誓い、花火、観覧車

 花やしきの門をくぐって外に出ると、街灯の明かりがシャッターを下ろした土産物屋の並ぶ通りを照らしていた。

 蒸し暑い夏の夜空に白い月だけが寒々しい。



 胸の痛みと血が逆流する感覚にふらついた鬼島きじまの肩を天丸てんまるが支える。

 卵白のような膜の張った片目からは感情が読み取れない代わりに、影を落とす長い睫毛が気遣いを示していた。

「ただの立ちくらみだ、それより……」


 鞘に収めた長ドスを担いだ浅緋あさひが振り向いた。トレンチコートは既に一滴の血もついていない。

「馬鹿か、俺は死なねえって言ったろ。ジャリみてえに焦りやがって」

 鬼島は前を歩く浅緋のふくらはぎを軽く蹴り飛ばした。


 サイレンが響き、夜に一条の赤い光を走らせた。

 花やしきの前に一台の救急車が停まる。忙しなく降り立つ担架を担いだ隊員たちの向こうで、携帯を片手にスーツ姿の陰陽師が頷いた。

「もう一台呼ばなくていいのかよ、店長」

 鬼島は脇腹を小突いた冬瓜とうりを無視する。虚勢を張る余力もなかった。


 担架に乗せられた陰陽師が眩い車内に飲み込まれる途中、手を挙げて鬼島を呼びとめた。

「殺ったのかよ」

 枕元に麻雀牌を模した耳飾りがふたつ並んでいる。

「ああ、完全に消えた」

「殺したとは言わねえんだな」

 若い陰陽師が歯を見せた。

「お前さ、いい妖怪なんてのは健康になる病気とか綺麗な病原菌くらい有り得ない話だぜ」

 鬼島が目を逸らしたとき、陰陽師の脚元に白と茶色の猫が飛び乗った。


「何だこいつ」

 鬼島が止める前に陰陽師は息を漏らして笑い、猫を抱え上げた。腹に乗せて仰向けに転がし、くしゃくしゃに撫で回す。

「迷い猫か? あの怪異に捕まってたのか? いい毛並みだ」

「貴方の膝も中々ですよ。それから戦いぶりも」

 呆然として手を止めた陰陽師のするりと逃れ、纏依まといが担架から飛び降りた。


 救急車の扉が閉まり、夜闇の中に消えていく。

 鬼島が背後に視線をやると、暗がりに沈む花やしきの全貌が広がっていた。周囲のビルに囲まれた遊園地の塀の上には観覧車も巨大な帽子ももうなかった。



 ***



「みんなお疲れ様。後は死体を回収してあげて」

 インカムにやった手を下ろし、八坂やさかは顔を上げる。


 東京人妖協会の事務所は明かりが消え、八坂の立つ談話室だけ白熱電灯の光が照らしていた。

 物音に視線を向けると、暗い廊下の壁にもたれた渡月わたつきが立っている。


「状況は?」

「座敷わらしは消滅しました。我々の勝利です」

「あっそう。で、被害は?」

「外で結界を張っていた牧原まきはら隊員は無傷、萬里ばんり隊員は重傷ですがもう搬送され、命に別状はありません。南野なんの隊員と加地かじ隊員は……」

 八坂は目を伏せて首を振った。


 金色の髪が蛍光灯の光を吸って揺れた。

「へえ……俺の側近は両方死んで、お前の派遣した陰陽師は帰還、妖怪どもは無傷って訳か」

「結界を担当した牧原はともかく、後は誰が死んでもおかしくない状況でした。人間より妖怪の方が強いのは自明です。上手く使いましょう。そのための協会ですから」

 八坂は表情を変えずに廊下の一点を見つめて付け加えた。

「ご愁傷様でした。南野と加地には私も助けられていましたから、残念です」


 渡月は廊下に座り込むと、苛立ったように前髪を掻き上げた。

「そのための協会ね……だったら、こっちにも考えがあるからな……」

 廊下の奥で非常灯の明かりがじり、と音を立てて明滅した。



 ***



 茜色の空に玩具のような観覧車がゆっくりと回転していた。


 蒲田駅と直結するビルの東急プラザ蒲田の最上階には都内で唯一となった屋上遊園地がある。

 鬼島が見回す夕暮れ時の広場に子どもの姿はなく、造花のひまわりに囲まれたテラス席に酔客が座るのにはまだ少し早い。


「デパートつったらジャリの遊び場がどこにでもあったもんだけど、東京も発展したかと思ったらずいぶん貧しくなっちまったな」

 傍らの浅緋が肩を竦める。

「子どもももう少ないからな」

「変わったもんだ。昔はああいうところにアドバルーンつってデケえ風船みたいなもんがぶら下がって広告を提げてたんだぜ」

「人間の爺さんと話してるみたいだ」


 鬼島が苦笑すると、スーツ姿の八坂が現れた。

「早いね、他のみんなは?」

「閉店作業を終えて後から来ます。うちの店でもよかったのに何でわざわざ蒲田に?」

「慰労会なのに昨日の今日で鬼島くんたちを働かせられないよ。それに彼女の希望で」


 八坂が指した方を見ると、黒いスリップドレスに眼帯姿の天丸がこちらへ歩いてくるのが見えた。

「そういえば、ここに住んでるんだったな……」



 天丸は底の薄くなったビーチサンダルを鳴らして、屋上のフェンスにもたれた。彼女の手にいつもはあるはずのビール缶がないのを浅緋が見とめる。

「今日は酒呑んでねえのかよ」

「気分じゃないんだ」

「どっかおかしくしたんじゃねえか」

「本当は四六時中飲んでいる方が病気なんだぞ」

「手前でわかってんのかよ」


 天丸は小さく笑い、夕空に咲く八色のゴンドラを眺めた。

「昔はもっと広い遊園地だったんだけど今はあれが残ってるだけだ」

 異界の花やしきにそびえる巨大な観覧車が脳裏に浮かび、鬼島は表情を曇らせた。

「八坂から聞いた。座敷わらしは長年幽閉された恨みでああなったらしいな」


 冷えた風が通り、天丸は剥き出しの腕をさする。

「あいつに最初に襲撃されたのは蒲田だった。たぶん、解かれて最初にここに来て、見たのがこの観覧車だったんだろう。そこから浅草まで逃げて、異界を作った。遊園地ならここと同じ観覧車があると思ったんのかもしれないな」


 観覧車の乗り場から作業服の男が出てきて、入り口にチェーンを巻くのが見えた。

「まだあの怪異を恨んでるか」

 鬼島の問いに天丸は首を振った。

「奴はもう消えた。私がするべきことはない。死人は喜びも苦しみもしないからな。私の旦那もそうだ。全部、私の自己満足だ」

「そうだな……」



 ゴンドラが完全に動きを止めたとき、耳慣れた高い声が聞こえた。

「店長、ちゃんとお店閉めてきましたよ!」

 氷下魚こまいが手を振りながら駆け寄る。

「あのアイス係にやらせて大丈夫かよ」

「他の奴らもいるから平気だろ」

 鬼島は浅緋を置いて、次々と現れた妖怪たちの方へ向かった。


 紙袋を提げた丑巳ひろみ椿希つばきの後ろから、ハイビスカス柄のシャツの冬瓜と、少し離れて歩く纏依の姿が見えた。

「共生、か」

 八坂は眩しげに目を細めた。

「満足かよ」

 視線だけ動かして聞いた浅緋に微笑が返る。

「まだまだ。全然だよ」


 星が地上に落ちて連なったような電飾が灯り出し、屋上の庭園を照らし始めた。



 木のテーブルにタンドリーチキンやフライドポテトを詰めたバスケットが並びま、ビールを注いだ紙コップが置かれる。


「お前がいると夏でもこういうもんが溶けなくていいよな」

 冬瓜は霜の降りたクーラーボックスを持ち上げ、白い煙を上げるレモンシャーベットを感心したように眺めた。氷下魚が眉を下げて笑う。

「本当ですか? 料理はほとんど皆さんに作ってもらったんですけどね」

「いいんだよ、あいつなんか何も仕事してないんだから」


 顎で指された丑巳は瓶を片手に首を傾げた。

「僕にしては働いたよ」

「ええ、調査の手際は素晴らしいものでしたよ」

 口を挟んだ纏依に椿希の目が光った。

「へえ、詳しく聞きたいものね」

「面白い話でもないからさ……」

 丑巳は会話を打ち切って妻のコップに酒を注いだ。



 隣の卓に座っていた鬼島は、喧騒の中で時折伺うような視線を向ける纏依と目が合った。

 鬼島は溜息をつき、

「纏依」

 自分の膝を軽く叩く。

「人間のままは嫌だ、絵面が酷すぎる。せめて猫になれ。五分だけだぞ」

 言い終わる前に柔らかな毛の塊が飛び、鬼島の脚を駆け上がる。喉を鳴らして膝の上にうずくまる姿はただの猫と変わらなかった。

「暑苦しいな」

 昼間の日差しを吸った温かい頭を手の甲で撫でながら鬼島は空を見上げた。



 細い口笛のような音が響き、次いだ破裂音とともに雲の隙間に光の花が散った。

「何だ、抗争か?」

 浅緋がチキンの骨ごと食い千切って目を向ける。

「そんな訳ねえだろ」

「どこかで大会があるのかな」

 八坂が呟き、氷下魚がフェンスに駆け寄って身を乗り出した。

「あっち側見えます! 花火ですよ、花火!」


「何だ?」

 ビール缶を手にした天丸が割り込む。

「呼んでねえよ」

 浅緋に肩を押し返され、彼女はバツが悪そうに酒を煽った。

「私の名前も花火なんだ。もう呼ぶ奴もいないけどな」


「綺麗な名前なんだね」

 八坂は金色に輝く薄雲を眺めた。

「じゃあ、ちょっと仲間かな。私は夏夜っていうの。夏の夜って書いて」

「いい名前なのに嫌そうだな」

「わかる?」と八坂が苦笑する。

「真夏の夜の夢ってね。すぐに終わって全部が幻になる。気に入らないな」



 浅緋は骨を放り捨てると、組んだ脚を机に投げ出した。

「もう五分経ったんじゃねえのか」

 鬼島の膝で丸まった纏依が鼻をひくつかせ、素直に飛び降りた。


 鬼島はかぶりを振って浅緋を見上げる。

「脚下ろせ。何イラついてんだ」

「ガキだの畜生だのには甘いよなぁ。それで死にかけた」

 浅緋の視線から逃げるように鬼島は俯いた。

「偽善者って訳でもねえ。何かに怯えてるみてえだ。そうなっちまった訳でもあんのかよ」



 遠い花火の火の粉が風を焼く乾いた音が聞こえた。

「昔、俺が学生だった頃、友だちがいた」

 鬼島は手元の紙コップを握りつぶした。

「ろくに喋らない俺に毎日話しかけてどこにでも引っ張っていくような奴だった。強い奴だと思ってたんだが、思い返したら痩せっぽちの子だった。あいつの親がろくでもなくて、いつも腹空かせてた。俺は面白いことも話もできない代わりに、飯の作り方を覚えて……」

 こめかみに手をやって口を噤んだ鬼島を、浅緋は無言で見下ろしていた。


「そいつは、死んだ。怪異に殺された。たぶん俺に関わったせいだ。うちの血筋に恨み持ってる奴はいくらでもいたからな……最初は復讐だけ考えた。除霊隊に入って、追いかけても見つからなくて、もうとっくに祓われたんだろうと思ったら、何もなくなった。それからは罪滅ぼしにもならねえ、お前の言う通り怖いんだ。見捨てた方が楽だとわかっても、あいつだったらと思うとできない」

 ひしゃげた紙コップに力を込めて潰した。



「偽善者より質が悪ぃな。もう染みついてる癖ってわけだ」

 浅緋は椅子から降りた。

「だが、俺はお前に死なれると都合が悪いんだよなあ……」

 視界の隅でコートの裾が翻る。


「そうだ、こうしようぜ」

 浅緋が鬼島に詰め寄って指を突きつけた。

「お前が他人を守って死ぬのは手前の領分だ。けどな、それで死んだら、俺はお前を殺した奴とそいつの身内を全員食い殺す。生まれたばっかのガキだろうが顔も見たことねえ親戚だろうが関係ねえ。皆殺しだ。そんときお前は聖人じゃねえ、最悪の化けモンを世に放った極悪人だ。よく覚えておきな」


 妖怪が獰猛な歯を見せて笑う。鬼島はしばらく硬直していたが、やがて深く息をついた。

「よくわかったよ」


 新しいコップを引き寄せ、酒を注いで飲み干した。浅緋が片眉を吊り上げる。

「陰陽師の言った通りだ。いい妖怪なんかいないってな」

 挑むように向けた視線に浅緋が仰け反って笑う。



 砲声に似た音が風に乗って、見えない花火の煙を運び、観覧車のゴンドラを揺らした。

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