果実 第6話
残業がなくなって、10日たった。
残業になりそうな仕事は私が全部探して、潰してやった。社員が押し付けてくるせいで過酷な残業になっている、と部長に報告してやった。
毎日入ってくる新しい郵便物をさばいて、ゆっくりと作業しても、帰りぎわにやることがなくなる程度の仕事量になっていた。
これでもう児嶋さんが残業マニアだったって、残業できない。どうあがいても、残業はできない。これでまだクマを作ってストイックに残業するようなら、そのときは正々堂々と呼んでやる。変態と。
「友達がつくってくれたので。どうぞ」
もくもくと仕事している児嶋さんに、菓子を分けた。
「あ、これ、好きなの」
児嶋さんはメレンゲを見て言った。
壊れそうな指で一つ摘むと口に入れた。あわい桜色の唇が、甘い菓子を含んで、小さなため息を吐いた。きゅうっと口角が上がり、目を一瞬とじた。見ただけでこっちにまで甘い香りが広がってきそうな食べ方をして、彼女は私に振り向いた。
「ほっとする」
小さな前歯が見えた。いつもと雰囲気が違った。昨日はよく寝られたのかもしれない。最近笑顔が凍り付いていた児嶋さんが、満足そうに笑っていた。
私は多少緊張を解いて、彼女のそばまで寄っていって、ティッシュの上にトントンとメレンゲを落とした。
こぼれたかけらをかがんで拾う。久しぶりにこんなに近づいた。
「ほっとしました?」
「うん。ほんと、おいしい……これ、なつかしい味だよね」
児嶋さんは、今までにない表情をみせた。私を見上げて、満足そうに、にいっと、自分を丸投げするみたいに笑った。
ドクンと心臓が打った。
あまりにも、人の胸の中に、目の中に直接入ってくる笑い方。児嶋さんの笑った瞳のなかに、生命の雫が光って、奇跡のようにまたたいていた。
え……なに、これ?
衝撃が走った。普段、奥のほうまではけっして踏み込ませようとしない態度の児嶋さんが、いきなり、受け入れてくれたみたいな感じがして。
こんな風に笑える人間だったのか。私を嫌っていたんじゃないのか? 疲れがとれて、魅力全開になった? こんな表情を突然、…………。
ぎゅうっと絞られるような感覚に襲われた。
胸が苦しい。抱きしめてしまいたい。
熱い、脳がとろける。おかしい。からだが、なんだかおかしい。このまま、抱きしめてしまいたい、今すぐ、この場で。
ちょっと待て自分――。
距離が近すぎる。
私は児嶋さんの机にゆっくりとメレンゲの袋を置いた。適当なことを言って会社の洗面所へと駆け込んだ。甘い震えが皮膚を走っている。頬が熱くなって、体中の血が吹き零れそうだ。冷まさないと。これ、冷まさないと、児嶋さんに気付かれてしまう。
鏡にうつった自分の顔が上気して、りんごみたいだった。
駄目だよ、やめよう、駄目だって、こういうの、本当にもう。
うれしい――うれしい。
健康な笑顔が、瞳の奥にみえた、豊かに光をたたえた溢れる水しぶきのような命の勢いが、私の体を震わせていた。苦しいぐらいに。
作業の合間に入れる紅茶やビスケット、スナック菓子、そんなものが気分を塗り替えるように癒してくれる。いつの間にか、彼女の目のクマはなくなり、痩せて不健康な印象は消えていた。
児嶋さんは、渡せばだいたい喜んで食べた。私は菓子を渡す癖がついてしまった。
彼女は、笑うと涙袋がもりあがる。笑わなかったらそれはそれで可愛い――というか、こっちが笑いそうになる。
「こうしたほうが早いんですって!」
私が思わず言うと、彼女はしょんぼりとする。時にはカチンと来ているのが伝わってくる。
彼女の机に菓子を置く。
「――いただきます」
どう対応していいのか戸惑うように、児嶋さんは私に軽く微笑もうとして、失敗する。「まだ不機嫌なんだから、不機嫌そうな顔をしていたって仕方がないでしょ」といいたげに、不本意そうに手元に菓子をよせて、ムスっとしたまま口に入れる。
ちょこんと膝をそろえた児嶋さんが、さくりとビスケットを齧る。肩がほっとしたように落ちる。香ばしく焼けたタルト生地のビスケットは、ほろほろと崩れて、児嶋さんの口の端に引っかかっている。児嶋さんは恥ずかしがるみたいに、こっちをちらっと見る。
おもわずブッと吹きだす。
声に出して笑ってしまうと、児嶋さんは憮然として菓子袋を返してきた。
「……返します」
「食べてほしいです」
彼女は本気で怒ったみたいに視線をはずしてしまう。私は腹がよじれそうになる。なんだこれ……。餌付け日記をつけたい。
たまに菓子に手紙をつけた。かなり推敲して、感じがわるくならないように気をつけたつもりだった。彼女はまじめに文章をぶつけるよりも、甘えを残して接するほうが安心するようだ。目付きが和らぐのがわかる。妹キャラを多少入れるのは、児嶋さんには効くらしい。
児嶋さんはわかっている。私が時々にやにやしながら彼女を見ているのを。唇を尖らせて、すねたように目をそらされるとき、気づくのだ。自分はいま、児嶋さんをからかっていじり倒したいと考えていたなと。
彼女を見ていると、いじめたくなる。小学生のようだと言うなら言えばいい。なんだかもう本当に笑いたくなる、そのままぎゅうぎゅうと抱きしめたくなる。
それは、少し前までの、したくもないのにお局のように怒りくるうのが止まらない心境よりは、ずっと安全なものだったが。
いつものように、児嶋さんの入力したシートをチェックしていたとき。
あ…………?
イラッとして、児嶋さんを横目で見た。児嶋さんがビクッとするのがわかった。
誤入力するとエラーが出るように設定したシートを、作って渡した。そこを間違えてる。間違えて前のを使ったな。
児嶋さんは私を恐れるように、ゆっくりとこっちを振り向いた。
いちいち言わなくてもいい。後で赤を入れて普通に返せば、児嶋さんは自分で気付くから。そう思い直した。
一瞬睨んでしまったことをごまかしたかった。彼女の指先に目がいった。残業ばかりの日が続いても、一日たりとも剥げていることのなかった、繊細な爪。
「ちょっと、いいですか」
思わず指を触ってしまったとき、距離の近さに、私の心臓が跳ねた。
ドキドキする。
ドキドキ……。
何気なく手に触れた彼女の指先。触れた場所がジンとした。あまりに柔らかい、かすかな重力が心臓を早めている。
「いいですよね。ミスタイプも少ないし、タッチの音も静かだし。うらやましいです」
何を言っているのかよくわからなかった。ほめるつもりはなかったのに――何を、私は言ってるんだ?
児嶋さんは少し緊張を和らげた。
「びっくりした……、指先をごてごて飾ってるから仕事できないんですって、言われるのかと思った」
そこまで思わせてしまっているのか。児嶋さんの毒のない言い方でなかったら、傷ついてしまったかもしれない。
「私、そんなに性格わるくないです」
「あ、そ、そうかもね」
――そうだよね、じゃなく、そうかもね、か。
「イライラすることがあるのは、ごめんなさいって本当に思ってます。それに、児嶋さんにだけそうしてるんじゃなくて、いつもこんな感じだし」
児嶋さんはあまり信じていない顔をしている。
「私、本当に、静かに、にこやかに仕事をこなせるほうが、どんなにいいかと思っているんですよ?」
それは本心だった。児嶋さんは緊張したままで表情を崩した。
「ああ、怖かった」
彼女の上目遣いが心臓を射抜いた。体の奥にキュンと刺激が走った。
体の中心から花吹雪が舞い上がるような高揚感のなか、急に笑いたくなった。そうだった、私は変だ、それがどうした!
このタイミングで上目遣いされるって、どういう恋愛小説の伏線だ。
急に、割り切れた。高揚ついでに言った。
「女性相手にここまで狙ったような上目遣いする人、初めて見ました」
児嶋さんはカッと耳まで赤くなった。
「やってない!」
そう言いながら、頬を膨らませる。
うわ、反応可愛い……。
彼女の明るい上目遣いがうれしかった。麻生さんは怖い。そりゃそうだ。ヒステリックにぎゃあぎゃあ騒ぐ後輩じゃ、そりゃ怖いだろう。でもやっと、怖いと、ちゃんと言ってくれるようになった!
ああ、また上目遣いしてる。癖なのか。耳が真っ赤だ。
彼女はぷいと視線を逸らしてしまった。
今だったら、手紙なんかじゃなく、直接言葉にして、冷静にいえそうだった。今しか、いえそうにない。きちんと伝わるように、私は襟を正した。
「私、本当に、もう、誤解されたくないんですけど! 児嶋さんのこと、嫌いなんかじゃないんですよ!」
やっとの思いで、言葉に出した。
児嶋さんはじっと私を見つめた。
「わかってます。仕事しましょ?」
「…………」
完全なる営業スマイルだった。
――――え?
――そう来ますか? 泣きそうになりながら言っている私に対して?
正直、思ってもみなかった受け答えだった。仕事しましょう?
それはないだろう。
肩透かしを食らうとはこのことか。いくらなんでも冷たすぎる。この児嶋さんが、私がこんなにショックを受けるような対応をするなんて。気を使える人ではあるだけに、それだけ嫌われていたのかと愕然とした。
私は期待してた。自分さえ素直になれば、児嶋さんは突っぱねたりしないと。
児嶋さんが一度だけやった「仕事しましょ」&プイと仕事に戻る、の組み合わせは、あまりにも冷たかった。
あとで考えると、私は距離をつめすぎたのだ。児嶋さんは表面は柔らかい。でも、人が思うよりもずっと臆病だ。その臆病な殻の中に、もう一段階、敏感なものがある。この時の私には、それがわからなかった。
これが……これが、児嶋さんなりの静かな復讐ですか。さっきの笑顔はただの笑顔ですか。心を開いてはくれないんですね。確かに私は性格に問題がある。でも、でも今のは、本当にやっと口にだせた本心だったのに……!
私は彼女を待ち伏せた。
児嶋さんを見ないようにしていたことも、近づかないようにしていたことも忘れていた。
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