果実 第11話

 この人は、独りに耐えられないのかもしれない。

 児嶋さんは、結局泣き疲れて眠ってしまい、朝まで部屋にいた。いったん二人で出勤したが、私は仕事に集中できていなかった。

 二日のうちに、だいたい聞いた。仕事が忙しくてすれ違ったこと。隆史さんが浮気しているだろうこと。

 隆史さんに連絡を取るのではないか、取ったのではないか。何度も仕事中に聞きかけた。

 こんなに未練たらたらの人間が、すっぱり思い切れるはずがない。

 さっさと連絡しちゃえばいいのに。そう思っている自分もいる。

 このあと約束でもしたんじゃないですか? 聞いたって仕方ないことを聞きたくなる。

 ――電話、もうしたくないから。もう別れるって決めたから。

 そう言ってはいたが、連絡先のメモを渡してから、児嶋さんはずっとなんだかふわふわしていて、仕事中も上の空で。

 私はぐらつきかけていた。

 もし今日、抱き合って眠るようなことがあったら、何か、口走ってしまいそうだ。――でも、もう、それでいいのかもしれない。

 児嶋さん、明らかにおかしい。恋人から連絡があったら、もっと激烈な反応があってもいいはずなのに……会いたがるとか、浮気を怒るとか。児嶋さんの場合、隆史さんと会うことも会わないことも選ばないで、そのままふらっと失踪でもしてしまいそうで、ちょっと怖い感じがした。

 部屋に誘わないつもりだったはずなのに、終業のチャイムが鳴ると、私は、結局声をかけていた。

 

 

 

 児嶋さんは目の前でミルクティを飲んでいた。

 そろそろ終電を逃す。

 時計を見て、私も最後の一口を飲みきろうとしたとき、

「待っていたかも……って、思う」

 児嶋さんが小さくつぶやいた。

 私たちは夜までぐだぐだとくだらないTV番組を観て過ごしていた。

「なに……」

「隆史、から、連絡くるかなって」

 何十回も言った「会いたくない」、「顔を見たくない」、そんな言葉よりも、ただ一回だけの言葉のほうが重そうだった。

「今のままで戻っても、また浮気するかもしれないんですよね」

 児嶋さんは涙目になって私を見つめ返した。

「たった一回の連絡じゃ、それがちゃんとした気持ちかどうかなんて、わかんないって思っちゃって」

「児嶋さんがそう感じるんだったら、もう少し待ってもいいんじゃないですか」

 児嶋さんが私の言葉を聞いている。真剣な目で。

「私なら、気持ちがあったら、何度でも連絡しますよ。一回だけの連絡で終わりになんてしないです」

 潤んで私を頼るような目つきに、少し興奮している自分がいた。そのことで、かえって、だまして苛めているような気持ちになった。

 児嶋さんの為にアドバイスをしているように聞こえるかもしれない。……私はそこまでは大人じゃない。多分今、自分でも気づかないうちに、児嶋さんが連絡を取らないような方向でアドバイスした……。

 喉元まで出かかった「ごめんなさい」という言葉を、紅茶で流し込むみたいに自分の中に押し戻して。

 私は電気を消した。

「今日は仕事きつくて疲れたし、もう寝ましょうよ。児嶋さん、泊まってってくれませんか?」

 二つの目が、白黒の砂嵐のような怪しいものを映していた。危なっかしい、このまま行方不明にでもなってしまいそうな目つき。

 この状態で、彼女を一人きりで帰すつもりはなかった。

 児嶋さん、多分、帰ったら電話する……。そうじゃなければ、なにか、おかしいことをする。

 一人で帰すぐらいなら、隆史さんでもいい、誰かがついているほうがましかもしれない。どうしてだろう。児嶋さんを一人にすることに、こんなに不安を感じるのは?

 薄暗闇の中で彼女が身じろいだ。私は間近で彼女の吐く息の音を聞いていた。狭いコタツに横並びに座るせいで、彼女の膝が私の膝に触れていた。

 私は我慢に慣れきっていた。

 あわよくば、いちゃいちゃしたいと考えていたのは事実だ。手に触れたり、抱きしめたり……友達として言い訳のできるギリギリまで。それ以上のことにしたって、息をつめていないと体がうごいてしまいそうな瞬間が何度あったかわからない。

 でも、それは、それだけだ。昨日までの自分を信じていた。触れたいと感じるだけで、行動に移すことなんてなかったから。

「今日はちゃんと帰る」

 泊まれと言ったのが隆史さんだったら、また違う表情をするだろうね。

 ……あやしい甘みと怒りの入り混じった感覚が突き上げた。

 私はこの怒りめいたものの正体をはっきりと自覚していた。

 さっきから。いや、何時間も前から。下手すると昨日から。トロ火で人をかきたてるもの。

 暗闇がいけないのかもしれない。焦りなのかもしれない。

 抱きしめたい。触りたい……。

 ただの嫉妬や怒りとも違う、体の中心で渦を巻く溶岩のような動力が、感情をただのエネルギーに変えて、とろとろと狂わせていた。

 児嶋さんは立ち上がり、帰り支度をしていた。

 寒そうな風の音が窓を揺らす。児嶋さんの表情が泣きそうに見えた。

「……泊まりましょ?」

「昨日も家に帰ってないし、着替え、ないから駄目だよ」

 声に、かすかな怯えを感じた。ホテルに誘われた女の子が、媚と不安を含んで断る言い訳を探したような。妙に艶のある間合いに、彼女がどんな目で私を見ているのか、確かめたくなった。

 私は、少し部屋を明るくした。

「脱いじゃえ」

 言ってしまっていた。

 児嶋さんは、私の目を見て、息を吸いこんだ。

「……駄目だよ」

「明日の服は貸してあげますよ。シャワー浴びれば平気じゃないですか」

 本気と、鎌をかける気持ちが、半々だった。

「…………」

 脱ぐ必要はどこにもない。パジャマを貸しますというんだ、普通は。

「帰ります」

 児嶋さんはゆっくりと、鞄に携帯を入れ、ハンガーにかかっているコートを着た。

 普段、この人は、こんなふうに目を反らさない。

「今日、会社で、元彼さんと、電話しました?」

 この後、隆史さんに抱かれる。

 どうしてそう感じたのだろう。距離があまりに近すぎて、肌の感触や、誰かに抱かれる彼女の姿を、連想してしまったからか。直感というより猜疑心だろうか。今日の直感はあてにならない。感情的になりすぎだ。

 私が触れたい。こんなに近くに、手をのばせば触れられる場所にいて、触れられない。

 私は児嶋さんが部屋から出ようとするのをさえぎるようにしていた。

「してないです」

「ふうん?」

 やめろ。それ以上言うな。怯えてる。

 彼女は私から身を引いた。そのしぐさに、私は動揺して、彼女を壁際まで追い詰めた。

「この後、しないですよね?」

 彼女は怯えたように目を見開いている。連絡しないと約束してほしい? 勝手な要求すぎる。そんなこと言える関係じゃない。

 私は、かすかな理性で、心配する強引な友達を装っている。

 児嶋さんは頷いた。が、急に心もとなげに視線をさまよわせた。私の服の一点を見つめて、自分の世界に入り――彼女はふにゃっと顔をゆがめた。

 電話してしまうだろう。認めたような表情だった。どちらかというと、「自分の気持ちなんかコントロールできません」って感じの。

 じりじりとみぞおちが痛み、焦げていく……胸が引き裂かれそうだ。突き上げるような炎が体の芯を真っ赤に焼いている。

 ゆらりと吹き付ける火の粉の中で、熱い靄の中で、児嶋さんの瞳が私を見ていた。彼に会いにいきますか。そうですか。この瞳で見上げるんですか。こうやって。

 児嶋さんがぎゅっと唇をかんだ。

「彼のことは、自分で決めます」

 手が出ていた。

 眼鏡をはずして近づき、壁に押し付けるようにして抱きしめていた。児嶋さんの目が、私を見たままで固まっていた。彼女の柔らかい身体の弾力が、ふわんと私を押し返している。口付けようとして。すんでのところで止めた。

 彼女の額に額をぶつけて、目を閉じて、自分を押さえつける。一瞬の激情のせいで息があがっていた。

 だめだ、だめだ、だめ!

 彼女の肩や腕に、私の心臓の音が伝わっている……。抑えようとしてかえって息苦しくなる。児嶋さんは何の声も出さない。ぎゅうぎゅうと締め付けて、めちゃくちゃにしてしまいたい。逃げられないように彼女の頭をかかえこんで抱きしめたまま、私は、衝動と戦っていた。

 もう、この唇を吸いたい。

 駄目だ、なにしてる――。

「麻生さ……」 

「キスされるかと思ってます?」

 彼女は黙った。

 息が触れるほどに距離が近かった。私はそのまま口付けたいのを目で伝えようとした。彼女は黙って私の目をみつめていた。息ができない。児嶋さんがおずおずと目をそらし、戸惑いを隠すようにうつむく。

 彼女の動きについていくように、彼女の頬に頬をつけた。……児嶋さんはそのままの体勢でこちらの様子を伺っていた。頬にかるく口付けた。耳、唇の横あたりに、口付けようとしてはやめる。唇そのものにキスをしようとして……思い留まる。彼女の髪や皮膚から児嶋さんの体温や匂いが香ってくる。肌にそのまま吸い付きたくなった。

 児嶋さんは逃げもせずにただ立っていた。

 私は耳もとに唇をかるく這わせた。香りを浴びて、耳たぶを咥えたくなって、こらえた。

 目をそらす児嶋さんをふりむかせて、向きあわせたい。私は彼女の額に額をつけて、よりかかるようにした。突然起こった凶暴といっていい衝動をやりすごそうと。

 抑えろ。ここでやめなかったら後悔する。怯えられてるんだ、私は。

 両腕から、彼女の体の、がくがくいいはじめた震えが伝わってきていた。

 もう、たぶん、無理だ。

 洒落にならない、これは。これじゃ、もう。言い訳できない。

 ――戻らない。もう終わりだ、もう。自分で壊した。せっかく自分の話をしてくれるようになった児嶋さんの信頼も、あのふわふわした温かい喫茶店がよいも、なにもかも自分で台無しにした。

 恐らく、私の目は赤くなっていた。彼女はだまって私を見ていた。

「……連絡しないって、約束してください」

 彼女の瞳は、私を探るように見返してくる。

 ――――。

 視線が。 児嶋さんの中にあるなにかが揺らいで、指先で押せば落ちるような感覚があった。

 なんでこんな流されやすそうな顔をしてるんだ!

 口付けた。唇に。

 軽く触れ合わせただけで唇を離した。児嶋さんがどう感じているのか、知りたくて目を合わせると、私の目を、彼女の目はしっかりとみつめていた。瞳に映っていたのは嫌悪や軽蔑ではなかった。やると思ったら本当にやった……。そういう驚きと、困惑の表情。

 もっと……! 

 もういちど口付けようと顔をかたむけると、彼女は後じさろうとして、壁に頭をぶつけた。彼女は迷っているかのように私を見つめていた。押し返そうとする手首を掴んで、肩を抱きすくめるようにして唇を吸った。

「うっ……ふっ」

 責めるなら責めればいい。あとで。

 舌を差し入れる。やわらかく、やわらかく――彼女は息を詰まらせてちいさくあえいだ。心臓がばかみたいに鳴っていた。強く拒絶することができないのか。児嶋さんの力がだんだんと抜けてくる。やわらかく蕩ける感触につい夢中になった。

 彼女の唇から切ない声が漏れていた。私が甘く吸えば溶けるようなため息を吐いた。唇のあいだをなぞるようにすれば小さく喉の奥を鳴らした。

「んっ、…ンぅ……」

 児嶋さんの声。理性が飛ぶのに充分なぐらいに、桃色の吐息を含んだ声。

 じわりと、足の間で火照りが生まれた。喉もとまで上がり、痺れるように理性を麻痺させた。

 好きだ、好きだ、好きだ、好き……!

「う、……!」

 急に暴れだした。逃げられる――、彼女を壁に押し付けた。首を振って逃れた児嶋さんについて行って、唇を包むように吸い、隙間を割って舌を絡ませた。

 どの時点までなら、そんなつもりはなかったんですと言えただろうか。

 もう戻れない。言い訳できない。

「……はぁっ……、」

 喉の奥で、児嶋さんの声がだんだんと艶っぽくなっていっていた。

 唇からもれた息が熱かった。ふと見ると、目を閉じてキスを受けている児嶋さんは蕩けそうな、うっとりとした表情をしていて。時々眉をしかめてもがくのが、こっちの体にズグンと来るぐらい、あの瞬間の様子にしか見えなかった。

 ――気持ちいいんだ、この人。

 狂おしい期待が体を駆け巡った。

 このまま児嶋さんを追い詰めてしまったら何が出てくるだろう? たとえば、彼女が、自分は感じていると納得するまで、追い詰めたら。

 山羊の角をした原初の神が、私の耳にこう火を吹き込んだ。

 正攻法で行くばかりが能ではない。と。

 唇を離して、彼女の目が感じているように潤んでいるのを見たとき、私は、途中でやめるのをやめた。  

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