第3話

 夢をみた。

 私は駅のホームに突っ立っていた。

 沢山の電車が、止まらずに通り過ぎていく。止まったと思ったら、私が行き先を確かめている間に扉が閉まってしまう。

 待って。そんなに早くは乗れない。そんなに急いで、通り過ぎてしまったら、私は乗れないよ。

 彼の大きな手の格好をした妙な電車が目の前で止まった。車掌室には彼がいて、こちらをゆっくり振り向いて、笑った。親近感のあふれる笑顔。

 乗りたい。足を踏み出す。

 後ろから、ぐいっと腕を引かれる。振り向くと老婆が立っていた。

「その電車にのってはいけないよ」

 老婆は口避け女のような気味の悪い笑い方をした。病気を持っていそうな小さな老婆だった。

「ほら」

 老婆が指をさす。電車が閉まる。彼は「おいで」と両手をさしだしてくる。

 どうしてあそこに行ってはいけないの?

 でも、私の足は動かなかった。この足は、自分から動けたためしがない。今行かなければ、今……でも、足はホームに張り付いたまま、動かなかった。

 


 

 翌日、麻生の家から出勤する。

 帰り、やっぱり麻生が待っている。

「今日は、ちゃんと帰ります。ありがと、昨日」

「いえ」

 麻生はお茶だけしませんかと誘ってきた。

「スナック菓子、昨日あけちゃったの、一人じゃ食べきれないです」

「ん、ありがと」

 麻生は、私に考える時間をあまり与えないようにしていると思う。たぶん、それは昨日の続きで、気遣いだ。

 よく言われる。ふらふらして、地に足がついていないみたいだと。支えていないとどうなってしまうか、わからない気持ちにさせられると。魂が、ここにあるのかどうかわからない時があるのだそうだ。

 元彼にも言われたし、友達にも言われる。

「いくら心配しなくてもいいからとか言われても、目の前で人が溺れていたら、しかもそいつと目が合ったら、助けないわけにいかなくなるじゃない? うわっ、やばっ。目が合っちゃったよ! って思うけど、でもさー。なんか、本人がいくら「大丈夫」って言ってても、そうやって溺れられていてごらんよ。ほっとけないから」

 ついこの間もそんなことを言われた。ありがたい言葉だが、そんな風に見えるのだろうか?

 確かに、麻生がついていてくれなかったら、何をするかわからない不安定さはあった。彼に電話してしまうかもしれない。普通に自棄酒を飲んで寝るかもしれない。そのくらいならいいが、あてもなく、フラフラ外を歩き続けるかもしれないし、生きて呼吸をしたままでは行けないどこかへ行ってしまいたいと思ったかもしれなかった。

 残業が続いていたせいで、もともと過労ぎみだったのかもしれない。麻生が来て、仕事を分担してくれたので残業はなくなった。でも、いったん調子を崩した体調はなかなか元には戻らない。気持ちも、体も、ぐらぐらして、自分でコントロールするのは難しかった。

 彼を好きなときに呼べるように一人暮らしを始めた部屋は、冬には空気が冷たすぎて、眠る前に少し遠いコンビニへ出かけないとすまないくらい静かだった。

 だから、麻生の申し出を断らなかった。

 でも、このころには、本当は、気付いていたと思う。麻生の純粋な気遣いが、何に基づいていたのかを。

 いつもどおりにお茶をしたあと、麻生は自然に、電気を消した。

「え?」

「今日は仕事きつくて疲れたし、もう寝ましょうよ。児嶋さん、泊まってってくれませんか?」

 そのほうが私が楽だと踏んだのだろう。

「今日はちゃんと帰る」

 台風の季節でもないのに、窓に強い風があたってがたがたと鳴り、神経に寒さをあたえた。私は音に驚いて肩を縮めた。麻生は首をかしげて、私をじっと見ている。

「……泊まりましょ?」

 泊まってほしいのだろうか。気遣いなのか。麻生にしては、強引な言い方だった。でも、さすがに服を着たまま寝るのが2日目では、皺が気になる。

「昨日も家に帰ってないし、着替え、ないから駄目だよ」

 麻生は、あきらめたのか、もう一度電気をつけた。ゆっくりと。さっきより少しだけ明るい電気を。

 あきらめた……のか?

 麻生は妙に濡れた、黒々とした瞳で見上げてきた。

「脱いじゃえ」

 なんというか、女の子同士の友達の、きゃぴきゃぴしたノリではなかった。脱いじゃえ、という単語が、いやにゆっくり、はっきりと、毒のように聞こえた。いいようによっては、ぞくっとくるほどいやらしかった。気のせいか?

「駄目だよ」

「明日の服は貸してあげますよ。シャワー浴びれば平気じゃないですか」

「帰ります」

 私が帰りの支度をはじめようとすると、麻生は立ち上がり、行く手を塞ぐように真正面に立った。

 私は困惑した。

「今日、会社で」

 麻生は低く言う。

「元彼さんに、電話しました?」

 首をかしげて、至近距離で私の目をみつめて、麻生はつとめてやさしく、聞いてきた。かえってそれが怖かった。

「してないです」

 つい敬語になる。相手は年下だと言うのに。

「ふうん?」

 麻生は私を心配しているのだろうか?

「この後、しないですよね?」

「…………」

 この子は。

 まるで子供に言い聞かせるような口調と、妙な威圧感におされて、私は素直にうなづいた。そのあと、帰ったらやっぱり電話してしまうかもしれない、と思った。

 麻生はその心の動きを見逃さなかった。まるい、大きな黒い目で、じっと見つめてくる。口元は笑っているのに、目だけがどこか痛そうな表情に気を取られて、いつのまにか、壁際まで押されていた。

「彼のことは、自分で決めます」

 つい声が小さくなる。

 麻生の、息を呑むような小さな音。私の表情や言葉に、いちいち反応してくる。どうしてこんなに痛みに満ちた表情をするんだろう。痛みに満ちた……いや。

 表情が、というか空気感が、また変わった。ピリッとした、なにか濃い、怖いような空気になった。

 麻生は眼鏡をはずすと、ゆっくりと私の顔を捕まえて、壁に押し付けた。体が一気に緊張した。

 キスされると思った。

 まるで抱きしめるように、抱え込むという感じで私の頭を包んできたから。抱いてはいるのだが、静かな押さえ込みに近かったから。

 でも、そうではなかった。麻生の顔は近づいてきたけれど、私の額に自分の額をくっつけただけだった。そして、念じるように、何かに耐えるように目を伏せていた。

「麻生さ……」

「キスされるかと思ってます?」

 どくん……心臓が大げさなくらいに脈を打った。

 麻生はキスがしたいのだ。とっくに熱気が伝わってきている。

 麻生の目をみつめると、その目が潤んで、妙な色気を帯びておだやかに見つめ返してくる。私はつい、うつむいて目をそらした。見ることができなかった。近づきすぎた肩口から、ほのかな香りがした。

 麻生は頬をくっつけ、摺り合わせてきた。開いた唇からこぼれた息が、私の顔じゅうにまとわりつく。

「麻そ……」

 耳に、頬に、唇に、瞼に、睫に……。これは……頬にキスしてるといえるのだろうか? 唇がつくかつかないかのかすかな感触が、頬をつたい、私の唇のわきをかすめる。

 声が出ない。

 麻生が体ごとぐいぐいと押し付けてきたから、彼女の胸のふくらみから早鐘のように鳴っている鼓動が、肌で感じられた。

 唇が頬をすべる。彼女はまた額をくっつけてきた。

 抑えた吐息がきこえる。小さく呼吸しては、耳の傍の空気を揺らして、髪をくすぐる。

 彼女は我慢している。我慢しているけど、体を離そうとはしない。麻生の目が潤んでいるのは……これは、泣きそうなのだろうか? 私が肩をゆらして逃げようとすると、私の肩をつかんだまま、元の位置に引き寄せる。

「……連絡しないって、約束してください」

「…………」

 そんなこと、答えられない。

 気持ちが不安定になったら、連絡してしまうに決まっている。

 彼女は絶望的な目のまま、じっと見つめてくる。目が合っている間中、息が止まりそうだった。

 麻生の目が、私の心の動きをとらえるのがわかった。私の、いま何をされても、許してしまうだろうな、という揺れを。

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