猫、浅草、偵察

 早朝の店内で、天丸てんまるは当然のように持ち込んだ缶ビールの片手に座り込んでいた。



「もう叱る気も起きねえよ……」

 鬼島きじまはうんざりした声を出し、カウンターに今日やることをまとめたメモを置いた。

「俺たちが出てる間は店頼んだぞ」

 氷下魚こまいはメモを受け取り、小声で書かれていることを読み上げ始めた。その内の何個が正しく実行されるだろうかと鬼島は思う。


「じゃあ、僕も行くけどただの調査だから……」

 丑巳ひろみは歯切れの悪い口調で言う。椿希つばきはリンゴの皮を剥きながら、

「いいわよ。ちゃんと殺してきて」

「だから、調査だって」

 螺旋状に解けていた赤い皮が落ち、包丁がまな板に突き刺さった。

「ぽっと出の女に連れていかれたら、殺すわ」

「ええ、どっちを……?」


 壮絶な笑みを貼り付けたを残し、男たちが店を出た。


「あの、旦那さんなんですよね……」

 氷下魚がメモを揉みながらおずおずと見上げる。

「籍は入れてないけどね」

「心配だったら、店長に言って帰らせてもらうとか……」

 椿希はやっと表情を和らげて向き直った。

「大丈夫よ。あのひとは意外と何でも上手くやるから。できない振りしてるだけ。趣味が悪いの」


「じゃあ、貴女も趣味が悪いんだな……」

 空調の音に掻き消されそうな声にふたりが振り向くと、天丸が空になった缶を机に置いた。

「私の旦那も趣味が悪かった。私と結婚したくらいな……」

 椿希は「そうね」とふっと息を漏らし、彼女の前に座った。

「どうせ暇だわ。貴女たち夫婦の話を聞かせてよ」

 天丸は頷く代わりに淀んだ目をかすかに伏せた。



「で、目星つけてんのは浅草だって?」

 アスファルトの照り返しが目の前の雑踏も歪める暑さの中、トレンチコートのポケットに手を突っ込んだ浅緋あさひが聞いた。

「ああ、この近くで待ってるはずなんだが……」

 アメヤ横丁の高架下はアリの巣のように僅かな隙間を米軍放出品店やジッポの専門店が塞いでいる。


「編成は男性だけですか。いい判断ですね」

 静かな声がした方に目を向けるがひと影はない。


「こちらです、視線を下に」

 鬼島が言われた通りに足元を見下ろすと、倒れた耳と白にコーヒーを零したような模様の一匹の猫がいた。柔らかい毛並みと身体が脛に触れた。

「お前、纏依まといか!?」

「偵察のときはもっぱらこの姿を取っています」

 咄嗟に足を引いた鬼島を名残惜しげに見て猫が口を開いた。

「確かにこれは誰も気づかないね」


 呟いた丑巳の脇をすり抜け、浅緋がすねこすりの尻尾を鷲掴みにした。のれんのようにめくり上げる前に尾がするりと手の中から逃れる。

「何をするんです」

「金玉も猫と同じかと思ってよ」

 艶のある毛の生えた眉間に皺が寄った。

「不適切ですね。初対面の相手に陰嚢の話から入るのですか」

「急に足に抱きつく変態よりマシだろうが」

「どっちもやめろ。聞いてるだけで頭が悪くなる」

 鬼島が睨み合う両方の顔を押して横を向かせた。


「鬼島店長、彼は同行者として適切ではありません。ご覧ですか、この分別のなさ」

「畜生連れて偵察なんか行けるかよ。俺がいりゃあ何でも斬れる。それで充分だろ」

「うるせえ!」


 踵を返した鬼島の肩が小さく叩かれた。

「何だ! 次脚と金玉の話した奴から骨折るからな」

「いや、どっちもしないけど……大丈夫?」

 顔を覗き込む丑巳を見返して鬼島は溜息をついた。

「忘れてくれ……どうした?」


 丑巳が身を屈めて隠れるように指をさす。枝分かれした路地裏にかすかな影が蠢いた。後方の浅緋と纏依も同時に視線を向ける。

 高架の上をけたたましく列車が駆け抜け、差し込んだ陽光の明滅とともに影が消えた。


「尾行か?」

 鬼島の問いに丑巳は肩を竦める。

「赤いサンダルでしたね」

 纏依が縦長の瞳孔を更に細めた。

「やはり浅草の方角です。行きましょう」



 日差しで霞む空に針のようにそびえるスカイツリーを見ながら歩くと、昔ながらの古風な商店が目につき始める。

 人力車に追い越されて立ち止まった交差点から雷門が見えた。


「この辺りから妖気を感じます。協会の人間が調査に訪れましたが芳しい成果は得られませんでした」

 青信号で溢れ出した観光客に潰されないよう避けながらついてくる纏依を掬い上げて、鬼島は横断歩道を進む。

「結界でも張られてんのか」

「おそらく。しかし、陰陽師を弾く防壁ならすぐわかりますがそれとは違います。まるで内側から閉ざしている檻のようだ」

 腕の中の纏依を見たがそれ以上の答えはなかった。



「猫ちゃん」

 父親に肩車をされた少女が叫んだ。鬼島がぎこちない笑みを返そうと努める間に、首を伸ばした纏依が小さな手のひらに頭を差し出していた。

「ふわふわだ」

 父親が申し訳なさそうに会釈し、少女は手を振って去る。

「脚じゃなくてもいいんだな」

「偽装工作の一部ですよ」

 辿り着いた朱塗りの門の間から仲見世通りが覗いていた。



 参拝客と揚げ饅頭や雷おこしを売る商人たちの間を抜け、浅草寺の鳥居が見えた辺りで纏依が地に降り立つ。

「先ほどの影はふたつありました。皆さんは赤いサンダルの持ち主を探してください。私はもう片方を」

 猫らしい身のこなしで人混みに繰り出した纏依は沢山の脚に囲まれてすぐに見えなくなった。



「サンダルって言ったって……」

 周囲を見回すと絶えず行き交うひとびとの中に、鳥居の柱にもたれかかって電話をしている女が目に入った。笑いながら黒いペディキュアを塗った素足で弄ぶサンダルは割ったスイカのような赤だ。


「ヒモ野郎、得意だろ。行ってこいよ」

 浅緋が丑巳の背を小突く。

「ええ、嫌だけど……」

 コートの裾から長ドスの鞘がちらついた。

「椿希ちゃんには言わないでよ……」


 丑巳は緩慢な足取りで女の方へ踏み出した。

「赤いサンダル……」

 呟きと同時に電話を切った女が顔を上げる。

「何?」

 声に嫌そうな響きはなく、可笑しげに丑巳を見た。

「いや、気になったんだ」

「これが?」

 片足が持ち上がり、サンダルが揺れる。

「うん、それだけ見て。綺麗な子だろうなって思ったから確かめたいなって」

 丑巳はいつもの気怠そうな表情で女を見た。

「へえ、どうだった?」

 女が挑むような目つきをした。



「ヒモってすげえな」

 滞りなく会話を交わす丑巳を喫煙所から眺めながら浅緋が感嘆の声を上げた。

 少し離れたベンチでは、腰掛ける老婦人の膝に乗った纏依が彼女の夫らしい老紳士に頭を撫でられている。

「俺には無理だ」

 鬼島はかぶりを振ってライターを擦った。

「俺たちは何かしなくていいのかよ」

「しなくていい。騒ぎを起こすな。俺はお前のお守りだ」

「逆だろ」

 浅緋が鼻を鳴らす。


「お前は一番強え妖怪といるのがいい。手前より弱い奴がいると際限なく馬鹿になるからな。拾える命を捨てに行く。短い寿命でそんなに生き急ぎたいか?」

 五重の塔が石畳に長く広い影を落とす。

「そんな馬鹿になっちまったのは何か理由があんのかよ」

 鬼島は顎を上げて煙を吐き出した。

 青空を貫くように花やしきから突き出した黄色の尖塔型の遊具が五重塔に重なっていた。



 目蓋に映った太陽の残像のように空の色が一瞬赤く染まった。


 鬼島は弾かれたように目を見開く。空は何の変哲もない青だ。

 熱い空気に混じって冷えた吐息のような風が吹き抜けた。浅緋は境内の向こうの一点を注視している。

「浅緋」

 互いに視線を交わし、鬼島たちは喫煙所から飛び出した。



 境内を横切るように駆け抜ける鬼島の足元をいつの間にか纏依が追走していた。

「そちらもお気づきでしたか」

「ああ、裏手だな」

 提灯の下にいた丑巳がこちらに気づいて向かってくるのが見える。鬼島は足を早めた。



 浅草寺の敷地を抜けると、路地裏は日が陰りラブホテルや居酒屋がひしめく猥雑な通りになる。

 ホテルの影から二体の黒い塊が分離し、ひと型を形作った。


「ヒダルガミ、挟撃しましょう」

「命令すんな食い殺すぞ」

 抜刀した浅緋が地を蹴る。

 影の一体の注意が逸れた瞬間、纏依が壁を駆け上がり、換気扇を蹴って太い配管に飛び込んだ。

 小さく断続的な足音を消すように浅緋が吠える。


 踏み出した前方の影が長ドスの一閃で袈裟斬りに切り飛ばされた。

 後ろのもう一体が構えるより早く、配管の切れ目から弾丸のように飛び出した猫が空中で青年の姿に変わり、携えたナイフを振り下ろしている。

 頸動脈に当たる部分に直撃を喰らった影が霧散した。



「命令ではなく提案です。不遜ですね」

 刃を地面に突き立てて着地した纏依の靴底で黒い塵が風になびいた。不機嫌そうに纏依がナイフを袖にしまう。

「一匹は尋問用に残しておけよ」

「貴方が配慮すべきだったのでは?」


「何でお前らそんなに相性が悪いんだ」

 鬼島の背後で丑巳が息を切らしながら追いついた。

「僕の仕事いらなかったんじゃないかな……」


「鬼島店長、これを」

 纏依が足元を指す。影が跡形もなく消え去った後、アスファルトに両断されたゴム毬と子ども用の赤いサンダルが転がっていた。

「何だこれ……」

「呪具になり得るものではありませんね」

 纏依は手袋をつけた手でサンダルを拾い上げた。

 手元から散った塵が上空へたなびいていく。


 塵は空に舞い上がり、ある一方へ吸い込まれるように流れていった。浅緋が目を細める。


 塵が向かった方向は浅草に古くからある遊園地、悲鳴に似た子どもの歓声が響く花やしきだった。

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