第12話
そう簡単には、いかなかった。
いざ別れるとなると、隆史との年月が毎晩のように寝る前に自分のまわりに渦巻いて、急に宇宙に放り出されたかのような気持ちになった。
隆史になんて言おう。
もう会わないことにする。そう言えばいい。そう言えばいいのだ。言葉はもう決めてある。
でも……隆史と別れて、本当に後悔しないのか?
はるかを失いそうなときには、後悔しないと思えた。でも、隆史といざ離れようとすると、躊躇してしまう。このまま付き合っていけば戻れたかもしれない温かい昔の空気。もう二度と戻ってこない。
二人に子供がもしもできたら、どんな名前にしたい? 明るく聞いてきた隆史に、隆史が浮気をするなんて思ってもいなかったころの私は素直に答えた。
隆史の会社に提出する文章を、いっしょに考えたこともあった。俺苦手なんだよこういうの。これ、ほら、一応作ったんだけどさ、語尾とかこれでいいの? てか俺字ぃ汚い。
今はそういうとき、どうしているのだろう。隆史に対してそこまでやってくれる人間は、いるのだろうか。
結婚しようと言ってくれるということは、隆史は別の女と付き合って、やっぱり私がいいと思った……そういうことなんだろうか。それとも、私と同じように、離れてしまうとなると急にその相手がかけがえのない相手にみえてくるだけのことだろうか。
私のこの気持ちは、一過性のものなのか?
隆史と寝たら……嫌な苦さが口の中に広がる。
寝たら、なにかわかるだろうか。やっぱり体が、心が、隆史といるほうを欲していると、わかったりするだろうか。離れたままではわからないことが、わかるのだろうか。触れ合ったら、気持ちが戻ってしまうだろうか。それとも、もう隆史ではない、とはっきりするだろうか……。
いつも誰かと別れるときに訪れる、ぐんにゃりとした黒い自分が、私をいらいらさせる。このぐんにゃりした計算だかい自分が、私を守ってもくれている。
はるかは、こんな考え方をすることなんてあるんだろうか。
ないんだろうな、とすぐにその考えを払いのけた。私の今まで付き合ってきた人間のなかで、はるかは一番ピュアに見える。
ああはなれない。私は。
はるかは、直接人をまっすぐに見て、自分の気持ちをまっすぐに伝える。それがドロドロとした嫉妬であっても、はるかの嫉妬は汚くはなかった。
今日別れる、と私が告げたあとも、はるかは私のことを他の男性のように神聖視して、勝手に作り上げるようなところもなかった。たとえば……はるかは、次の日、こう聞いてきた。
「児嶋さん」
「ん?」
「別れたとき、最後に何かしました?」
別れてない――まだ別れてない、そう言えなかった。
気がつくと、はるかは肘をついたまま至近距離にいた。
「なにが……?」
「だから隆史さんと。何もなかったんですか、昨日」
変な冷や汗が背中を流れた。やきもちを焼いているのだろうか? そう思って見ると、はるかは真剣な目をしていた。焼きもち……とも違う目をしている。
はるかは、完全に私の性格をわかっている……。
「しなかったよ」
とうとう嘘をついた。きちんと別れる前に、「別れた」と嘘を言ったのだ。なにもしなかったのは嘘ではないが、別れたのは嘘だった。
私には、まだ隆史への感情を自分の体で確かめるだけの勇気もなかった。そんなことをしたら、壊れてしまうかもしれない。隆史を許していないのに、そんなことをすれば、たぶん神経のどこかが焼き切れてしまう。
会って、もう一度だけ会って、そして自分の気持ちをもう一度だけ確かめよう。そんなもう一度が、もう何回も続いていた。
その間、虫は、小さくなったり、大きくなったり、可愛くなったり、うねる害虫のようになって私に侵食する気持ちの悪いものになったりした。そして、ある時はスーパーマンになって私をその頼りがいのある腕を差し出し、そのあと霧のように消えてしまったりした。
「もう、隆史のことは、ほんと受け入れられないみたいで」
「私のことは?」
「え?」
はるかは、はるかにしては珍しく、目を伏せたまま言った。
「私のことは受け入れられますか?」
心臓がはねた。
どういう意味で聞いてるの?
はるかの手が、黙って、唇の横を撫ぜた。
声が出ない。
はるかも同じだったのかもしれない。
苦しそうに息をする音が聞こえた。
「あの」
「返事、してください。私じゃなくたって、誤解すると思いますよ!」
こ、怖い。
「わからないよ」
本当に、わからなかった。
その答えかたが、ずるい答え方だと思われるのもわかっていた。
でも、本当に、自分がどうしたいのか、わからない。受け入れる……なにを? どこまで?
「たとえば、いま、キスしたらイヤなのかどうかって!」
敬語をすっとばして、焦れたはるかが小さく爆発した。
1秒、2秒。3秒はかからなかった。はるかは、私に体重をかけてしまっていることに気づいて、体を離した。
「ゴメンナサイ! ちょっと……もうあの、いや、あのですね、ゴメンナサイ」
目をそらして、頬をじぶんの手のひらでペチペチとたたいている。
「うう~」
うつむいて、体をまるくして、うなり声を上げる小さな体。
抱きしめたい、という欲求があがってくる。
でも、抱きしめてしまったら、……多少の拒否感が皮膚にバリアを張る。はるかは、あの日のように暴君になるかもしれない。ならないかもしれない。
この拒否感は、はるかそのものを嫌なのとは違っていた。この前よりも強い拒否。
たぶん、ここではるかを許して突き進んでしまったら、もう言い訳ができない。自分の気持ちに言い訳ができない。はるかを選んだということに、責任を持たなくてはいけない。自分の行動に。それに抵抗があるのだった。
言葉では、はるかと離れるのが嫌さに、隆史をあきらめることを誓えた。気持ちも……はるかを失えない。今はまだ別れることができなくても、多分その通りなのだと思う。
でも、受け入れられるのかといわれると、まだ「完全に」ではない。
体は、はるかにあの日に溶かされてしまっている。だから体がはるかを避けようとしているわけでもない。体が、ではなくて、心が、いやむしろ頭が。私の計算高さが、はるかを「完全に」受け止めていいものかどうか、まだ判断する時間の余裕をほしがっている……そんな感じだった。
「キスだけなら」
私は言った。
「ゆっくりとなら」
「イイデスヨ。無理シナクテ」
思い切り無理のある声で、はるかは言った。
「いつかは最後まですることになるんですから」
ん?
何か言ったぞ。今。
「どこまでならストップ! って思わずに済むか、確かめてみるのもいいと思うの」
はるかはこっちをちらりと横目で見た。疑りながら出されたエサを盗み見る、かわいくない猫のような目つきをしていた。
隆史からの多すぎた電話やメールは、このところめっきり減っていた。私がまた隆史と頻繁に会うようになったからだった。夜の11時きっかりにメールか電話があって、それで次の約束をする。ちょっと長話をして、それ以外はかけてこない。
連絡が異常に多かった時期は、別の男と会っているのだろうと不安でかけていたのだと言う。沢山会うようになったので、はるかといるような時間にかけてくることは少なくなったのだった。
私は、はるかと暮らしたらどうだろうと夢想するようになった。家に帰ったらはるかがいる。はるかが、腕の中に迎えてくれる。それを想像しただけで、体の中がほっこりと温まる。
または、もう空気みたいになってしまって、帰るとはるかが、何か作業をしている。ただいま、というと、こっちに顔を向けて、「ん」と、あの思いきり温かい笑顔を向けてくれる……。夜寝るときは、当然のように、はるかが待っている温かい布団に私が入っていく。または、私が寝ている布団にはるかが……。
急に、自分が想像していることが、とんでもなく今の状態の先を行き過ぎていることに気がついて、恥ずかしくなった。布団に潜り込んだ後の想像にまで行きそうになったからかもしれない。
でもそういう妄想は、はるかとオウチデートを続けるうちに、どんどん具体的な絵になっていった。多分、はるかがそうしてくれそうなそぶりをするから。はるかの家にいると、まるで自分の居場所のように感じられるから。その腕にもう一度包まれたいから。
女同士でお決まりの結婚イメージみたいなのを描いてしまっている自分にも笑えるが、家庭的な空気というものにだんだんあこがれるようになっていた。
そして、そのあこがれは、隆史との関係を長引かせる理由にもなっていた。食事して、映画を見て、水族館へ行って、お茶して、……別れ話は出なかった。
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