果実 第9話
私の部屋の中で、児嶋さんはぽつんと小さく見えた。
わざと、隣に座る。かすかに伝ってくる香りに、頭がくらくらする。同じ空気を吸っている。私のいつも使っている茶碗に口をつける。麻生さん……名前を呼ばれた耳がくすぐったい。あまりに近すぎて、児嶋さんの顔が見られない。
どうしてこんなにころころと感情が変わるようになってしまったんだろう。
さっきまでの気持ちを忘れて、私はうかれていた。
児嶋さんは気付いているだろうか。気付かないものだろうか、こんなに私は普通でいられないのに。
無理に隠すのは、やめよう。
自分の気持ちを隠すのに必死だった高校時代、結局私は先輩にまとわりつきながら、先輩にできた彼氏を応援し、鬼の宿った目で彼女を見つめ続けた。そんな私を、沙耶が変えてくれたのに。
気付かれないようにとか、近づかないようにとか、そういうことは極力考えないようにしよう。せっかくこんなに近くにいられるんだから。
児嶋さんだって、私が動揺することも知らずに、顔を近づけたり上目遣いをしたりするし。お互いさまだ。許してほしい、すこしぐらい、本物が思わせぶりをしちゃうことがあったって……。
しばらくして、児嶋さんはぽつりと言った。
「やっぱり、電話、してみようかな」
漫画のような擬音語が似合う瞬間はあるものだ。
「コート、取ってきますね」
――ばかみたいだ。
視界がゆがんできて、私は児嶋さんから逃げた。
コートを返すまえに、勝手にポケットを探った。さっき彼女がメモを入れた、左のポケット。
手の中に、くしゃくしゃになった紙が出てきた。
ああ、握り締めてたんだ、児嶋さん……。
私はコートとメモを持ったままトイレに入って、ドアをしめた。
顔を見られたくないと思った。
週に何回、隆史さんは、会社の前に立っているようになるんだろう。彼を見て、児嶋さんは、私に「じゃあまたね」と言い――彼の腕に手をまわす。映像がちらついた。
…………。やってしまいそうになった。
メモを、トイレの中に、故意に落として。レバーをひねる。
そんなことしたら、あとで絶対に後悔する。これは児嶋さんにとって大事なものなんだ。はるか、児嶋さんの、大事なものなんだから。考えるな。
児嶋さんががっくりと肩を落としている姿が目に浮かんだ。
紙を流してしまうのは――やめた。当たり前だ。友達だったら。人として。でも、自分を落とさないでいられたのはそこまでだった。
私は結局、児嶋さんにいじわるをした。握ってぐしゃぐしゃに丸まってしまっていたメモをたたみなおして、自分のポケットに入れてしまった。今、すごくみにくい顔をしているはずだ。
「…………」
コートを渡す私の顔を、児嶋さんは不思議そうに見上げたが、何も言わなかった。
ポケットを探ると、
「さっきの電話番号なくした」
とだけ言った。
電話なんかさせてやらない。メモなんてもうない。どのみち、折り目のついたメモを私が後からポケットから出してわたすなんて、不自然すぎる。これを児嶋さんの前に出すとき、たぶん私は彼女に感情をぶちまけている。
あとで、自分がそんな風にしてしまったのを、後悔はしなかった。ただ、自分が、今まで思っていた以上に性格が悪かったことを知った。
肌がちくちくする。
児嶋さん? 本当は気付いてますよね。私が隠したんだってことくらい、わかってますよね?
メモを探しまくって……というか探しまわるフリをして。情けなくて、恥ずかしくて、どうしようもなかった。見えないところでメモを出して「落ちてました」と言えばいいだけだと気づいたが、そのころには後に引けない気分になっていた。
「ごめんなさい。さっき、すぐに帰って電話してたら、なくさなかったですよね」
もう出してしまおうか……謝って……いや、これもう……どうしよう。
児嶋さんが、私の肩に手をのせて、後ろから、覆うみたいにして抱きついてきたとき、泣きそうだった私の心臓がばかみたいに暴れた。
そばにいるだけで高揚するのに。後ろから抱きつかれて、冷静でいられる人間なんていない。
「麻生さん、麻生さん、もういいよ。また連絡してくると思うし、家に帰ったら、あるの。連絡先、別に今じゃなければ……持ってるの。ごめんね」
自分の呼吸の音がうるさい。小さな息切れを無理に止めようとして、私は振り向けなかった。
「帰って、電話しますか」
小鍋から湯を注ぎながら、私は聞いた。
「いい。しない……電話とか、もうしたくないから」
胸がずきっとして、聞くのをやめた。
牛乳たっぷりのミルクティを、彼女の前に置く。淹れたてで熱いかもしれない。
ちょうど一昨日借りたDVDをまだ観ていなかった。一緒に観ようとこたつに乗せる。セーターから先だけ出た児嶋さんの指が、寒そうに椀を包む。
私はわざとまた隣に腰を下ろした。密着といえるほど近くに。多少の罪悪感と緊張があったが、この部屋ではこう座るのが普通だと思わせたかったから、さっきからそうしている。
そのことに、私のほうが、後悔しはじめていた。だんだんと隣に座ることには慣れてくる。行動は、慣れる。でも感情は慣れない。わざと作った定位置は、手を伸ばさなくてもすぐに児嶋さんに触れてしまう。相当の精神力で振り払っても、想像をかきたてずにはいなかった。児嶋さんと手を繋ぎ、手を伸ばして柔らかい唇を重ねる映像が、私の中でぐるぐると回転をはじめていた。
「麻生さんて、恋愛の話ださないよね。どうして?」
私の気持ちをわかっているんじゃないか。そう思うことが時々、いや、頻繁にある。見つめたときの視線の返し方、逸らし方、照れ方。気づかれているんだろうなと思うことと、単に恥ずかしがり屋なのかと思うことと、両方ある。これが素なら、誤解されて困ることも多いだろう。
「出して欲しいんですか?」
「出そうで出ないから」
恋愛の話ですか? ええ。私、好きな人いますよ。目の前に。
ドクンと心臓が鳴った。
ちらりと、ここで告白してしまってもいい、と思った。
嘘をつくつもりはなかった。人を好きになることを恥ずかしいとは思わない。たぶん、真剣に聞かれたら、今まで好きになってきたのが女性ばかりだということも、ちゃんと答えた。
せめてカムアウトだけしてしまおうか。むかし、女の子好きになったことが――。
――だめだ。
だめだ、探ってからじゃないと。
「彼氏はいません」
部屋で伝えたら怖がらせる。
児嶋さんが偏見のない人かどうかもまだ探っていない。私に他に付き合っている人がいるならいい。いまカムアウトすれば、彼女は気づく。喫茶店であんなにベタベタ触っておいて、部屋にまで呼んでおいて、意識するなというのは無理だ。
部屋に呼んでカムアウトしたからといって、すぐにどうこうしようと思っていない、でも、そういう風に誤解されかねない。ましてや、いまの私の頭の中は、その「どうこう」でいっぱいだった。
長く続く沈黙に、曇った眼鏡を拭きながら、思い直してよかったと思った。
だいたい、これだけわかりやすく一緒にいるんだから、気づいていてもおかしくない。気づいていて、わざと無視しているのかもしれない。今のだって、探りを入れてきたのかも――。
今までだって、精一杯表現してきたつもりだった。言い訳ができる程度に。恋愛感情で好きなのかと、疑われるギリギリのラインはどのあたりだろう?
私はそのうち、正直に伝える。突然伝えるのではなくて、ゆっくりと、もうすこし時間をかけて、身体の距離を近くして、彼女が私を放せなくなってから、触れることがもっと自然になってから、一気にいく。彼女が断ることもできるタイミングで伝える。機会が来るなら遠慮しない。
今じゃない。
今は自分の気持ちをぶつけるんじゃなくて、受け止める側にまわりたかった。聞きたくない、でも、彼女の心のうちをシャットアウトしようとしている自分は、あまりにも友達がいがない。
「本当は、児嶋さんが今どうなのか、知りたいは知りたいんですけど……」
一気に私はたどたどしくなった。急に言葉が、喉に何か詰められたみたいに出てこない。
おかしいぞ、私。
なんだ? なんで泣きそうなんだ?
「給湯室のおばさんに聞きました。あの」
喉が詰まって、ひりひりする。
だいたい、給湯室のおばさんにまで噂されているなんて、この人に言うことじゃないし。
――別れたって聞きました、なんて言うのか? 別れたって? わざわざ、言葉にだして?
「えーと、あの……」
「私が、ちょっと前に別れたって話?」
すんなりと彼女は認めた。
「別に、気にしなくていいのに」
優しそうにふわりと彼女は言った。
たぶん、聞いてもらいたがっている。そんな近さが、うれしい。
聞き始めたら、止まらなくなる。どういうことだ、どこまで好きだと追求したくなる。なにが児嶋さんの心を占めているのか、知りたい。
辛いならそばにいたい。それは本心だ。来ない人を待つことがどれだけ苦しいか、経験したばかりだから、わかる。わかっているのに、いままで切り出しもしなかったのは、児嶋さんを傷つけないためじゃなくて、本当は自分が……。こんなにおろおろして、泣きそうになってしまっている自分を、どうしていいかわからないからだ。
「私、わかります。好きな人とうまくいかなくなったら、どんなにつらいか」
伝わってしまってもいいと思った。私は児嶋さんを見つめた、黙って私を見つめかえす児嶋さんの瞳が、私を完全に支配してしまうぐらい、距離が近かった。
「…………」
彼女の目が、私の唇をみていた。まるで餓えた植物が水でも欲しがるみたいに。本当はいま、誘っているのではないか。錯覚を私は振り払った。
誤解するな、するんじゃない。
でも、なにか言おうとして開いた唇が、吸ってほしいと開いている花びらのように誘っていた。私はどう動こうか迷ったまま、児嶋さんを見つめていた。
もう、手を、伸ばしてしまおうか。
そう思ったとき、ふいに、児嶋さんの顔が歪んだ。
――泣く。
まるでダムが決壊するみたいに、ゆっくりと崩れるのを、必死にとどめようとしている彼女がいた。私の目を見たままで。
見られていたら泣けない。
そう言われた気がした。私は児嶋さんを引きよせていた。
彼女が怯えないように。無遠慮な目で彼女を見ないように。キスしたいなんて、思わないように。ゆっくりと抱きしめた。
「見てませんから」
声で彼女の痛い場所に触れてしまうことがこわくて、ささやくみたいになってしまう。なんだか、自分のことばのひとつひとつが、むきだしの彼女を傷つけてしまいそうで、こわくて。
児嶋さんが額を私の肩に乗せた。
彼女の体重の軽さに不安を感じながら、私は眼鏡を置いて、身体で包み込んだ。自然にそうしていた。
彼女は嗚咽を抑えていた。体を震えさせて、喉の奥で、声が漏れるのをこらえていた。
声を押し殺して、児嶋さんは腕の中で泣いていた。
いったん涙腺が緩んだら止まらなくなってしまったようだ。この人、こんなに泣きたかったのか。
泣いていいです、震えていていいです、あったかいように、くるんでいたい。
指先で触れると、彼女の髪はさらさらとくずれた。髪がくずれるたびに、ふわんと漂う児嶋さんの匂いに、指先がじわりと、心に直結して熱さを帯びる。
私の前で、にこにこして、先輩ぶって、優しくして、頬を膨らませて怒って、冷たくして。一言も恋愛の話をしなかったのは児嶋さんのほうだ、ひとこと、言っただけで脆く崩れた。
いつも一人で泣くんですか? こんなに静かに泣くんですか。あれだけフラフラになりながら残業して、態度のおかしい後輩にまで笑顔を向けて――いったいどれだけ我慢してたんだ。
「児嶋さんって……」
言いかけて、やめた。
なんで、こんなに可愛いんだろう。
彼女を癒したい気持ちの裏に、こんな状態の彼女のそばにいられることを喜んでいる自分がいる。
抱きしめたら、気持ちが暴走してしまうかと思っていた。逆だった。触れているほうが欠乏感がないのか、私の頭は森閑としていた。
自分の腕から熱いものが溢れていく。愛しい、たまらない。人を抱きしめることが、こうも心を温めると思わなかった。
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