三、震撼線 ファイナル・エクスプレス
男、女、猿夢
血だまりの中に少年が倒れている。
折れそうなほど細い身体から流れ出す血はアスファルトに影を落とす夜闇と混ざって葡萄色に変わる。鉄錆の匂いが鼻から入り込んで喉に酸が迫り上がる。
浅黒く引き締まった腕が宙を掻く。少年には触れられない。
アラームの音が鼓膜を刺し、
また同じ夢だ。
同じ光景の中で自分の指だけが太く大きくなり、喫茶店を始めてからは乾燥してささくれが目立つようになった。
鬼島は濡れた頰に手をやったが、髪から垂れる汗が触れただけで涙は出ていなかった。
早朝、上野駅広小路口の改札は規則正しくこれから仕事に向かうひとびとを吐き出していた。
橙と黄色の鉄骨が絡まったオブジェの下に座り込む男が目に入り、鬼島は溜息をついた。
「目立ち過ぎだ」
皺くちゃのトレンチコートを地面に擦らせて
「アイロンくらいかけろ。やり方なら教えてやる」
「女房でもあるまいし」
浅緋の額を手の甲で打って、鬼島はアメヤ横丁へと向かうひとの流れに合流した。
「お前のその服どこで見繕ったんだ。 昭和のヤクザみてえな格好しやがって」
「当たりだよ」
鬼島の影を踏みながら歩く浅緋が笑う。
「人妖協会ができる前は任侠が妖怪に睨みきかせてる時代もあったのさ、協会も半分カタギじゃねえが。人間より妖怪を食う方が腹が膨れるからな。そういうとこに雇われて食いまくってた。だから、どっちからも嫌われてんだ」
鬼島は早くも気温が上がり始めた往路を睨んでから店の方に視線を移した。
「そういえば、お前店にいたんじゃなかったのか」
浅緋が大股で二歩踏み出して隣に並ぶ。
「見てみな、面白れえことになってるぜ」
横丁の一角でひとの流れが滞っている。
黒のワンピースに白いエプロン姿の少女が通行人を捕まえては袖を引いていた。
「暑い夏の休憩にアイスコーヒーはいかがですか? 喫茶『瑞祥』すぐそばですよ」
明るい声の主は昨日、泣き顔で店を訪れた少女に違いない。
呆然とする鬼島を見とめて、まだ私服のまま向かいに立つ
女の皮を被った天邪鬼は氷下魚を捕まえて頰を寄せた。
「可愛い子がたくさんいますよぉ」
鬼島に頭を掴まれ引き剥がされた
「パワハラで訴えんぞ、暴力店主」
「何のつもりだ、うちはキャバクラじゃねえぞ」
掻き乱された頭を抑えながら冬瓜がスマートフォンを出した。
「大嘘つきの裏切り者妖怪を持て余してるから預かってくれだとよ。ヒダルガミが睨みきかせてりゃ悪さできねえって思ったんだろ」
液晶に八坂の名前と「天邪鬼、喫茶『瑞祥』に派遣」の文字が踊る。
「よろしくお願いします、店長」
屈託ない笑顔を作る少女を見て、鬼島は沈鬱にこめかみを抑えた。
妖怪たちを店内に追い込んでから鬼島は階段の上で煙草を咥える。火をつけようとしたとき、背後で「すみません」と女の声がした。
緩くうねる濡れたような黒髪を垂らした女は、この周辺によくいるスナックの女店主のような雰囲気がある。彼女は幌つきのベビーカーを押して微笑した。
「車輪が溝にはまってしまったの。手伝っていただける?」
「あぁ、勿論です」
鬼島は煙草を置いて歩み寄った。
「私が持ち上げるからこの子を預かってもらえるかしら」
女はベビーカーから毛布の塊を取り上げる。力のある自分が持ち上げた方が、と言いかけた鬼島に女は赤子を押しつけた。
腕の中に鉛を落とされたような重圧がかかり、鬼島は地面に膝をついた。毛布の中から蠢く黒い影が広がり、腕や首に絡みつく。
次第に増す重みに耐えながら顔を上げると、女が冷たい表情で見下ろしていた。
「大したことないのね……」
女のハイヒールがアスファルトを穿つ。
「怪異か……」
鬼島が呻いたとき、真っ直ぐに飛来した銀の軌道が毛布の中の影を刺し貫いた。影が霧散し、重圧が消える。
階段を駆け上がった浅緋が女を壁に押しつけた。
「こんな古典的なワザに引っかかんなよ」
浅緋が笑って地面に刺さった長ドスを引き抜いて女の首に押し当てる。
「お前も襲撃者か? ちょうどいい。元締めを吐いてもらわねえと」
女が金切り声を上げた。
「あーあ、またやってる」
通りの向こうから間延びした声がした。
サイズの大きいシャツを着崩した、少年のように小柄な金髪の男がこちらに近づいてくる。
「悪いけど彼女、離してもらっていいかな」
「あなた!」
女が叫んだ。
「あなたって、こいつの旦那か?」
浅緋が長くドスの鞘を向ける。男は「籍は入れてないけどね」と肩を竦めた。
「早く助けてよ!」
「無理だよ。このひとヒダルガミだ。僕が百人いても敵わないって」
壁にめり込みそうな顔を上げて女が目を見開く。
「最悪の共食い野郎……」
「やめてよ、
男はかぶりを振って無表情に言った。
「どうしたら許してもらえるかな。土下座くらいならするけれど」
浅緋が合図を待つように鬼島を見る。鬼島は服の埃を払って立ち上がった。
「店の前で土下座されてたまるか。客が逃げる……」
浅緋は女から手を離し、どさりと土嚢を落とすような音が響いた。
「さっきはごめんね。僕たちの性っていうか、悪気はないんだよ」
奥の座席に押し込められた金髪の男が言う。
「悪気のない奴がやることか?」
鬼島は逃げ道を塞ぐように入り口側の席に腰を下ろした。
厨房からカップと白磁のポットを盆に載せた氷下魚が現れた。三人の前に並べた器にポットを傾けると、蓋が外れ、ざく切りのレモンと透明なお湯が飛び出した。
「あっ、茶葉入れるの忘れてました!」
ポットと布巾を交互に持って慌てふためく氷下魚を見て、鬼島が頭を抱える。
「よく雇ってるわね……」
女はムスクの香水が漂う髪を不機嫌そうに払った。
「私も同業者よ。歌舞伎町で化け物喫茶のオーナーをやってた濡女の椿希。こっちの穀潰しが牛鬼の
「要はヒモか?」
口を挟んだ浅緋を横目に男がレモンの切れ端の浮いたお湯を口に運んだ。
「家事手伝いって言ってほしいな」
「やってたってのはどういうことだ。今は違うのか」
鬼島の問いに椿希の表情が曇る。
「わかるでしょ。うちも襲われたのよ」
丑巳が机のスティックシュガーを取って封を切った。
「一昨日の夜、襲撃されてね。椿希ちゃんは急用で出てて無事だったけど、店の女の子とお客さんは皆殺しだ。電話を受けて迎えに行ったんだけど、その電車でも殺されかけた。何とか協会に逃げ込んで、八坂さんにここに相談しろって言われたんだ」
「連続した喫茶の襲撃は宣戦布告よ。奴ら、私たちを本気で殺しにかかってる」
BGMのない店内に暗い声が漂った。
「襲撃者を見たか?」
夫婦は視線を交わし、曖昧に言葉を紡ぐ。
「見たけど、何と言っていいかわからないわ。私たちの知ってる妖怪じゃない」
鬼島は地下鉄のホームと廃校での戦闘を思い返して目を伏せた。
「都市伝説だ……」
夫婦が同時に鬼島を見る。
「俺が遭った二体とも近現代に生まれた怪談を基にした存在だった。奴らは今、新しく生まれた怪異だと俺は思ってる」
「どうだかな」
カウンターに座ってシュガーポットから角砂糖を摘んでいた浅緋が声を上げた。
「俺は二匹とも食ったけど味に覚えがあった。口裂け女は二口女、メリーは後神の味だったぜ」
鬼島は顎に手をやって俯いた。
「じゃあ、“猿夢”って怪談もあるかな」
口火を切った丑巳の隣で椿希が不安げな顔をする。
「僕らを襲撃したのは複数犯だった。姿はよく覚えてないけど服の背中に猿夢、って文字が書いてあったんだ」
「氷下魚、知ってるか」
カウンターから顔を覗かせた氷下魚がスマートフォンを掲げる。
「あります。遊園地の乗り物みたいな電車に乗せられて、順番に殺されていく悪夢を見るっていうネットの怪談ですよ」
「あれは現実よ」
鋭い視線を向けた椿希を丑巳が制する。
「でも、僕らが電車から降りたときは襲撃犯は跡形もなかった。悪夢を見せる怪異なら辻褄は合うかな」
「八坂さんはどうしろって?」
鬼島の背後で長ドスの鞘をわざとらしく机に叩きつける音がする。
「お礼参りよ。あなたは既に二体の怪異を殺してる。人妖協会と協力して奴らを討ってほしいの」
「協会がふたり陰陽師を派遣するってさ」
セピア色の壁紙に染み込んだヤニの跡を眺めて鬼島はまた目を伏せた。
「毎日臨時休業って訳にもいかねえぞ」
「女給ならアイツがいるだろ」
浅緋が指した先で紙ナプキンを折っていた冬瓜が笑みを浮かべた。
「氷下魚をどうするかだ」
茶筒を持ってきた彼女は今度はお湯を忘れたと言ってまた厨房に戻る。
「店番と戦場に連れて行くのとどっちが被害が少ないか……」
「レシピがあれば料理くらいはできるわよ。この甲斐性なしも少しは働かせて」
鬼島は夫婦を見てから、皿の割れる音が響いた厨房に視線をやった。
「頼んだ」
鬼島は立ち上がってシャツの上から黒いベストを羽織る。
「浅緋、氷下魚、行くぞ」
カウンターから飛び降りた浅緋を見て丑巳が眉をひそめた。
「ヒダルガミに名前をつけたの」
「あぁ、駄目か?」
「あんまりよくないね。妖怪は人間が正体不明の恐怖を説明するために名づけられて生まれるからさ。名前は存在を縛るんだよ。僕らが人間社会で名乗る名前だって本質に近いものを選ぶんだ。僕は牛鬼だから丑」
「じゃあ、椿希は?」
「濡女だから唾……」
隣の女が犬歯を剥き出したのに気づいて丑巳は口を噤んだ。
看板の前で手を振る冬瓜に見送られながら、鬼島たちは店を後にした。
「お礼参りって言ったって敵は悪夢だろ。どこに迎えばいいんだ。昼寝でもするのか」
氷下魚が横丁に乱立する看板を見回す。
「ベッドがある場所でしょうか、家具屋とか」
「お前、家具屋に寝に行くのか」
「帰りたくないときに閉店前とか……やったことありません?」
唖然とする鬼島の後ろで浅緋が鞘の先を振り回した。
「猿で電車って言ったら上野動物園だろ。お猿電車があるんだから」
「あれは七十年代に廃止された」
着信音が鳴り、鬼島がスマートフォンを見る。
「上野駅不忍口に陰陽師たちが到着したそうだ」
「夢は関係ないんですね……」
呟いた氷下魚の真上の高架を山手線が駆け抜けた。
不忍口には夏休みの課題のため、博物館や美術館に向かう学生がたむろしていた。
雑踏の中で微動だにしないスーツ姿の若い男女が気配に気づいてこちらを向く。
セミロングの亜麻色の髪が揺れ、女の大きな目がさらに丸みを帯びた。
「
鬼島の唇から息が漏れる。
「
女は街路樹の木漏れ日の中で微笑んだ。
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