果実 第8話
児嶋さんに彼氏がいないと確信したのは、毎日のように喫茶店に行くようになってしばらくしてからだ。
「だって、いま仕事なくなっても、なくなったら、なんだか……」
頭の中に同じセリフが何回もまわっていた。日課のように誘ったのは、そのせいもある。
彼女にはデートの予定がなかった。毎日暇で、寂しそうにしていた。
彼氏がいない暦何年とかいう人間は、別の予定を持っている。友達と遊ぶ。お稽古に行く。もっとなにかあるはずだ。いままでちゃんと埋まっていた予定がなくなったんじゃないだろうか?
あの日、洗面所で、児嶋さんの手首が異常に軽く感じられたのを思いだす。ぽっかりと空いた空洞には、なにか大事なものが詰まっていたはずだ。
でも……なんとなく、聞けなかった。
恋愛相談にでも乗ってしまえば、彼女のことがもっと深くわかるだろう。
だけど、聞いて、私は普通に受け答えができるのか。本当はうまくいっていて、惚気られたりでもしたら? だれかへの感情を真剣に語られたりしたら?
温かいものが飲みたくなった私は、給湯室へお湯をもらいに行った。
そこで掃除をしていたおばさんに、「お疲れさまです」と声をかける。世間話の好きそうな、人のよさそうなおばさんはこちらを見て、ちょっとニコッとしてくれた。
そして、
「あなたが来てくれてよかったわ」
と言った。
「…………?」
「ほら、いっしょにいつも隣にいる子、いるでしょう。あの子、あなた来てからすこし元気になってきたのよね」
「え?」
「ちょっと心配しちゃってたのよ」
「児嶋さん……ですか?」
「名前は知らないけど。急に、何食べてるんだってぐらい痩せちゃったでしょ。もっと元気で、笑顔も多かったんだよ。ただほら、女の子ってやっぱ、恋愛でね」
心臓がどきんとした。
「いっつも、会社の下に迎えにきてた子がいてねぇ。可愛い感じの男の子でさ。しょっちゅう見かけてたのに、最近ぜんぜん見なくなっちゃったしね。まぁ、だいたい、女の子がおかしくなってくるのは、恋愛だからねぇ」
やっぱり、恋人、いたんだ。
当たり前なんだろうけど、児嶋さんに男の恋人がいたということに一瞬だけ気分がしずんだ。期待してはいないつもりだったが、つきあいが長くなっていくと、児嶋さんにはどこか、状況によっては同性でも受け入れてしまいそうな空気、匂い、そういうものがある。私はその匂いに、妄想といっていいほどの期待をしていたかもしれない。
それでも、言葉が耳元で繰り返し鳴っている。
――あの子、あなた来てからすこし元気になってきたのよね。
体がぼうっと温まっていく。
席に戻ると、児嶋さんが私を見上げて、出力済みの帳票を差し出してきた。
「お願いします」
大きな瞳がうるんでいる。そのままぎゅうっと力をいれて抱きしめたくなった。
神様――。私はこの感情がなんなのか、わからないです、感謝なのかもしれない、胸が熱くて、言葉にできない。
うるんで、やわやわと不安定な人。とにかくそばにいて守ってあげたい、転がる声をずっと近くで聞いていたい。
聞くのはやめよう。児嶋さんに恋愛のことを不用意に聞くのは。
わかっているじゃないか。大切な人との関係が終わることがどれだけ苦しいのか。沙耶と別れたときに、よくわかったはずだ。
どこにいても、道を歩く誰をみても一人の人間の影をさがした。カラオケになんか行けなかった、歌を聴くこともできなかった。涙がでそうで、彼女を思わせる単語を聞くのがつらかった。もうだれかと付き合ったりするものかと思った。
せっかく笑顔をみせてくれるようになったんだ。思い出させるようなこと、しなくていい。
口元が緩んだ、人懐こそうな男が、会社の入り口に立っていた。初め、会社の関係者かと思った。男はポケットに手を入れたり出したりしながら、こちらをずっと見ている。
「どなたかお待ちでしょうか?」
「あの、えーと、カノジョを待ってます……」
カノジョ。いやな予感がした。
「児嶋さんですか?」
「ああ、まあ、はい」
男は目を見開いた。
こいつか。
私は、やってはいけないことをした。
さっき温かい気持ちだったはずの人間は、本当に自然に、突然卑劣になった。
「もう帰りましたよ」
自分の口から出る言葉よ、呪われろ。
児嶋さんはただ手洗いに行って遅れているだけだった。
終業時間前から待っていたのだろう。不思議そうな表情をして、彼はカバンからシステム手帳を取り出し、ペンを走らせた。
「あの、これ、渡しといてもらえませんか? 連絡、つかなくなっちゃってるみたいだから。明日渡してもらえればいいんで」
破って渡してきた紙には、殴り書きの文字が並んでいる。
携帯の電話番号と、名前。
――連絡がつかなくなっちゃってるみたいだから?
ドクドクと、自分の心臓の音が耳元で響いている。
連絡がつかないから、二人は何ヶ月も合わなかったのか? 後藤隆史とやらは海外にでも行っていたのか? 連絡がつかない、それだけの……。
児嶋さんは、連絡がつかないことで、夕方あんなにも苦しそうにしていたわけか? 連絡がつかない、それで給湯室のおばさんが心配するほどやせ細って。
それとも。連絡がつかないと思っているのはこの男だけで、児嶋さんのほうで連絡を絶ってるんだろうか。
男が去ってしまったのと入れ替えに、児嶋さんが走ってきた。白いコートをすっきりと着こなして、走ってきた児嶋さんの息は切れていた。
体の中で、ちいさな嵐が暴れている。
胸の中が掻き毟られるような感じがする。
会えないことで、あんなに苦しい表情をさせるような、大きな存在がこの人のなかにある。
渡したら、どんな顔をするだろう?
ぱあっと嬉しそうな顔をするだろうか。すぐに電話をかけるだろうか。ありがとう、とにっこりと笑うだろうか。奇跡みたいに可愛い笑顔なんだろうか。
胸の奥で、いやだ、渡したくない、いやだ、そう叫んでいるのがいる。いるのに、彼女の笑顔をみたがって、私の手は素直に電話番号を渡していた。
「…………」
彼女は笑わなかった。
真顔になった。大きな目を見開いて、隠すかのように、すぐにそれをポケットにしまった。見たくない、とでもいうように。
ぎゅうっと心臓が痛みを訴えた。思わず声をあげかけて、呼吸ごと押さえつけた。
ポケットにしまったあと、児嶋さんの手はそのまま、ごそごそとポケットの中で動いている。うつむいた頬に赤みが差している。
どうしてこんな顔をするの?
携帯電話を探しているの? 何がしたい?
彼女の中で、なにかが震えている。伏せた目の中に、切ない光が宿っている。
嬉しい? なんで……泣きそうな目を。
近くで見守っていたい。電話するならすればいい。なにをするんでもいい、そばにいたい……。でも、温かい気持ちの中に混ざっている熱情がもう、コントロールを失いかけて荒れ狂っている。
コートのポケットから出てきた、自由になった児嶋さんの指が、鞄の紐をぎゅっと握りしめた。私の直感は鋭い、だいたいは当たるのだ。この人は、今日は喫茶店に行くのをやめる。すぐに必死な顔で電話をかける。
児嶋さんは私の視線に気付いて、目をそらした。赤みを帯びていた肌色が、ふっと急に冷たくグレーがかってみえた。生きた肌が、鉄のシャッターになってしまった、彼女はもう私に内心を読み取らせまいとしている。
急に心にむくむくとした暗雲がたれこめた。
いじめたい。プニプニした、いつも冷静な頬をぎゅうっと伸ばして両手で包み込んで挟んでやりたい。身体の一点に生まれたのは、ちょっとよく自分でもわからない衝動で――でも、わからなくても問題ない。たぶん、本当は何もできないから。
「あの、うちに、きませんか?」
そう言ったとき、私はほとんど何も考えていなかった。告白しようとか、彼のことを聞こうとか、そういうつもりもなかった。
「夜に電話したほうがつながりませんか? 用事があるから先に帰るって言ってましたよ」
私は、ただ、彼と会わせたくないだけだった。この日、どれだけ嘘をついただろう。私が児嶋さんだったら、こんな人間は好きになれない。
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