焼きりんご 第3話
夜中にふと目がさめた。つけっぱなしのテレビからバラエティ番組のつんざくような笑い声が聞こえている。
うすぼんやりと暗いなか、はるかの家の天井が見えている。はるかの部屋のにおい……。
起き上がって、衝立の奥をのぞいて、すぐに顔を引っ込めた。
いやなものを見てしまったと思った。
キッチンで椅子に座って向こうをむいているはるかと、そのはるかに後ろから抱きつくみたいに肩に腕を回している、エリちんの影。
二人はなにか小声でぼそぼそと話している。
近づきすぎ……じゃ、ない?
そう言いたくなるのをこらえて、衝立の前で息をひそめる。
いや……、私も、友達とああいう風にすることぐらい、あったはずだ。二人が同性を好きになれる人間だというだけで、すべてそっちに解釈するのは、やりすぎだろう。
それでも、私は簡単に声をかけることができなかった。親密な空気が流れて、私が入る余裕なんて微塵もなさそうだった。
高校のころ、部活の先輩に恋をしていたはるかは、ひょんなことからエリちんに相談したらしい。「女の子好きになっちゃった」と。
「なんとなくさ、雰囲気で少しはわかってたんじゃないかって思うんだよね、はるかは。あたし、言葉の端々に、すこーしそういうの出してたしさ。みんなで話してても、感想や意見が、あたしとはるかだけ違ってるってことが、よくあって。わかってくれそうってのぐらいは感じてたんじゃないかな」
エリちんが「私も女の子好きになっちゃっててさ。てへへ。あははぁ」なんて明るく白状したものだから、はるかは安心して何でも相談するようになった……。そう、エリちんは言っていた。
それから、日本にいたりいなかったりしながら、エリちんははるかの恋の相談やら家の相談やら仕事の相談やらにしょっちゅう乗っていたそうだ。なかなか話せる相手がいないから、はるかがいてくれてよかった、とエリちんは言う。
それは、どういう深さなんだろう……。まわりに理解者の少ない、コイバナもおおっぴらにしにくい、そんな制限された高校という集団の中で。唯一、恋の相談をしたり、自分の気持ちを語ったりできる親友。
眠る直前、私はたぶん嫉妬していた。
高校のときのはるかを知っているエリちんに。はるかの今までの恋人を知っている親友に。気安く一升瓶を抱えて部屋にあがりこんでくる近さに。
感想や意見が、あたしとはるかだけ違ってるってことがよくあって――。
その言葉に、どうしてこんなにもやもやとしてるんだろう。
今朝も、はるかは私に好きだと訴えた。
でも、そういう問題じゃない、……恋人だろうと何だろうと、私は、まだはるか出会って一年すら経っていなかった。
エリちんははるかをもっと昔から知っていて、はるかもそのエリちんを頼って……私ではとうてい取り戻すことができないような時間の長さが、二人にはもうあって。
バカなことを考えてる。
隆史と付き合っていたとき、こんな感情はなかった。私は、「隆史の男友達」には、妬いたことがない。
女の子と仲良くしていれば、もちろん妬いた。はらはらした。私はヤキモチ妬きなのかもしれない。他の女の子の存在が感じられたとき、吐き気すらした。
でも、隆史のときには、簡単に伝えられた。可愛く焼きもちを焼いてみせることも、釘をさすこともできた。「なんか、仲いいよね!」と膨れてみせれば、隆史はまんざらでもない顔をした。そこがまた腹がたつのだが。
でも、エリちんに対して、「仲いいよね!」と膨れるとか――さすがに、それは、したくない。受け入れてもらえそうな気もしない。
彼女は、はるかの友達でしかない。それも、たぶん、本当に大切な友達だ。見ているだけで伝わってくる。そんな大切な友達を、大切にしてね、と言ってあげたくないこの感情は?
友達と恋人の境目、というのが、自己申告でしかないような手探りの関係の中で、恋人以上に仲のいい友達に、ほかの同性のカップルは、妬いたりしないのだろうか? 私がヤキモチ妬きなだけ?
心変わり……男に心変わりされるのと、女に心変わりされるのと、どっちが辛いだろう。どっちもいやだ。でも、相手が男だったほうがまだ、楽なように思えた。
異性で新しいときめきがあったのなら仕方がない……。
そういう問題じゃないのはわかってる。今まで男としか付き合ったことがないから、錯覚しているのかもしれない。
女同士だって恋をする。現にはるかは私に対して、たぶん他の人に対するのと同じ態度は取れない。ぎこちなかったり、はるかの胸がものすごくどきどきしていたり……異性だから恋で同性だからどうだ、っていう問題じゃない。私と別れるほど惹かれたなら、同性異性に関わらず、その相手のほうがはるかにとって大事になったってことなんだ。
だから、同性か異性かの問題じゃないはずなのに、自分と同じ女の子と笑いあってるはるかを見ていると……急に胸のうちに暗い小さな炎がぽっと点いて、なかなか消せない。
はるかの恋愛対象が、女性だから……? わからない。
相手が同性だと、妬くのかもしれない。
私は、はるかの近さに、異性ではありえないほどの「理解してもらっている」感覚に、依存しそうになっているのかもしれない。異性では感じることのない密着感を感じていて、……だからこそ、はるかが異性と一緒にいるよりも、同性と一緒にいることのほうがイヤなのかもしれない。
その相手のほうがあなたの深くに入れるのか、と。
誰が一番その人の近くにいて、深く理解しあっているのか、というのは、恋しちゃったから仕方ないとかそんな言い訳のできない次元にあって……。
はるかに他に恋人がいても一番の理解者でいられれば満足なのかといわれたら、それは違う。はるかのことを、友達としか見ていなかった頃だったら構わなかっただろう。でも今は違う。
でも……。
でも……。
どうして、はるかを一番理解しているのが私じゃないんだろう。
もやもやする。ついでにいうと、もやもやの原因はエリちんにだけあるわけではなかった。夕方に聞いた「恋人」のほう、大事にしていた昔の恋人の話を聞いてしまったことにもあるのだった。
自分がこんなふうにはるかのことで嫉妬するとは思ってもみなかった。いつも嫉妬するのははるかのほうだったから。はるかが妬けば妬くほど、私はそれでなんだか安心できていたような気がする。
聞き耳を立てていると、バラエティの音の中でも会話は聞き取れるようになってきた。
「心配なんだよ」
エリちんの声が低く聞こえる。
「心配してんだよ。こっちはさ、向こうにいるときでも、あんたのこと、ホント心配で気になってしょうがないんだよ」
愛の告白めいた言い方をして、エリちんははるかに抱きついたままでいる。
「あんたの人の好きになりかた見てるとさ、怖いんだよ。なんつーか……はるか。あんた、みっちゃんのこと見る時、どんな目つきしてるか自覚あんの? ほんと怖くなったよ、あんな――はたから見てても胸がぎゅうっと締め付けられるような目で見ててさ。『児嶋さん』って呼ぶたびに、声にものすごい感情がこもってる。そういう好きになり方ってさ……、なんだか、すっげー危なっかしい」
「大げさな」
「大げさじゃないって。自覚ないってことはないと思うよ、
はるかが苦笑している。
「あんたと付き合うのって、本当に怖いことだと思うんだよ。あたしだったら怖くて付き合えない。いちいち、いちいち、目の中に入れても痛くないですーって顔して見てるもん。これで今回の子となんかあったらと思うとさ、ほんともう……あんた、今回、明らかにちょっとおかしいよ。ペース配分しな。なんか他のことにも集中しなよ。頼むからそうして?」
エリちんの声には本気で心配する響きがあった。
なんとなく、出会った頃にはるかが言っていた、「児嶋さんと感じの似た人とひどい喧嘩別れをして」という言葉を思い出した。
あのときははるかが同性を好きになるとは思っていなかった。だから、ふうん、で済んでいた。でも、よく考えると、ひっかかる。ひどい喧嘩別れをするほどの近さ。それが沙耶だったのだろうか?
「エリ、児嶋さんが起きるとあれだから」
ひっそりと、はるかは言った。
遅い。聞こえてるよ。
「大丈夫だよ。他のこともちゃんとしてる。する。仕事も集中できてる。エリ、心配しすぎだよ。ありがと」
へへへ。はるかが可愛くエリちんに微笑む気配がした。
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