果実 第25話
私は派遣の営業に電話をかけた。半年もあんなのを目の当たりにしなくちゃいけないんだ。私は資格を取ってからとかそんな計算もできそうにない。
責任感のある児嶋さんはどう思うのか知らないが。
「はい~。スタッフスタッフ川田です~~」
「麻生です。さっき、途中で話やめちゃってごめんなさい。更新の話ですけど、やっぱり、できるだけ早く別の仕事探したいんですけど」
「できるだけ?」
「……他に、代わりに入れる人がいるなら更新前でもいいです」
営業の川田は黙った。
「う~ん?」
どうせ何か言うつもりだろう。いままで仕事を自分から打ち切るなんてことはなかった。
「なにかストレスあるのかな?」
「そうですね」
「人間関係とか?」
うるさいな。当たり前じゃないか。仕事のストレスなんか結局人間関係なんだよ!
「児嶋さんなんかに相談してみた?」
「え?」
どうして、ここで児嶋未来が出てくるのか、まったくわからない。
「児嶋さんとは別に仲良くないので」
声に棘が混ざるのを必死で抑える。イライラを営業にぶつけたってしかたがない。
営業はああもう、と言って笑った。
「まだ喧嘩してるの? 児嶋さん、あなたのこと褒めてたのに」
「…………」
私は部屋にある菓子をゴミ袋に詰めていた。やけ食いは割にあわない。だいたいこれは私の好きな菓子じゃない。
「なんて?」
自分の手が、震えて、うまく力が入らない。片方の手で携帯を持ったままでは袋の口が結べなくて、余計にむしゃくしゃする。私はゴミ袋に当たっていた。ぎゅうぎゅうと押すみたいに潰していた。
「なんて言ってたんですか」
「仕事ができて、フォローもしてくれるって」
「そうですか」
そりゃ当然だ。必死に勉強したのだ、児嶋さんが馬鹿みたいに残業なんかするから。最初からそんなに仕事なんかできるわけないじゃないか。でももうできない。今の私は仕事に集中できてない。
「でも、いま、できてないんです。仕事、できてないです……」
声が普通に出ない。
私は仕事のことで泣く人間じゃない。……はずだ。
ミスばかり繰り返して。文章を読んでも単語が目に映っているだけで、理解できない。こんなに自分がどうしようもないと思ってなかった。
児嶋さんの残業はまた増えていた。私のミスが増えたせいで。……だまってその増えた分の仕事を彼女はしていた。もう私に何も指摘してこない。
仕事だけでもきちんとできれば、まだ関われた。毎日、同じ場所に必ず来て、同じものを見て、同じ空気を吸って、当然みたいになんでもない仕事の話ができた。でも、もう、その仕事が……。
「ちょっとお休みするのはどうかな? 私から先方さんに伝えて相談してみますよ。言って欲しくないことは言わないから。今は不景気で仕事の募集が少ないの。打ち切るよりも休むほうが」
「もう迷惑かけられません。会社にも。児嶋さんにも」
「聞いてもいいかな?」
営業はいったん言葉を切った。
「児嶋さんとなにかあったの?」
「ないですよ」
どうして、この人は、わざわざそんなことを聞いてくるのだろう。
「じゃあ、……ほかにちょっとまずい人がいるのかな」
「児嶋さんは関係ないです」
もう逃げたくて仕方なかった。今までの私を知っている人が聞いたら、「麻生さんらしくない」と言ったかもしれない。私は大人気ないことを言っていた。
「もう、疲れちゃったんです」
営業は黙ってしまった。
きっと、児嶋さんとはまったく違うふうに見えるんだろう、冷静に、柔らかく、児嶋さんは言っただろう、処世術の一つとして、あのピンクベージュの落ち着いた唇で、将来のことまで見越して。こんな子供っぽいことはしないだろう。
疲れちゃったとか、もう、ほんと、意味がわからない……。
私は児嶋さんにはなれない。ガキだ。もう、疲れた。どうしたら駄々っ子みたいに泣かずにすむのかわからないし、もうどうだっていい。
「すぐやめるんじゃなくて、ちょっと様子を見たらどうかな。落ち着くまで、休みを増やしてみてもいいから」
何も知らない営業の声が優しくなっている。私が感情的になってるのをわかって、気遣うような話し方になっている。ああそうか。ここは鬱対策とかもやってたから。
ああもう、面倒くさい。
「児嶋さんは、あなたが助けを求めれば、多少、負担を減らしてくれたりすると思うわよ。麻生さんはあまり人に頼らないでしょう。いつもやってあげるだけじゃなくて、頼むこともしてみたらどうかしら。児嶋さんなら大丈夫。そういうことが自然にできる人だから。前の人のときもそうだったから」
ああ……なるほど。こういう風にして、彼女の残業は増えていったわけか。
でもね、そういう問題じゃないんです。
「彼女も堺さんも、あなたのこと迷惑だなんて、思ってないと思いますよ」
「いや……もう、無理です。本当に」
「持ちつ持たれつって感じに聞こえたけどな。児嶋さん、あなたのこと、すごくいいパートナーみたいだって言ってたし」
パートナー……。
「それは、……」
「麻生さん?」
「いつの話ですか」
私は苦笑いした。
「今日ですよ。麻生さん、ちゃんとお仕事してるんだなって感じましたけど」
――今日?
「それは……」
ゴミ袋を押している手がヘロヘロと床に滑り落ちた。
「麻生さん?」
営業がなにか話しかけてきている。
「ごめんなさい……い、ちど、」
「麻生さん?」
「すみません。切ります。ごめんなさい」
電話を切って、顔を覆った。熱くなった顔面に自分の冷たい手が気持ちよさだけが感じられた。私はぼろぼろ泣いてしまっていた。
自分の感情がよくわからない。うれしいのか、悲しいのか、怒っているのかわからない。浮ついてしまって、歯がかちかち鳴っていた。
パートナー……。
パートナー?
あの日の諍いは、児嶋さんにとって、今日簡単にパートナーとかいう言葉が出るくらいに軽かったのか?
っていうか、何の気なしに言った「パートナー」という単語ですぐに夫婦的なものを想像する、自分のバカっぷりが心底いまいましい。
仕事のパートナーってのは、こんなのじゃない。男と別れさせたりしない。すごくいいパートナーはあんな無理な要求したりしない。
見つめるたびに、彼女の首筋が固まったようになって私を拒否する。それでもしばらくすれば笑いかけてくる。
「友達でいてね」、そんな言葉は残酷だという。実際、ひどいと彼女を詰りたくなる。
でも、どっちがひどいんだろう。友達でいるために、恋愛感情を抑えて欲しがる児嶋さんと。あんな寂しがりの人間に、つけこんで、手を出して、しまいには恋愛感情でしか見られないからさようならと言う私と。
守ってあげたい感情は嘘ではない。嘘ではないけれど、体中が固いゴムのようなものになって、ねじられてでもいるようだ。
何回考えたことだろう? あの日に限ったことじゃない。いま、どうしても私のものになれと――そうしなければ別れると告げたら、児嶋さんは断らない、そういう頭の中の妄想を、本当かどうか試したくなったことが、何回あるだろう?
児嶋さんが怯えるのはあたりまえだ。
彼女が私を扱えるわけがない。私自身でさえも舵取りができないのに。自分の心なのに、手がつけられない。コントロールがきかない。
もういいかげんにしてほしい。
邪魔だ、この感情。
本当に、友達でよかったんだ。私は、児嶋さんの一番大事なものになりたかった。いや、大事じゃなくていい、児嶋さんが一番必要とするものになりたかった。
児嶋さんが恋人を一番に考えるなら、恋人に。恋より友情が大切なら、親友に。友達よりも家族が必要なら、家族に……。仕事で困ることがあるなら、仕事のパートナーでも……。
こんな感情もちたくなかった。
感情なんてなければよかった。いちばん大切な人を大切にできない、こんな出来損いの感情はいらない。
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