アル中、変態、阿呆ボン

「八尺様……これもインターネット発祥の都市伝説か。見た目は頭に何かを被った女の姿で、一般的には白いワンピースに帽子姿で描かれる。特徴的な笑い方と二メートル以上の長身。基本的に封印されている場所からは出られないが、気に入った者に付き纏い、取り殺す。主に男性や男児を狙う……」



 鬼島きじまはスマートフォンの画面をスライドしながら呟いた。

 店内では珍しく訪れた客が奥の座席で缶ビール片手に据わった目をしている天丸てんまるを訝しげに眺めていた。

 鬼島は疲れ切った声で彼女を呼び、カウンターの奥に隠す。


「お前の旦那の仇っていうのがこれか?」

 天丸はプルトップを指でなぞりながら、鬼島が掲げた液晶の画面を見て頷いた。

「おそらく。私は女だから奴を見つけられなかった。協会が男の陰陽師のみで調査すると言っていたが人間じゃ心許ない」


「俺とお前と牛鬼で行きゃいいじゃねえか」

 カウンターに腰かけた浅緋あさひが言った。テーブルを拭いていた丑巳ひろみが顔を上げる。

「ええ……僕より冬瓜とうりくんを連れて行きなよ」

「八尺様だかが混乱して面白れえだろうな。女だと思うか男だと思うか試そうぜ」


「遊びじゃねえんだぞ」

 鬼島がメニュー表で机を叩いた。

「わかった。とりあえず八坂やさかさんに連絡して俺たちで調べる。それまで大人しくしててくれ」

 天丸は俯いて空の缶を握りつぶした。



 店から地上へ伸びる階段を上りきり、鬼島は外の光に目を細めた。

 浅緋と氷下魚こまいがついてくるのを確かめてから視線を上にやる。

 アメヤ横丁を見下ろす摩利支天を祀った寺の紫色の旗が熱風にそよいでいた。青々とした垣根の合間から麦わら帽子が浮き沈みしている。

「まさかな……」


 調べたばかりの怪異の姿が脳裏に浮かんだのを払うように頭を振ると、人混みを掻き分けて八坂が現れた。

「お疲れ様、退院したてなのに忙しいね」

 会釈を返すと、八坂の後ろに傷んだ金髪の頭が覗いた。


「そちらは?」

「東京人妖協会の渡月わたつき会長の息子さん。鬼島君に話があるんだって」

 八坂が右にずれると、金髪に不釣り合いなスーツを纏った青年が現れた。まだ幼さの残る顔には縦に並んだ泣き黒子がふたつあり、鬼島を見ると不機嫌そうに歪んだ。


「お初にお目にかかります」

「いいよ、堅苦しい挨拶は。上野の鬼島だよね? 知ってるよ、頑張ってくれてるみたいだし」

 渡月は虫を払うように手を振ると、腕を組んだ。

「本題なんだけど、火車のことは適当に追っ払ってくれないかな。うちの親父も迷惑してるんだよ」


 鬼島は問い返す代わりに片方の眉を吊り上げた。

「怪異と勝手に戦うなってあったのに好き勝手飛び回るし、こっちから調査員を出すって言っても聞かないし、溜まったもんじゃないんだよ」

 八坂が苦笑を浮かべる。


 鬼島は溜息をついた。

「気持ちはわかりますが頼ってきた妖怪には協力しろって言われてるんです。うちだけで何とかします。協会に迷惑はかけませんよ」

「ヒダルガミがいるから平気だって?」

 渡月が目つきを鋭くした。小柄な彼が長身の鬼島を睨むと顎を持ち上げる形になる。


「お前が頑張ってるのは知ってるけどさ、その分面倒事も持ち込んでるのわかってる? お前は最悪の妖怪を起こしたんだ。今忙しいから保留にしてるけどそれなりの罰則があってもおかしくないんだよ」

 キンと、刃が鳴る音がした。振り返らなくても浅緋が長ドスを抜こうとしているのがわかる。


「そういえば」

 八坂が手を叩いた。

「氷下魚ちゃん、来年大学受験だよね?」

 急に話を振られた氷下魚が狼狽える。渡月が頰を引きつらせた。

「え……」

「はい、社会人学生で来年入試の予定です」

 代わりに答えた鬼島に氷下魚が縋りつく。

「え、私、受験生なんですか?」

「八坂さんが何か言い出したら話合わせとけ」

「いいんですか?」

 鬼島は声量を落とした。

「大抵悪どいやり口だけど上手く事が運ぶ」

「そんな……」


「渡月さんは有名大学に通ってるの。話を聞かせてもらったら参考になると思うな」

 目を三日月のように細めた八坂に渡月が慌てて叫んだ。

「馬鹿、こっちは忙しいんだよ! そんな話してる時間ないからな! わかった、適当な妖怪派遣してやるから勝手にやってくれ、俺はもう帰るからな!」


 最後に鬼島をもう一度睨みつけ、渡月は逃げるように去っていった。

「合わせてくれてありがとう」

「まさかとは思いますが、裏口入学か何かですか」

「たぶんね」

 沈鬱に息をついた鬼島に八坂は微笑んで肩を竦めた。

「阿呆ボンがよ」

 人混みに紛れる金色の頭を見つめて浅緋が吐き捨てた。



「それで、派遣されたのが彼ですか」

 夕暮れ時になり、ランチメニューをしまいながら再び店を訪れた八坂と傍の青年を見て鬼島が尋ねる。

「そうなんだけど、ごめんね。嫌がらせされちゃった」

 八坂は歩み寄って鬼島にしか聞こえないように囁いた。

「大変だと思うけど頑張って」

 問いただすより早く八坂はパンプスの踵を鳴らして消えた。


「協会から派遣されました、纏依まといと申します。お役立ていただければ」

 残された青年が礼儀正しく一礼する。

「おう、よろしく……」

 まだ二十代前半だろう。ワイシャツのボタンもベストもネクタイも緩めず真面目な印象から八坂の言葉の真意は伺えない。猫のような柔らかい髪は色素が薄く、蛍光灯の下では茶色に白が混じって見えた。



 青年は動かずにテーブルの脚の間をじっと見つめていた。

「どうかしたか」

「店長、いい脚をしていますね」

「何?」

 彼の瞳は暗い沼の底のように動かない。

「スポーツマンとはまた違う、もっと実戦的な筋肉のつき方ですね。自衛隊か警察学校などにいらっしゃった?」

「ああ、よくわかるな……」


 答え終わらないうちに青年がすっと身を屈め、音もなくテーブルの下に飛び込んできた。暗器のようにしなる腕が脚に絡みつき、鬼島は反射的にテーブルごと蹴り飛ばした。

「なに、何考えてんだ、てめえ!」

 壁にぶつかった青年は片方の鼻から血を垂らしながら応えた様子も見せない。


「やめなさい、纏依くん」

 店を出たはずの八坂が扉に手をかけ、呆れたように見下ろしていた。


「また警察を呼ばれたいの?」

「すみません、性でして。気がついたら」

 青年が鼻血を拭って立ち上がる。鬼島は呆然とひっくり返ったテーブルと八坂を見比べた。


「八坂さん……」

「すごい音がしたから駆けつけたの」

「何ですか、こいつは」

「さっきの奇行の通り、すねこすりだよ」

「だから、脚に縋りついてきたってことですか……」

「渡月さんに問題児を押しつけられちゃったね」


 纏依は片方の鼻から流れる血を止めようともせず、焦点のわからない目で佇んでいる。

 鬼島は舌打ちしてテーブルのスタンドから引き抜いた紙ナプキンを彼に押しつけた。


「まだ俺でよかった。女相手だったら警察沙汰だ。それに浅緋がいなくてよかった……」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 氷下魚と椿希は買い出しに、浅緋は目的はわからないが外出していた。大方、敵を探りに行くと言っていた天丸に着いていったのだろう。

 厨房にいるはずの丑巳は我関せずという風にレモンを輪切りにしていた。



 電子音が鳴り、八坂が携帯を耳に押し当てた。

 二、三言交わした後、電話が切れる。

「悪いけどもう行かなくちゃ。件の陰陽師の遺留物について新しく何かわかったみたい」

 八坂はしばらく暗い画面を無表情に見つめてから、いつもの微笑に戻った。

「纏依くんは問題児だけど偵察に関してはエキスパートだからそこだけは信頼して。そこ以外は信頼しないで」



 頑張ってね、と念を押して彼女が店を出ると、入れ替わりに氷下魚が入ってきた。


「店長、すみません、メモにあった洗剤って詰め替え用でいいんですよね? 一ガロンのものしか売ってなくて……」


 纏依の視線は私服に着替えた氷下魚のスカートから覗く膝のくぼみに焦点を結んでいた。

「いい脚をしていますね」

「え? ああ……ありがとうございます? ええと、貴方は……」

 纏依が動く前に正面から飛んできた銀のトレーが彼の額に直撃した。氷下魚が悲鳴を上げて足元に落ちた血塗れの紙ナプキンを避ける。


「まずいよ、店長くん。痴漢は犯罪だけど傷害や殺人はもっと刑期が長いね」

 厨房から丑巳が厨房から顔を出す。

 鬼島はトレーを拾って消毒のスプレーをかけてからカウンターに戻した。

「だ、大丈夫ですか……」

 怯えて壁に貼りついた氷下魚に纏依は平然と首肯を返す。


「お前そんな風で捕まらないのか」

「今月はまだ警察を呼ばれていません」

「月単位で数えるな」

「ご心配なく。協会の仕事のときは問題が起こらないよう姿を変えていますので」

「問題を起こさないことを頑張れよ。で、敵の偵察をやるんだって?」

「もう目星はついています」


 彼は赤い線のついた額に触れてから姿勢を正した。

「協力するのは吝かではありません。私はそのために来たのですから。しかし、お願いしたいことがひとつあります」

「言ってみろ」

「鬼島店長、脚に触らせていただけませんか。十秒、いや、五秒で構いません」

 鬼島は乾いた血の跡が残る青年の顔を見つめ、長い逡巡の後、絞り出すような声で言った。

「考えておく」



 氷下魚しか店員がいなかった頃は静かで穏やかだった店内が嘘のようだと思う。

 連日の暑さに耐えかねた空調までもが騒がしく調子外れにファンを鳴らしていた。

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