果実 第23話

 その日、朝から、彼女は目をあわせてくれなかった。

「児嶋さん、今日、うち来ないんですか?」

 帰りがけに彼女をつかまえた。児嶋さんはびくっとした。私の聞き方が怖かったのかもしれない。

 昨夜から原因のわからないもやもやとした不安感があった。児嶋さんが何をしているのか気になって、仕方がなかった。そこに来て、目も合わせてくれないから。

 彼女は一瞬の怯みを笑顔に変えた。

「行くよ。ごめん、約束してたよね」

 なんとなく、わざと、忘れたふりをして、帰ってしまおうと思っているように見えた。軽い違和感は私の部屋に入ってからもずっと続いていて。

 食事中、電話が鳴った。

 隆史さんの着メロだと気づいてから、違和感はもっと強くなった。最近鳴ってなかったメロディ。っていうか、このメロディに限らず、児島さんの携帯から最近、音がしたことなんてあったっけ? ずっと無音だった。まるでマナーモードのままみたいに。

 ヘンだ。この人。今までマナーモードにしてたのもそうだけど、今日に限ってマナーモードにするのを忘れているのも。何かあった。

「いいですよ、取っても」

「いいよ。最近無視しちゃってるから、今ここで取らなくても」

「取ってください」

 どうしてしつこく食いついてしまったのだろう。

「いいって」

「取ってください」

 じっと見つめると、彼女は仕方がなく電話に出た。

 なんで隆史とやらは怒鳴っているんだ? 揉めているのか、と思ってDVDを止めた。

 ――昨日、忘れてったけど。車に! 携帯ストラップがあるの。お前のが。

「昨日?」

 つぶやいた私を、児嶋さんは、ちらりとも見なかった。

「もう電話してこないで」

 ――だから、ストラップと、置きっぱなしのものとか。昨日部屋に本を置いて。

 最悪だ。電話の声が今日に限ってよく聞こえる。

「後で電話するから」 

 児嶋さんは、そう言って電話を切った。

 何? 今なんて言った? 車に携帯ストラップがあって、部屋に本を置いて?

 ――後で電話するから? いまいったん切ったのはなんでだ?

 おかしい――。

 忘れ物があって、受け取りに行った。隆史さんの声が妙になれなれしいのも、昨日少し話したから。

 そういう事情はいくらでも考えついたし、私にそれをわざわざ言わなかったのも、理解できる。私の体が固まったままになってしまったのは、昨夜からの嫌な予感と、児嶋さんの態度のせいだった。

 児嶋さんぐらい計算のできる人が、喫茶店や外でなく、部屋にわざわざ入るとか。部屋に本を置いて行くとか。――だいたい、いまだにゴタゴタしていることを、まったく私に気づかせなかった。そういうのだって、理由があるのかもしれない。別れぎわなんて人それぞれだ。

「はるか」

 考えなくていい。言葉そのままを受け取ればいい。

 児嶋さんがしまったという顔をしているのも、昨日事情があって会ったことを隠していたのがばれたから。それだけ。

「いま、嘘をつく必要、どこにもなかったですよね」

 指摘なんてしたくない。

「最近無視してるって? 昨日会ったんですよね?」

「会った……のは会った……」

 児嶋さんが固まったままで私を見ていた。ずきっと胸が痛んだ。

 会ったのは会ったって何ですか。会ったでいいでしょう。なんでそんなに怯えてるんですか?

 喉から出かかった言葉を飲み込んだ。

「座って」

 感情を抑えて、言った。児嶋さんにも事情はあるはずだった。私に言えなかった。そんなこと、今までだって沢山あったんだろう。言ってほしかった、そんなの今さらだ。

「隠そうとしたのはどうして?」

「ちょっと会っただけだったから、別に言う必要ないと思ったの」

 児嶋さんの唇が、からからに乾いてみえる。

 聞きたいのは、そういうことじゃない。

 でも、いつから会ってたのかとか、今までずっと嘘をついて会っていたんじゃないかとか、そんなこと聞いたって仕方がない。正直に答えられたって、私にはどうしようもないじゃないか。

「児嶋さんのちょっと会ったは、車に乗る程度ですか? 食事に行く程度ですか? セックスする程度?」

「してないよ!」

 児嶋さんが怒ったように言った。

「冷静に聞くけど、昨日ちょっと会ったけど、うちに泊まるのが嫌だったから、会ってないことにしたんですか? それとも、そもそも昨日は自分の家に帰らなかったんですか?」

 全然冷静じゃない。言葉にすればするほど、感情が高ぶっていく。

 クレーマー並のねちっこさだと、自分で気付く余裕はなかった。

「もういやだ! はるか!」

「いやだ? なにが?」

 児嶋さんが、私の下でもがいていた。

 いきなり話し合いをぶった切るな。説明する気持ちすらないのか――。

 いままでのらりくらりと優柔不断にしておいて。

 キスマークでもついていないのか、確かめたくなる。いつも通りの児嶋さんの家のシャンプーの匂いを、おかしいと感じている自分がいる。疑心暗鬼に動こうとする両手を、私は児嶋さんの手首を床に押し付けることで、抑えていた。児嶋さんは顔を真っ赤にして首を振っていた。

 ――そうやって逆切れして逃げようとするのは、たいてい、後ろめたいことがある人なんですよ! ……なじりかけた言葉を飲み込んだ。

 そういうつもりなら、もう怖がってなんかやらない。二人の関係を終わらせないためにしてきた我慢が、どれほどの感情から生まれていたか、児嶋さん、わかっていない。

 いつだってこの目は言っている。

 あの日、はるかが無理やりに抱いたんでしょう? はるかが勝手に私を好きになったんでしょう。私はただ一緒にいただけ。

 ――手をつないでもいないもの。

 隆史さんが言われたあの言葉が、私にも通用すると思っている。

 友達でもいいとは言った。こんなに「友達」という立場を貴重なものだと思ったことはなかった。

 でも、児嶋さんは、私のことなんか微塵も思いやってはいない。惹きつけるだけ惹きつけておきたいだけだ。

 どうしてあきらめようとするタイミングで期待させる? 恋愛感情をかきたてるような態度を見せつづける? 友達でいることだって苦しいのに。そうやって、人を惹きつけておきながらいつでも逃げられるような態度を、いつまで取り続けるんだ? どんなに苦しいものかわかっててやってるのか? それが友達?

 私が勝手に好きなだけ。ああそうですか。

 気持ちを知っていながら部屋に来続けた。キスをしてもいいとまで言い放った。この人はただの被害者じゃない。

 全部を自分のものにして閉じ込めたいと切望していた。魂を全部。私にはもう、ただ一緒にいるだけの時間ですら、受け取る余裕がない。体だけでかまわない。それでかまわない。もう、言い訳すら思い浮かばないようにしてやる。

 高ぶる感情の中で、頭だけ冷静に、冷えている。

 犯してやる、もう一度。何度でも犯してやる。でも、そうしたからといって、私は満足なんてできないだろう。

 入っていくことができない児嶋さんの心に傷をつけて、裂いて、そうやって自分とのつながりを傷として記してしまいたいような、もどかしい切望は、今はっきりと攻撃心になって、私を苦しめていた。何をしたところで、この感情は満足しないだろう。

 児嶋さんは泣き声になってしまっていた。

「してない。本当になにもしてない」

「じゃあどうしてそんなに動揺してるんですか」

「ホテルには行ったから!」

 児嶋さんが叫んだ。

 隠せばいいはずの生々しい単語を聞いて、脳の奥が青く染まった。

「どこまでしたの?」

 なんでこんな即物的なことばかり聞いているのだろう。

「だから何も」

「正直に!」

「キスまで」

 その瞬間、その「キス」にいたるまでの、二人のいちゃいちゃした映像が脳裏を駆け巡った。想像したくもないのに。だいたいこの状況じゃ、言えるのは事実の三割か四割ぐらいだろう。児嶋さんが正直なほうだとしてもだ。

「ふうん?」

 ずっと会ってたくせに。

「それを隠さなきゃと思ったわけだ?」

 私のことを、さらりとかわす方便で、軽々しく別れるなんて嘘をついて――。

 ちょっと会って荷物でも取りに行ってキスされただけ。ついついホテルに行った。この動揺は、そういう感じのものじゃない。ずっと隠していた嘘がばれた時の動揺だ。

 児嶋さんが逃げようとするのを、腕をつかまえて床に押し付けた。私は何をやってるんだ。また暴力になる。もう一人の私がかすかに訴えている。かまわない、ここで犯罪者となったとしても本望だ。児嶋未来の命に大きくかかわる人間になれる――。

 自分の思考に、ぞくっとした。

 脳裏で黄色信号が点滅している。神経が、息切れを起こしている。

 ちいさく息をして、呼吸を整えた。

 私には、児嶋さんをこうやって責める権利も何もない。

 どうして、好きになったんだろう。

 変になる、この人といると。

 恋愛感情がなかったら、児嶋さんを友達として好きになることもなかったかもしれない。こんなに近くにいることも、理解しようと思うこともなかったかもしれない。

 性格も、趣味も、考え方も、反発してしまいそうなほど違っていた。本当は結びつくことのない、違う人間同士が理解しあうために、恋愛感情が創られたのかと思わせるほど。

 突然のことだった。感情が強く揺れているのに、世界が開けて、私はこの状況をどこか遠くから見ていた。

 くるくると、空で、弧を描いてまわる星天が見えた。まるで芸術品のように。いくつもの歯車のように。星空はまわりながら、私を透明にした。

 児嶋さんも。私も。この時間も。なんて小さいのだろう。三葉虫の時代から続いていた時間の中で、一人の人間に執着することは、なんて砂粒のように小さくて、特別で、愛しいんだろう。

 はじめから、平行線だって、どこかでわかっていたじゃないか。平行でもずっと続いていければって、思っていたじゃないか。

「……ふぅ」

 ためいきをついて、私は児嶋さんから自分の体を引きはがした。そして、DVDを再開した。

 DVD再開したからってどうなるんだろう。また同じように観られるわけでもない。

「私たち、何なんですかね」

 本当に不思議だった。どうして二人でいるのかも、出会ったことも。それを奇跡だと、感じている自分の感情も。私は、児嶋さんのせいで自分が狂ったとしても、運が悪かったとは感じないだろう。それが運命であるかのように感じるだろう。

 それと、児嶋さんが私をどう思っているかとは、関係がない。

 児嶋さんが、こんな私と一緒に居続けた、その気持ちを、私は一生わからないままかもしれない。

「恋人でもないのに、こんな痴話ゲンカみたいなことして。児嶋さんは私に隠すし、もう……」

 児嶋さんは黙っている。

「私が男だったら、また違っていたんですかね」

 言ってから、見当違いな言葉だ、と思い直した。

「…………」

 でも、何が見当違いで、何が見当違いじゃないんだろう。たぶん、生まれてから死ぬまで児嶋さんと一緒に居続けても、児嶋さんをわかることはできない。わかりたい、という気持ち自体が邪魔をする。私は、ずっと、自分の目でしか児嶋さんを見てこなかったのだ。

 突然、児嶋さんを見たいと――友達という立場からも、恋愛感情からも自由になって、言葉もなにも使わずに、ゆがまずに、まっすぐに、児嶋さんをそのまま見たいと、私は渇望した。

 私ばかり話して、児嶋さんは何も言わない。隣に起き上がって、私の見る先、DVDを見たまま、返事をしない。

 もう、どっちみち、この関係は続かない。そう思ったら、急に喉が詰まってきて、声が出ない。

「はるか」

 児嶋さんが、私に呼びかけた。

 振り向かなくても、泣いているとわかった。

 パタパタ、音をたてて、児嶋さんの手の甲に水滴が落ちていた。どれだけ涙が出るんだろう、そんなに泣いて、体の水分干上がってしまわないか? そう思うくらい、児嶋さんは泣いていた。

 黙ったまま。小さく息の音をさせて。声をこらえて。初めて抱きしめたあの夜と同じか、それ以上に辛そうに、児嶋さんの肩が震えている。

「っていうか。なんで泣いてるんですか児嶋さん」

 そんなだから、平行線なのに、関わりたいと思わせるんだ。抱きしめたいと、キスしたいと思わせるんだ。何をしてあげることもできないのに、私の中には、児嶋さんを守りたいという感情が強く残っている。

 結局、児嶋さんが選ぶんだ。わかってもらわなくちゃいけない。私は壊れた機械みたいだ、コントロールできない凶器をそばに置きたいと思うなら、覚悟をしてもらわなければ仕方がない。私と一緒にいるということは、私の気持ちもこのままにできないということだ。

 無理だと思うなら、自分の言葉で拒絶して。

 私はDVDの音量を上げた。児嶋さんに向き直って、その肩を押した。背中に手を回して、ゆっくりと床に倒す。児嶋さんは目を真っ赤にして私を見たまま、抵抗しなかった。

「はるかと」

 泣いている児嶋さんを、責める意味にならないように。

「別れる?」

 児嶋さんが息を止めた。受け入れたくないことを聞かされたといった表情。

 駄目だよ、児嶋さん。今度はもう中途半端にはできない。

 口を閉じて、大きな目を見開いたまま、私をみつめて、彼女は、首を横に振った。

 私は児嶋さんに手を伸ばし、首元に指を押し付けた。

「襲うよ?」

 児嶋さんの首筋がこわばる。はっきり言わないなら、このまま続ける。本当にそうするつもりだった。

「だ」

 児嶋さんの声は、私の反応を怖がる声。駄目だと言葉に出して、私にとどめを刺すことを、怖がる声。

「だめ」

 ああ、やっと言ってくれた。私の腕のなかにいる、児嶋さん。私をやっと解放してくれた。

「帰ってください」

 私は児嶋さんとの幸福な時間を、そのまま凍らせた。  

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