまったく男臭くないのは?

 それなのに、それが言えない。言ってしまったら、あなたが浮気をしたことを、今もまだしていることを言ってしまったら、もう二人は戻れない。

 言わなくても、もう戻れない。

 自分の息を吸う音が、震えて、不自然に聞こえた。

 私がはるかに与えた苦しみを、今度は私が隆史から受け取っていた。隆史が私の肩をつかむ。肩から、じんわりと伝わってくるものは、はるかから感じるような温かいものではなかった。

「とにかく、入ろう」

「いやだよ」

「じゃあ、ホテルに行こう」

 信じられない、という目つきで見上げる私に、隆史は小さく言った。

「本当に話したいんだよ。家が嫌なら外でもいいけど、大声を出してしまいそうだから」

 隆史――。

 大声を出してしまいそう? どうして? それはこっちのセリフだよ。何を話したいの?

 家には入りたくなかった。ホテルも嫌だった。

「喫茶店で」

 隆史の車に乗ってから、そう言うと、隆史は黙って車を発進させた。

 着いた先は、またしてもいつものバーだった。

「未来、このスパゲティ好きだよな? これと、あと、なにか適当にカクテルをお願いします」

 このスパゲティ好きだよな……。

 大嫌い。大嫌い。大嫌い。

 私は話し合いに来たことを忘れた。

 だんまりを通した。目の前でカクテルだけがいろんな色で運ばれてきて、いつのまにかなくなっていく。甘いけれど、味がわからない。トイレにたつと、自分が酔っているのがわかる。

 なにも聞きたくない。

 苦しいのに、口元だけにやにや笑ってしまう。酒の力は偉大だ。はるかならなんていうだろう? お酒よりお菓子のほうがいいです。そう言うかな。

 意味もないのに笑って、隆史とくだらない話をする。パスタに入れられたプチプチとした食感のなにかが、今日は砂を噛んでいるかのようにむなしくはじける。熱々のはずのチーズは乾燥している。食べるのがいつもより遅いせいだ。

 二人の合間に黒い水たまりのような空間が見える。黒くて、何もなくて、真夜中の海のように下に気味のわるい静けさを隠している。海のようには広くない。水溜りだ。ただの。

 帰りに、隆史は私を抱きしめた。

「俺が悪かった。俺が飲ませたのが悪かった。また次に会うよね? ちゃんと話そう」

「もう会わない」

「なんで」

「もう会わないよ」

 言った。息ができるのは、酒のせいだろうか。気持ちがわるい。

 私は、吐いた。隆史は、私の背中をさすって、しばらくしてから車に乗せた。足元がふらついて、車の踏み台にすねをぶつけた。あまり痛みを感じなかった。

「ホテルに行くよ」

 私は答えなかった。

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