果実 第15話

 翌日、会社へ来た児嶋さんは、私をちょっと見ると、唇をひらきかけ、ちょっとためらってから、デスクに向かってきた。

「おはよ」

 児嶋さんのほうから話しかけてくれた。私は言葉が出なかった。顔を見ると、何を話していいかわからなくなってしまう。下手に話そうとすると、感情が溢れてしまいそうだ。でも、昨日何回も電話をしてしまったことを、そのままにしたくはなかった。あの日のことも、そのままにしたくなかった。児嶋さんを見つめたまま、何を言っていいのか、私は窮してしまった。

「昨日……」

「電話しました。ごめんなさい」

 児嶋さんのほうから口火を切ってくれたおかげで、謝れた。児嶋さんの視線が、私の話を聞こうとして、きちんと向けられている。私は戸惑った。

「こちらこそごめんね、出られなくて。――何かあったの?」

 ――何かあったの。

 ちっとも想像していないのだろうか、あんなに電話せずにいられなくなってしまった理由を。わかっていて、聞いているのか。

 昨日、どうでしたか? 聞きたくてたまらない気持ちを、そのままぶつけたら、児嶋さんはどんな顔をするだろう。私はそれが怖かった。

 どう答えろというんだろう。昨日、隆史さんと会ったのを見たから? 気になって?

「仕事のことで」

「うん?」

 優しく聞かれて、答えられるほどの内容なんて、私の中にはない。ただ隆史さんと会うのを見てストーカーしただけ。私は児嶋さんにとっていい後輩でも友達でもありえない。だけど、話したい、きちんと伝えたい、でも――、何を。

「ええと、慌てていたので、何をどこから聞けばいいのか整理するの忘れました。あとでまた聞きます」

「ちょっとぉー? 朝のお茶入れてあげて! 今日のお茶当番!」

 部屋の中央で古参の正社員が叫んだ。私と児嶋さんは、給湯室へ駆け込んだ。

 児嶋さんが湯呑みを人数分用意してお盆に載せる。その間に私はコーヒーメーカーのフィルターを取りかえる。

「遅くなっちゃいましたね。話してたから」

「大丈夫」

 児嶋さんの落ち着いた声が、狭い部屋の中に温かく響いた。今なら話せるのかもしれない。

「……昨日、」

 電話したのは――、言いかけて、私は黙ってしまった。隆史さんと出かけましたか。仲直りしたんですか。大丈夫でしたか……大丈夫でしたかって何だ、襲った相手に。

「よりは戻してないです」

 聞くより先に、児嶋さんのほうが言ってきた。私は不意に泣きそうになった。児嶋さん、わかってる。私がどうして電話したのか。何を聞きたいのか。

 児嶋さんの洗いなおした湯呑みを隣で拭く作業に入る。

「……食事だけ?」

「うん」

 児嶋さんは、うつむいて、目を合わせずに、淡々と答える。

「何度もかけちゃったんです。ごめんなさい」

「いいよ」

 児嶋さんの横顔が、花が匂うように、和らいだ。口元の微笑みは、私が児嶋さんに触れる前の、喫茶店で話していたときと同じに、柔らかかった。この不思議な笑顔はどこから来るのだろう。

 隆史さんと会ったからなのか――、彼のおかげで、児嶋さんは気持ちが落ち着いたのか。私がしたことなど、まるでなかったかのように笑っていた。それでいい、児嶋さんの、もう見られないと思っていた笑顔が、私の中でじわじわと光を帯びて広がっていく。

 伏し目がちに笑っているこの人は、本当に、きれいだ。

「笑顔もう見れないかと思ってました」

 児嶋さんは黙っていた。

「あの、……アレ……は、ごめんなさい……。もうしません」

「…………」

 児嶋さんは黙ったままで、目を合わせてはくれない。怯えているのか、本当は許していないのか、気にもとめていないのか。表情からはまったくわからない。

「児嶋さんに、お願いが」

 謝るだけは謝ろう、そう思ってきたのに。私の口からは別の言葉が出ていた。

「なに?」

「目を合わせてほしいんです」

 言ったとたん、児嶋さんの目が逃げた。動揺したのか、首筋がピンと張って、緊張したのがわかった。密室だから、怖いのかもしれなかった。

「今じゃなくて、普段です」

 こちらを向けない、児嶋さんの肩を、押してしまおうか、迷った。怖がられたらどうしたらいい――手を伸ばしたのに、児嶋さんは逃げなかった。ゆっくり、やわらかく肩をおして、こっちを向かせた。

「こんなこと言えたことじゃないけど……お願いですから、ちゃんと私を見てください。もうあんなことしないから」

 喉がつまる、でも、もう怯えるようなことしないからって、それだけでも。無理やり、声を絞り出してでも、伝えなければ。

 児嶋さんが私の目を見た。

 私は目を合わせていられなくなって、自分から目を反らせてしまった。

「避けていたわけじゃなくて、どうしていいかわからなくて」

 児嶋さんは呟いた。

「そうですよね」

 避けてもおかしくない状況なのに、ここまで話を聞いてくれた。それだけで、充分すぎるぐらいだ。

「とりあえず、オッケです……ごめんなさいでした」

 きちんと話すことが、こんなに勇気のいることだとは。私は、中途半端だと感じながらも、そこで会話を切った。

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