熱帯夜、林檎、キャンディ

 目を覚ました鬼島きじまは起き上がろうとして胸と背中に走った痛みにうずくまった。



 まだ新しい傷口から血が滲み、包帯を濡らす不快な感触が背筋を伝う。無意識に握りしめた白いシーツと布団にしわが寄った。

 蛍光灯の光を透かす薄黄色のカーテンで仕切られたベッドで上体を起こすと、規則正しく小さな丸穴を空けた白い天井がある。病院の個室だとわかった。



「やっと起きたか。前も後ろも傷だらけだと寝るのもひと苦労だなあ」

 カーテンを開けると、浅緋あさひがパイプ椅子に座って皮ごとオレンジを齧っていた。

「丸一日寝てたんだぜ。だいたいのことはもう協会が済ませちまった」

 窓の外は真っ暗で、室内の明かりに負ける僅かな街の光と浅緋の背中が反射していた。ベッドの脇の棚には籐のカゴと切り花が置いてある。


氷下魚こまいは……」

「大した怪我はねえってよ。検査で入院してるが明日にでも退院できるらしい」

 鬼島は上体を起こして胸を抑えた。まだ心臓に血液の代わりに大量の空気が送り込まれているようで脈動が騒がしい。

 首筋に貼りついた汗を拭って息を整えた。



「あの陰陽師はどうなった。きさらぎ駅は……」

「死んだ。俺が殺したからな。死骸が残らずに泥の塊みてえなものが大量に残った。あとはこういうもんもな」


 浅緋はオレンジの汁で汚れた指を舐め、ポケットからくしゃくしゃの紙を取り出す。画質の悪いポロライド写真をコピーしたような紙面に、焦げついて半分に折れたロザリオが映っていた。

「何だそれ、十字架か?」

 鬼島は身を乗り出したが肋骨が疼き、伸ばしかけた手を脇腹に当てた。

「ここら辺は現在調査中ってやつだ。陰陽師が死んできさらぎ駅は消滅した。協会は調査だけじゃなく新宿駅をで切った張ったした事後処理にてんてこ舞い、これが現状だ」


 鬼島は口を噤む。

 あの瓦礫の山の中に置き去りにした女がいた。きさらぎ駅が消えて紫苑しおんはどうなった。

 言いかけたが、言葉が喉につかえて鬼島は別の話題を探った。


冬瓜とうりや他の連中は無事か?」

 浅緋は紙を放り捨て、カゴに唯一残っていた林檎を取った。

「全員無事だよ。あの芥田あくたってガキも生きてる。腕がねえから陰陽師としての復帰は難しいらしいけどな。お前が一番重傷だ。手前の心配をしな」



 鬼島は溜息をついて、背中の傷に構わず仰向けに横たわった。傷口が開くのがわかる。痛みと疲労にだけ集中していたかった。


「アイス冷やし係がお前のこと気にしてたぜ。自分をせいで怪我したんだってな。私のことなんか庇わなければだってよ。帰ったら何か言ってやりな」

 浅緋が林檎を齧る音が響いた。

 鬼島はもう一度大きく息をついて両手で顔を覆った。

「ああ、本当に庇わなきゃよかったって言っとくよ。俺よりあいつが早く退院したら店がどうなるかわからねえ」

 浅緋が鼻で笑う。


「しばらくは鬼嫁とヒモの夫婦が切り盛りするだろ。迷惑料の分はこき使えよ。女給も天邪鬼のヤロウがいるしな。あれは……アマって言った方がいいのか?」

「知るかよ」

 短く答えて笑ったつもりだったが涙声のような息が漏れただけなのがわかる。戦いが終わった。虚勢を張る相手も今はいない。

 繕っていたものが崩れそうで鬼島は背を向けて寝転んだ。

「寝る。気絶しそうだ」



 浅緋は林檎を片手に席を立ったがが、すぐにカーテンフックがリールを滑る音が響いた。

「そうだ、これ置いとくぜ」

 鬼島が体勢を変えると、浅緋が空になったカゴの下にレシートのようなものを挟むのが見えた。

「あの女の死体は回収されたけどよ、これだけ残ってたから持ってきたんだ。形見分けなんてガラじゃねえが、何かの役に立つだろ」


 浅緋が消えた後、鬼島は這うようにベッドの脇の机に近寄って籐のカゴをずらした。はらりと落ちた紙は血と埃で汚れて今にも千切れそうな一枚の護符だった。



 病室の敷居を越えかけてから、浅緋は踵を返して再びカーテンで閉ざされたベッドの方へ向かった。

「ああ、そうだ。もし起きてんなら八坂やさかが……」

 薄いカーテンに手をかけると、布団に伏せるように丸めた背が目に飛び込んできた。


 鬼島は皺だらけの護符を握りしめた浅黒い手で顔を覆い、小さく肩を震わせていた。寝間着の襟から覗く包帯に薄く赤が滲み、震えに合わせて染みが広がる。

 押し殺した息が断続的に漏れていた。



 浅緋はカーテンを締め直して、逃げるように病室を後にした。

「何だよ、やり辛えな……」

 消毒液を取り付けた壁に背を預け、ポケットの中の煙草を探った。

「院内禁煙ですよ。面会時刻も過ぎてます」

 静かな声に顔を上げると、廊下の闇の中から現れた八坂が口角を上げた。


「吸いに行く? 屋上だけど」

「今の時代閉鎖されてるんじゃねえのか」

「私が開けられないと思う?」

 浅緋は肩を竦めて歩き出した彼女の後ろをついていった。



 非常階段を上り、屋上の扉を開けるとひといきれに似た暑い空気が押し寄せた。

 給水塔を取り囲む室外機が忙しなく回転し、街のアスファルトが日中吸い上げた熱を丸ごと吐き出す夏の夜だった。



 浅緋は一口齧ったポケットに林檎をしまい、煙草を取り出した。箱はひしゃげて、泥を吸ってふやけていた。浅緋はかぶりを振ってフェンスに身を預けた。


「鬼島くんにひと殺しをさせないように頑張ったんだって?」

 浅緋は聞こえないふりをした。

「あの凶暴で残忍なヒダルガミとは思えないな」

「死なない程度に放っとけばよかったか?」

「褒めてるんだよ。このまま無害な妖怪になってくれれば私も楽なんだけど」

 隣の八坂が吐き出す煙が流れ、林立するビルのネオンや看板に橋を渡す。

 遥か下を見下ろすと、小さな自販機と工事現場を守る警備員の誘導灯が蛍のように輝いていた。



「お前は俺がいなくても変わねえだろ。妖怪がいる限りずっと戦い続けるのが八坂の女陰陽師だ」

 八坂が小さく微笑む。

「そう、この世に飢えがある限り死ぬことも消えることもできない大怨霊と一緒でね」

 浅緋は街の中央の巨大なビルたちを眺めた。都会的な外観に似合わない猥雑な垂れ幕でオープン価格を喧伝するシティホテルの窓の明かりがひとつずつ消えていく。


「東京も変わっちまった。変わらずいるのはお前と俺だけだ」

 八坂は目を伏せて吸殻を携帯灰皿に放り込むと、新しい煙草を咥えて火をつけた。

「ヒダルガミ」

 振り向いた浅緋の唇にかすかに湿ったフィルターが押し当てられた。

 二本の白い指が離れた煙草を歯に挟み、浅緋は煙を吐き出す。

「何だよ」

「今回の残業代。売店はもう閉まってるからね」

 八坂は浅緋に箱ごと残りの煙草を握らせると、スーツのジャケットを翻して屋上のドアを開けて去った。

 視界の隅で高速道路を行く大型トラックのテールランプが赤い彗星のように尾を引いて煌めいた。



 浅緋が非常階段を降りると、院内の明かりは全て消え、青黒い闇が広がっていた。


 深海のような仄暗い廊下を抜けると、甲高い小さな声が聞こえてきた。

 ロビーの椅子で水玉のパジャマの少女が幼い手で携帯を隠しながら通話口に囁いている。机の上にはぬいぐるみと紙パックのジュースと駄菓子が散らばっていた。


「じゃあもう切るね。バイバイ」

 顔を上げた少女は、真後ろに立つトレンチコートの男に気づいて身を竦めた。

「消灯時間だぞ、クソガキ」

 少女は携帯をパジャマの裾に隠して男を見る。男は長い前髪の下から机に視線を走らせ、少し考えるような仕草をしてから駄菓子の山を指差した。

「それ置いてけ」

 少女は首を横に振る。

「食い殺すぞ」

 少女は素早く荷物を掻き集め、椅子から飛び降りて廊下を駆け出した。


 水玉のパジャマの背が角の病室に消えるのを見送ってから、浅緋はポケットに手を突っ込んだ。卓上に少女が置き忘れた水色と黄色の包みの飴玉がふたつ残っていた。



 かすかな物音に鬼島は顔を上げた。

 涙と鼻水が指の間で糸を引き、布団で手を拭ってから辺りを見回したがひと影は見当たらない。

 カーテンの隙間から覗くベッド脇の棚に置かれたカゴが少しだけ傾いている。


 鬼島は身を起こしてカーテンを押し開けた。

 空だった籐のカゴの中に、齧った跡を取り除いたように刃物で歪に削られた林檎と、包みに「ソーダ」「レモンスカッシュ」と書かれたふたつの飴玉が入っていた。


 鬼島はベッドを降りて、壁伝いに病室を出た。

 暗い廊下の角で煤けたトレンチコートの裾が宙を泳いで消えた。

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