鬼、機、怪々
赤銅色の甲冑が、駅舎に垂れ込める血の色の空を映して更に赤く輝いた。
「赤鬼かよ……」
浅緋と
小石のかけらが舞い上がり、煙幕の向こうにばっくりと一筋に割れた地面が露わになる。その先に深々と突き刺さった鉄の棍棒の先端が見えた。
甲冑の中からくぐもった唸りが聞こえ、棍棒が纏った棘が大気を巻き上げる。
身をかばった鬼島の腕に飛散した瓦礫が散弾となって降り注ぐ。籠手がひび割れ、気圧されかけた鬼島の襟首を掴んで退避した浅緋が後方に叫んだ。
「天邪鬼!」
答えの代わりに古ぼけた看板の支柱がキン、と音を立てて切断される。看板が落下するより早く、崩れかけたホームを疾風が奔り、煙幕に丸い穴が空いた。
甲冑の鬼が振り上げようとした棍棒が真上からの衝撃に押さえつけられ、赤い胴に火花が走る。
硬質な金属がぶつかり合う音が響き、一回転して鬼から離れた
「駄目だ、硬えや……」
首を振る冬瓜の右手の爪は中指と薬指が折れ、血が滴り落ちていた。
「天邪鬼の十八番の皮剥ぎはどうしたよ。使わねえなら手前の腕食うぞ」
「皮剥ごうにも皮まで辿り着かねえんじゃしょうがねえだろ!」
浅緋は舌打ちして鬼島の襟首を離した。ふらついた鬼島が斧を杖代わりに体勢を立て直す。
煙の中で微動だにしない赤鬼を睨み、浅緋は長ドスの背で自分の肩を叩いた。
「人間の身体で鬼の力を使うとバテるみてえだな。こっちの坊と一緒でついていけねえんだろ。一度距離取って––––」
浅緋の言葉を遮って、金属を無理矢理切断しようとするようなけたたましい音が響いた。
赤く烟る線路の向こうから黒く蠢く巨大な何かが迫ってくる。
粘質の殻を内側から破ろうとするようにあちこちが歪に膨らむ物体は速度を上げてホームのすぐ側まで近づいていた。
「何だよ、あれは!?」
冬瓜の叫びに、鬼島は首を持ち上げ、霞む目を凝らす。
ひとつの生物に見えたそれはトロッコの上に乗った無数の影法師だった。ひとつひとつが視認できるほど近づいた影たちは携えた独鈷杵を擦り合わせ、威嚇の声に似た雑音を立てる。
新たな軍勢に気を取られた浅緋たちの背後で風が吹いた。
浅緋が鬼島の脚を払い、倒れこんだふたりの上を巨大な物体が掠める。
振り抜かれた棍棒がホームの支柱やゴミ箱を薙ぎ払って回転した。遠心力で加速したひっ先が階段を砕き、一瞬で瓦礫に変える。
「やべえ、崩れるぞ!」
冬瓜が
ホームを覆うドーム状の天井が砕けて砂が散った。
剥がた一部が落下し、点字ブロックの上で弾けた途端、堰を切ったように瓦解が始まった。
「降りるしかねえか」
膨れ上がる黒煙の中で笑うように開いた赤い兜の口を見やってから、浅緋は鬼島の腰を掴んで地を蹴った。
それを待っていたようにひしゃげた天井が一気に落ち、支柱がドームを突き破る。
鬼島の身体が宙に浮いた。
ホームから飛び降りたふたりの足元に、獲物を待ち構えて牙を剥き出す影たちが乗るトロッコが近づいていく。
着地の瞬間、蹴り抜いた影が泥になって靴底で爆ぜた。
敵陣の真っ只中に飛び込んだ鬼島は無造作に斧を振り抜き、間合いを潜り抜けた影を籠手に包まれた肘で砕く。その背を守る浅緋の長ドスが次々と搔き切った。
赤い空に泥の雫が舞う。
再び風が唸る音がした。
切り開いた空間を見て、浅緋と鬼島は視線を交わす。巨大な棍棒が振り抜かれ、うねる風を纏って影ごと鬼島たちを擦り潰す寸前にふたりはトロッコの端を蹴って跳躍した。
取り残された影たちが慣性に習って棍棒の側面に吸い寄せられ、無残に平らげられてゆく。
線路に膝をついたふたりに届く前に鉄の棒が旋回し、残っていた駅舎をことごとく壊滅させた。
「あの陰陽師を何とかしなきゃ埒が開かねえな」
血と泥で体を染めた浅緋が苛立ったように呟く。
鬼島は肩で息をしながら駅舎の残骸を見た。心臓に激痛が走り、腕を覆っていた籠手が弾けて霧散した。
痛む胸を抑えて何とか顔を上げる。
土煙の中で佇むあの陰陽師はまだ人間なのか。俺がひとを殺すのか。
逡巡する鬼島の頰を湿った何かが叩いた。
顔に張りついたそれを剥がす。赤茶けた染みがついて擦り切れた一枚の護符だった。
書かれた文字は汚れて殆ど読めないが「修験道」「後鬼」の字だけがわずかに見て取れた。
「
鬼島の視線の先を塞ぐ瓦礫の山がその下に横たわっているはずの亡骸を塗り潰した。
「使えんのか」
浅緋が呪符を覗き込む。
「昔、先輩に式神の使い方は習った」
「それで?」
「一秒も保たなかった。しかも呼べるのは腕だけだ」
浅緋は肩を竦めたが、すぐ何かに気づいたように表情を変えた。
「天邪鬼、その女隠してこっちに来い!」
地面に逆さに突き刺さった自動改札機の上、気絶した氷下魚を抱えた冬瓜が顔を上げる。冬瓜は少し迷った後、機械から飛び降りた。
「どうする気だ」
訝しむ鬼島を引き寄せて浅緋は足元を指した。痩せた指の先には泥の山を乗せたトロッコから垂れる錆びた鎖とそれを縫い止める碇に似た金属の返しがある。
最早駅舎と呼べなくなった残骸の中で赤い甲冑の鬼がわずかに顎を上げた。
汚れたトレンチコートを肩にかけ長ドスを携えた男と、真っ赤なアロハシャツの少女が真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
その後ろに血まみれで立つ鬼島の姿があった。片手を覆っていた籠手と斧はなく、紙切れ一枚を握っているだけだ。
「彼らに頼っても仕方ないぞ。言っただろ、東京の妖怪は陰陽師を殺せない。切り札になるとしたら人間の君だけだ」
兜の中で声が反響した。
浅緋と冬瓜は無言で目配せを交わし、同時に駆け出した。
兜の間から覗く唇が嘲笑を漏らし、鬼が両手を後ろにやった。腕を振る動作すら搔き消し、巨大な棍棒が瓦礫を舐めしながら押し寄せる。
浅緋が速度を落とさずに姿勢を屈め、下段に構えたドスを振り上げた。棘の生えた棍棒の側面を刀身が擦る。
刃紋に浮かび上がった乱杭歯が金属に噛みついた。浅緋は刃を棍棒に沿わせたまま距離を詰め、眩い火花が散る。
がら空きの胴体に迫る浅緋を影が阻もうとしたところを、傍から飛び出した冬瓜が蹴散らした。赤銅色の腹が眼前にある。
胴打ちを狙って一瞬棍棒から長ドスを離した浅緋の上に壮絶な打撃が振り下ろされた。
間一髪で避けた頰を棘が掠め、皮膚を抉って鮮血が乱れ飛ぶ。
回避の姿勢のまま状態を捻って浅緋がドスを振るった。金属音とともに胴にわずかな亀裂が走る。背後に構えていた冬瓜が鋭い爪を剥き出し、素早く三回斬りつけた。割れた装甲が花開くようにひとりでに捲れ上がる。
「無駄だと言っただろ」
くぐもった声が頭上に降った。
赤鬼が両腕を腹に引き寄せた。追撃のため構えたふたりを棍棒の柄が打ち、線路の両端まで弾き飛ばされる。
「あぁ、だから、切り札は俺だ」
鬼島は護符を見つめ、口に咥えて静かに息を吹いた。護符が塵になって宙に溶けた。
「後鬼、来い!」
青色の歪な腕が瓦礫の山を突き破って現れる。
陰陽師が気を取られた一瞬の隙をついて、ホームに膝をついていた浅緋が刺突を放った。夕暮れよりさらに濃い赤の空を映した甲冑の中心が破れる。
後鬼の腕は陰陽師を襲うかに見えたが、そのまま明後日の方向を目指してのたうった。
焦りで歪んだ兜の間の口元が哀れみの苦笑に変わった。
「これで終わりか?」
「ああ、終わりだぜ」
浅緋が歯を見せる。その手に握られていたはずの長ドスがない。
「手前がな」
兜が傾き、自身の腹を見下ろした。
胴を覆う甲冑に丸穴が空き、向こうに広がる赤い空と錆びたフェンスを映していた。穴には錨に似た金属の返しが食い込み、真中に錆びた鎖が繋がっている。
「東京の妖怪だからな、陰陽師は殺さねえよ。手前は事故死だ」
鬼島は虚空に手をかざした。
青い腕が大量の泥を乗せたトロッコを押し出す。
腕はすぐに消えたが、既に加速したトロッコは過たず線路を直進した。
「言っただろ、腹わた引き摺り出すってな」
トロッコに繋がった鎖が勢いづいて後方に突き抜ける。赤銅色の腹から鮮やかな血と臓物が噴き上がった。
血煙が間欠泉のように飛び、朱色の空と混じり合って赤い雨を降らす。
甲冑の鬼と棍棒がどろりと溶けて弾けた。おびただしい血を撒き散らして消した陰陽師のいた場所に、中央が丸く破れたインバネスコートがふわりと広がり、瓦礫の上に落ちた。
それを見届けて鬼島はホームに倒れこんだ。
冬瓜が彼の脈と呼吸を確かめて頷く。
浅緋は鼻を鳴らすと、大量の血と泥を掻き分けて、フェンスに突っ込んだトロッコの方へ歩み寄った。
「ワタは出したのに食えなかったか……」
泥の山に突き刺さった長ドスを引き抜き、巻きつけた鎖を解いた。
「まあ、いいってことにするか。坊ちゃんにひと殺しさせたらあの女に何されるかわからねえ」
浅緋が小さく笑って刀身を鞘に収めると、赤い空が晴れ、灰色の闇に塗り変わった。
鈍い光に細めた目に新宿駅の看板が映り込む。
等間隔で並んだライトの真下で、スーツや着物を纏った人間たちが落下防止の柵から身を乗り出していた。彼らの先頭で傷ひとつない
「無事戻って来られたみたいだね」
浅緋は真新しい地下鉄のホームの線路の上に座り込んでいた。
泥まみれのアロハシャツを絞ってから両手に鬼島と氷下魚を抱えた冬瓜が叫ぶ。
「こっちは重労働したんだ。手伝ってくれよ」
線路の上に構えた協会の陰陽師たちが慎重に負傷者を引き上げる傍らで、煤で汚れた
浅緋は振り返さずに目を逸らす。
その先に白い手が差し出された。
「ご苦労様」
柵から手を出して微笑む八坂を見返し、浅緋は溜息をついた。
「自分で上がれる」
助走をつけて駆け上がろうとした浅緋の爪先が何かを蹴った。ホームの真下まで滑り込んだ小さなものに手を伸ばし、拾い上げる。
「何だこりゃあ」
焼け焦げた木の欠片を摘み上げて光に透かすと、三叉に分かれているのがわかった。
八坂が浅緋に向けた手を押し出しす。促されるまま渡すと、線香花火が消えるような音を立てて手のひらが小さく焦げた。
八坂が木片を取り落とし、目を丸くして手を庇う。
「おい、お前がやられるなんてどういう逸物だよ……」
浅緋が目を瞬かせる前で彼女は苦笑すると、胸ポケットから取り出した手袋をはめてもう一度木片を拾い上げた。
「うん、すごい瘴気だね。十年やそっとじゃこうはならない。百年二百年以上前から積み上げた呪いかな」
八坂が見つめたそれは、半分に折れた木製のロザリオだった。
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