四、怪異と花火と観覧車

たらこパスタ、深酒、未亡人

 臓腑の色は暖かかった。


 貯蔵庫の中のわずかな冬の蓄えを隠れて食い尽くし、寒村から逃げてくる女がいた。天鵞絨のような毛並みの腹を水で膨らませた馬がいた。高価な刀を提げた従者と芋を分け合いながら峠を歩く編笠の貴人がいた。


 目の前で男が眠っている。


 ある者は怯えて言葉を失い、ある者は即座に斬りかかろうとした。皆、食い殺した。

 腹を裂いて、てらてらと光る臓腑に残った中身をねぶった。塩の味の血を啜って、肉を引き剥がして骨ごと噛み砕いた。捕食の瞬間以外で生き物に触れたことはない。生者の体温は知らない。湯気の立つ血肉から生き物は温かいのだと思った。

 それでも、飢餓は癒えなかった。


 目の前の男が寝返りを打つ。

 布団の下の腹が浮き沈みし、張りのある内臓の色と重さを想像する。包帯の間から見える褐色の腕に血管が浮いている。食い破ったら熱い血潮が噴き出し、雨のように全身を濡らすだろう。

 腹が減っていた。静かな寝息の聞こえる方へ這い寄り、上下する喉仏へ手を伸ばす。



「おはよう、鬼島きじまくん」

 薄黄色のカーテンが開け放たれ、八坂やさかが姿を現した。

 浅緋あさひは反射的に身を翻してパイプ椅子に腰を下ろした。


 ベッドの上の鬼島が呻いて目を開け、慌てて身を起こした。

「何でここに……」

「今日で退院でしょう、迎えに来たの」

 八坂は寝ぼけ眼の鬼島に花束を押しつけ、浅緋と交互に見比べる。

「何かしてた?」


 鬼島は目を瞬かせて病室を見回した。

「いや、寝てました」

「寝てんのを見てた」

「怖えよ」

 八坂は微笑んでから浅緋に向けて目を細めた。牽制するような視線だった。浅緋は気づかないふりをして真夏の太陽がサッシを拷問器具のようにギラつかせる窓の外を眺めた。



 病院を出た鬼島は花束を持て余しながら、八坂が手配した黒いバンの後部座席に乗り込んだ。隣に座る浅緋が鞘に収めたドスを持ち直す。

「このままお店に向かっていいのかな」

「お願いします」

 バンが発進し、作り物のように青々と輝く街路樹が後ろに流れ出した。


 首の包帯を解きながら鬼島は助手席の八坂に声をかける。

「俺が寝てる間、何か進展はありましたか」

「いくつかね。まずは件の陰陽師の正体がわかった。外馬そとばたてる。二十九歳。元はオカルト番組で心霊スポットなんかパフォーマンスを行う似非霊媒師だったみたい。観たことある?」

 八坂は座席の間からコピー用紙を差し出した。

 テレビ画面を撮った粗い画質の写真の中に、まだいくらか顔色のいい痩せた男が狩衣を着て佇んでいる。


「家系を辿ったら江戸の終わりに少し流行った拝み屋だけど彼自身に力は殆どないね。金銭目的で危ないヤマに手を出して、本物の怪異に魅入られたってとこかな」

「妖怪を真似して欺けば何とやらだな」

「それドイツの話だぞ。妖怪じゃなくて亡霊だ」

 八坂は微笑して次の紙を取り出した。



「次に鬼門の後から発見されたロザリオ。これは二百年以上前のものだった。製作時期でいえば幕末に当たるかな。年代物だからそれなりに呪いも強いね」

「そんなものをどこから……」

「それは調査中。あと、ロザリオの材質を調べたら東京に古くからある神社の神木から採られていたの」

「キリスト教のものなのに神社から、ですか」

「切支丹弾圧があった頃は仏具にカモフラージュして偶像を作ることは珍しくなかったよ。マリア観音なんかがいい例。でも、これは悪意を感じるかな……」


 泥と焦げ跡で汚れた十字架は炭の塊のようだ。

「宗教を融合させること、古来の妖怪に新しい怪異の皮をかぶせる行為、どちらも混ぜ物の呪いだね」



「切支丹なら話が早えや。海外からエクソシストでも何でも呼んじまえば俺らはお役御免じゃねえのか」

 浅緋がシートに踏ん反り返って足を組む。

「それはできないよ」

 信号が赤に変わり、バンが停車する。八坂の冷たい声がエアコンの風に混ざって流れた。



「怪異の存在が知られてない現代じゃ協会の権力はないけど、このまま抗争が続いて隠していられなくなれば違ってくる。天災と同じで国が対策を考えなければいけない話になってくるかも。陰陽師が朝廷で重んじられた平安のようにね」

 八坂が窓の外の雑踏を睨んだ。

「そのときに自国で対処できずに他国の霊媒師に頼ったなんて事実が残ればうちの面子は丸潰れ。これは私たちの沽券に関わる問題なんだよ」


 バンが再び動き出し、八坂が前に向き直る。

「面子だしがらみだいつの時代も変わんねえな」

 浅緋が吐き捨てた頃、アメヤ横丁の看板が近づき始めた。



「しばらくは本業に勤しんで大丈夫だけど、また妖怪が頼ってくるかもしれないからそのときは連絡して」

 車を降りた鬼島たちを呼び止め、八坂が窓から身を乗り出す。

「君たちは三体の怪異を打ち破ったとして協会中に知れ渡ってる。敵からも警戒される頃だと思うからよろしくね」

 バンは通行人がひしめく道路に消えていった。


 鬼島はそれを見送ってから、浅緋に花束を押しつけた。

 喫茶「瑞祥」の看板は変わらずくすんだ色で立って路地に立っている。鬼島は肩を鳴らしてから地下へと続く階段を下った。



 ドアを開けると黒いワンピースにエプロン姿の冬瓜とうりが声を上げた。

「おぉ、くたばり損ないの店主のお帰りだ」

「くたばり損ないはお前もだろ」

 抱えた花束のかすみ草を千切って口に運ぼうとした浅緋の額を手の甲で叩き、鬼島は厨房に向かった。


「お帰りなさい。動いて平気なの」

 鍋で布巾を煮ていた椿希つばきが顔を上げた。

「迷惑かけたな。変わりないか」

「ええ。面倒見てもらったし仇討ちまで済ませてもらったんだもの。このくらいいいわよ」

氷下魚こまいは?」

 カウンターで煙草をふかしていた丑巳ひろみが顎に手を当てる。

「お米は炊けるようになったよ。三回に一回」

「頑張ったな……」



 ベルが鳴り、扉の方へ目を向けるとビニール袋を両手に下げた氷下魚が立っていた。

「店長!」

 彼女は袋を投げ出して厨房に駆け込む。

「もう大丈夫なんですか? 」

「ああ」

「でも、怪我とか、その、いろいろ……」

 俯く氷下魚に、鬼島は棚の上に並ぶパスタソースの缶を叩いた。

「ホタテの缶詰、買ってきたか?」

 泣きそうな顔が一瞬呆けたように固まって笑顔に変わった。

「はい!」



 銀の鍋の中で泡立つ熱湯にパスタの束を入れてから、隣のコンロにフライパンを置き、火をつける。有塩バターを放り込むと通り雨のような音で脂が弾けた。

 箸でたらこを解す鬼島に、カウンターから冬瓜が身を乗り出す。

「すっかり飯屋の店主だよなあ。あんだけ戦えるのにどうして除霊隊辞めたんだ」

「さあな」


 客席で椿希が花束を瓶に生け、中央のテーブルに並べていた。

 醤油とマヨネーズを混ぜてバターと絡める。

「協会で直に働いてる方が喫茶店より実入りがいいんじゃねえの。閑古鳥が泣いてる店じゃ嫁も来ないぜ」

 麺をザルに開けて湯を切る。


 浅緋が冷蔵庫を開けて中を覗き込みながら言った。

「嫁なんか来なくてもアイス係がいるだろ」

 がしゃんと音がして、落ちた空の水差しが転がった。

「いえ、それは、店長に失礼ですから……!」

 赤くなった耳に髪をかけ、氷下魚が逃げるように裏の倉庫へ駆けていった。


「お前ら妖怪と話してると田舎の爺婆の法事に出てる気分だ」

 鬼島は勢いよくザルを置いて溜息をついた。

「余計なこと言うなよ。あいつも年の離れた雇い主相手じゃただでさてやりにくいだろうに、余計嫌われても面倒だ」


 調理の続きを始めた鬼島を見下ろして冬瓜は首を振った。

「マジで気づいてねえのかなあ」

「何が?」

 浅緋は氷の塊を噛み砕く。

「あんたに言ってもしょうがねえか」



 パスタを皿に盛って、刻みネギと海苔の入ったタッパーを机に乗せた。

「使いたきゃ勝手に使え、後で補充しとけよ」

「すごい。本当に貝柱が入ってる……」

 氷下魚はフォークを手にして目を輝かせた。


 奥の机にもうひとつ皿を置く。背中を丸めて煙草を吸っていた浅緋が目を丸くした。

「お前も食うだろ。箸でいいな」

 浅緋はどこか惘然とした様子で受け取った箸を割らずにパスタに突き立て、巻き取った麺に噛み付いた。

「熱いな……」

「ガキじゃねえんだから冷まして食え」

 苦笑する鬼島から目を背け、浅緋は皿を引き寄せた。



 時刻が午後二時を回った。

 冬瓜は呼び込みに、夫婦は買い出しに行ったらしい。


 久々に戻った店のヤニとコーヒーで汚れた壁を眺め、鬼島は息をついた。

「俺はこれでいいんだよな……」

 瓶の中で真っ赤なグラジオラスが咲いていた。

「このまま何にも起こらなきゃそれでいい」



「店長!」

 呟きを掻き消すように氷下魚が半泣きで飛び込んできた。

「どうした……」

「さっきから半裸の女のひとがお店の前でお酒飲んでて、帰ってって言っても家がないからって聞いてくれないんです!」

 鬼島は痛むこめかみを抑えた。



 店の看板がアスファルトに伸ばす影のように女が地面に座り込んでいた。


 灰のような白い髪をひとつにまとめ、片目に当てた治療用の眼帯の下に痛ましい火傷の跡がある女だ。

 元は整っていたであろう顔はやつれ、傷のない部分も酒気で赤い。

 煤けた黒いスリップの紐が痩せた肩からずり落ちそうだが、女は構わずにビニール袋から大量の缶ビールのひとつを出し一気に煽った。



 鬼島は絶句していたが、我に返って女の前に屈み込んだ。

「あの、大丈夫か?」

 女は長く息を吐き出して淀んだ目を向けた。

「何が……?」

 鬼島は眉間にしわを寄せながら何とか言葉を選ぶ。

「ここは店の敷地だから飲むなら別のところでやってくれ」

 女は微動だにしない。鬼島は迷ってから骨ばった腕を掴んで立ち上がらせようとした。

 女がふらつき、何かに気づいて踏み止まった。


「そこにいたのか」

 片目は鬼島の後ろについてきた浅緋を見ている。

「誰だお前」

 女は自力で立ち直すと缶の残りを飲み干した。

「新宿駅初の……トロッコの乗り心地はどうだった」


「お前、火車かよ!」

「知り合いか?」

 鬼島が囁くと浅緋が頷く。

「あぁ、鬼門に突っ込むときあいつが足代わりだった」

 女はやっとずれた肩紐を直し、脱げたビーチサンダルを手繰り寄せていた。

「恩人じゃねえかよ……」

 鬼島はもう一度こめかみに手をやった。



 店の奥の座席に通された女は天丸てんまると名乗った。

「アルコールの入ったものは……なければ消毒液でもいい」

「いい訳ねえだろ。酔い覚ましだ」

 鬼島が輪切りのレモンの浮いた水を置く。

「覚めるかな……」

 天丸は肋骨の浮いた胸に垂れた結露拭いた。黒いレースが汗で貼りつき、痩せた身体の輪郭に沿う。

 氷下魚が椅子の影に隠れた。



 浅緋は水差しからレモンを摘んで口に咥えた。

「で、何だよ。給料なら協会からもらえ」

「違う、怪異についてだ」

 天丸がグラスに唇をつける。

「先月、旦那が死んだ。殺された」


 厨房でふたつのタイマーが同時に鳴った。

 鬼島は手で払って浅緋と氷下魚を促してから、「それで」と向き直る。

「旦那は人間だ。だが、蒲田の化け物喫茶で襲われて妖怪と一緒に殺された。犯人を探して何度か戦ったが、直接の襲撃犯に辿り着けなかった。力を貸してほしい」

 天丸が俯くと灰色の髪が垂れ、眼帯の下の火傷を御簾のように隠した。


「うちは殺し屋の派遣会社じゃねえぞ……」

 苦しげに言った鬼島の後ろで、何かが破れる音と騒がしい水音と氷下魚の悲鳴が聞こえた。

「大丈夫か?」

「……殺し屋より凶悪なのがいる。連れてってくれ」

 天丸は初めて微かに笑った。



「それで、襲撃犯はどんな奴かわかるか」

「ああ……」

 彼女の顔から笑みが消え、赤かった頰が白く硬直していく。

「帽子を被った長身の女だ。白い帽子にワンピース。身長は二メートル半ある。怪異だ」

 天丸の肩の向こうでグラジオラスが自重で傾き、赤いひとふさの花弁が落ちた。

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