廃校、天邪鬼、ナポリタン

「私、メリーさん。今あなたの後ろにいるの」



 機械じみた高い声がこだました。

 背後の壁から現れた二本の腕が鬼島きじまを包み込むように広がる。

 赤い爪が喉元に触れる寸前に銃声が響いた。


 鬼島が手首を曲げ、脇腹の隙間から発射した銃弾はゼロ距離で後方の腕を抉る。

 身を翻し、片膝をついて二発続けて撃つ。

 薬莢がひび割れた体育館の床に跳ね、血煙が弧を描いた。


「女の子に酷いことすると嫌われるよ?」

 甘えたような声が響き、背後が暗く陰る。眼前の腕は血を流したまま壁から垂れ下がったままだ。

 後頭部をざらりとした指が撫でた。咄嗟に回転して避けた鬼島がいた場所を鋭い爪が抉り、床板が破れる。



「飯屋の店主のくせにやるじゃねえか」

 瓜子りこが跳躍した。

 落下したローファーが地面を叩き、中二階まで跳んだ少女の素足が錆びた手すりを掴む。

「お前も奴らの仲間か」

 銃口を向けた鬼島を見下ろして瓜子が鼻を鳴らす。

「悪く思うなよ。お前ら協会が情けねえからこっちも転向するしかなかったんだ」

 瓜子の後方から出現した腕が手すりを軋ませ、一瞬でへし折った。


「何だよ! 上野の鬼島を殺ったら見逃してくれんじゃなかったのか?」

 次々と断ち切られる足場を飛びながら少女が叫ぶ。

「知らない、忘れちゃった」

 甲高い嘲笑に舌打ちした瓜子が再び一階にに飛び降りる。巨大な腕が床板ごと削り、白い頬を爪が掠める。

「仲間割れか」

 鬼島は吐き捨てて、銃床を手の平で叩いた。頬から血を流す瓜子が肩を竦めた。


「人間も妖怪もみんな殺すわ。だって邪魔なんだもの」

 暗がりの中で白菊の花が広がった。花弁は全て人間の腕でできている。

「これからは私たち新しい怪異の時代よ」

 腕が一斉に鬼島を指した。引き金を引いた指に振動が走り、闇に火花が散る。

 弾が穿った指を新たな指が押し隠し、無数の手が襲いかかる。

 避けきれずに打たれた胸と腹に焼けるような鈍痛が広がった。


「妖怪っていうのは認知されなきゃ廃れてくもんだぞ……ひとも妖怪も皆殺しにしてお前らが存在できると思うか」

 鬼島は血の混じった唾を吐いた。

「人間は妖怪がいなくても生きていられるのに? それっておかしいわ」

 襲撃犯が残した血染めの半紙に記された達筆な字が脳裏をよぎる。

「下剋上ってのはそういうことか……!」


 鬼島は引き金を引いた。撃鉄が打ち鳴らされる代わりに気の抜けた空気音だけが響く。弾切れだった。

「もう終わり?」

 玩具と化した銃を嘲笑うように腕が蠢いた。



 金属を噛み砕くような不快な轟音が掻き鳴らされる。

 それは這い回る腕ではなく、体育館の扉の方から聞こえていた。

 鬼島の視線の先で固く閉ざされていたはずの出入り口が乱杭歯で穴を開けたように削られていく。

「何だ、結界が破れるなんて」

 瓜子が上ずった声を上げた。

「違う、……食ってんのか!?」



 刃が鋼鉄の扉と闇を引き裂いた。

 矢のように飛び込んだ影が鍔のない刀を振るい、光の中に血が赤い線を描く。


「女の子に酷いことしないで」

 甲高い声に白刃の閃きが応える。

「酷えと思わなきゃ何してもいいんだなあ!?」

 断ち切られた二本の腕がごとりと落ちた。


「間一髪だったなあ、坊ちゃん!」

 血を浴びたトレンチコートをはためかせ、男が長ドスを構えた。

「ヒダルガミ!」

 銃を構えたままの鬼島の後ろで瓜子が目を剥いた。

「嘘だろ、同族喰らいの化けモンかよ……!」


「時代遅れの古妖怪が……」

 幼気な声がしわがれた老婆の声に変わる

「古妖怪は手前もだろうが」

 男が喉を鳴らした。

「なぁにがメリーだ。メリケン人みてえな名前名乗りやがって。背後に回って臆病モンをビビらせる。手前、後神うしろがみだろ」


 体育館が割れんばかりに軋む。

 壁から突出した無数の手を掻き分け、男が横一文字にドスを振るった。回転のかかった刃が頭頂部に目玉のついた女の首を垂直に撥ね上げた。

 落下する頭部の目と男の目が合う。

「後ろ、とったぞ!」

 振り下ろされた刃が首と闇から現れた着物姿の胴体と断ち切った。霧散した残骸は刀身に吸い込まれるように消え、唾液の代わりに赤い雫が滴り落ちた。




「令和怪談の正体見たり、だな」

 男が長ドスのひっ先で床を叩く。どっと風が吹き込み、開け放たれた扉から見える空は正午の青色だった。


 男が腰を落として刀を構える。

「もう終わっただろ」

 男の視線は制止する鬼島の奥へ向けられていた。

「まだいるだろうが。女の皮被ってお前を出し抜いた天邪鬼が」

 瓜子が目を細めた。

「いつ気づいた?」

「初っ端から」

「じゃあ、何で黙ってた」

 男が獰猛な笑みを浮かべた。

「俺はひとを害した妖怪しか食えねえ決まりだ。手前がこいつを襲えば食える奴が二匹に増えるんだよ!」

 言うが早いか、男の擦り切れた革靴が地面を蹴る。


「くそっ、見境なしかよ」

 少女の姿をした鬼が間一髪で刃を避け、そのまま体育館の外まで跳躍する。男が後を追って駆け出した。

「おい、ヒダルガミ!」


 屋外に飛び出した鬼島の目に眩しい陽光と二体の魔物の背が映る。その先に校庭に留まったパトカーがあった。

「待て!」

 鬼島の怒声を無視して男がドスを振り上げた。

 裸足で駆け回っていた天邪鬼が足を止め、かすかに笑った。


「助けてください!」

 パトカーから降りてきた中年の警察官に少女が腕を絡ませる。

「このひとが急に襲いかかってきたんです」


 縋りつく少女を背に庇って警察官が戸惑いながら男と追いついた鬼島を見比べる。

「近隣住民から通報があったぞ、何してるお前ら!」

 天邪鬼が舌を覗かせた。男が鬼島の耳元で囁く。

「まとめてっちまおうぜ」

「何言ってんだお前!」

「怪異にられたって言えばいいんだ。わかりゃしねえよ」


「わかるよ」

 よく通る女の声がした。

 校門をすり抜けてスーツ姿の八坂やさかが歩み寄ってくる。

 彼女が手帳を見せると、警察官は口を噤んで道を開けた。

「陰陽師……」

 男が低く呟いた。



 フェンスの外に移動したパトカーを横目に、八坂が一列に並べた鬼島と男と少女に言った。

「まず襲撃犯を倒してくれたんだね。お疲れ様。怪異の名はメリーさん、でいいのかな?」

「こいつが言うには正体は妖怪・後神だそうです」

 鬼島の隣で男が肩を竦めた。


「なるほど……そっちは私が調べるね。次に彼女、彼と言うべきかな。彼は協会に登録された妖怪、天邪鬼あまのじゃく。名前は冬瓜とうり。人間を害さない限り保護する決まりがあるの」

「こいつは鬼島を襲った。有害だろ」

 犬歯を覗かせる男をいなして八坂は溜息をつく。

「鬼島くん、その傷は?」

 鬼島は脇腹と胸についた黒い汚れを見下ろした。

「怪異にやられました」

「じゃあ、彼は誰も殺してないんだね」


「待てよ、こいつの皮は?」

 男が少女を指さす。

「こいつはとっくに襲撃で殺されてら。おれは死体を借りただけ。怪異に脅されてしょうがなく手伝ったけどな。両親は娘だけでも生き残ってくれてよかったって大喜びだ。害すどころかいいことしてんだよ」

 天邪鬼・冬瓜が吐き捨てた。

「だいたいひとが悪いぜ。あんたが協会にいるならおっかなくておれも転向なんか考えねえよ」

「昨日出てきたばっかだ」


「そういうこと。詳しく話を聞くから彼は預かります。警察にはこっちで話しとくから、あとはよろしくね」

 八坂は眉を寄せて苦笑すると、冬瓜の手を引いて校庭を後にした。

 廃墟に降り注ぐ日差しは強く、鬼島の痛む傷跡を啄むようだった。



 喫茶「瑞祥」に戻ると、暖房は既に冷房に戻っていた。

 モップ片手に氷下魚こまいが駆け寄ってくる。

「店長、もう何もわからないので臨時休業にしちゃいました!」

 見慣れた店内を見回して鬼島は深く息をつく。

「偉いぞ、よく判断した」

「何もしてませんけどいいんですか」

「何かされるよりずっとマシだ」


 ヒダルガミはドスをテーブルに放り投げ、ソファに倒れこんだ。

「腹減ったな」

 鬼島は脇腹をさすりながらカウンターに手をつく。

「店長、怪我したんですか?」

「大丈夫だ。それより……」

 氷下魚の肩越しに見える男は紙ナプキンでドスの返り血を拭っていた。

「今日、賞味期限切れるものあるか?」

「パスタがありますよ。私まかない作ります。お酢と塩で洗って……違います?」

 鬼島はかぶりを振ってエプロンを取ると、厨房に入った。



 ホールに戻った鬼島はふたつの皿を持っていた。ひとつを氷下魚に押し付け、もうひとつを男の前に置く。

「何だこれ」

 白い皿の上にはトマトソースを絡めたナポリタンが湯気を立てていた。

「店長の料理久しぶりです」

 氷下魚はカウンターに座って麺を巻き始める。


「今日の報酬だ」

 鬼島が言うと、男は肩を竦めてパスタにフォークを突き立てた。

 男の向かいに腰を下ろした鬼島は灰皿を寄せて煙草に火をつけた。

「そういえば、お前名前は?」

 うどんのようにナポリタンを啜る男が顔を上げる。

「ヒダルガミ、呆けちまったか?」

「違う、妖怪にも名前があるんだろ」

「俺はねえよ。ダルとかダラシとか行逢神とか呼ばれたぐらいだ。誰も呼ばねえし必要なかった」

 鬼島は無言で煙を吐いた。


「この料理は何つうんだ?」

 男は三口でほとんどを平らげている。

「ナポリタン」

「これがそうか」

「知ってんのか」

「純喫茶つったらこれとクリームソーダなんだろ?」

 口元を真っ赤にした男が笑った。鬼島は灰皿の隅で灰を払う。


「爺かと思ったらガキみたい奴だな」

 男は怒るでもなく水差しからグラスに水を注いで煽った。

「そりゃそうだ。俺は飢えて死んだ奴の集合体からな。耐えきれなくて手前の子の死骸食っちまった親も、親父やお袋に食わせてやりてえって米びつ抱えたままぶっ倒れてくたばった子どもの魂も全部入ってる」

 男は自分の胸を叩いた。



 氷下魚が空の皿を持って厨房に消えた。静かな水音が店内に響く。


「人前で呼べる名前がないのも不便だ。俺が勝手につける」

 鬼島は煙草をもみ消してから言った。

「浅い深いの浅に、緋色の緋で浅緋あさひ。それでいいな」

「その心は?」

 鬼島は二本目の煙草を手に取りかけて逡巡し、箱に戻した。

「浅草に封印されてたヒダルガミ、だからだ……」

「単純だな。ガキみてえなのはどっちだ」

 満足げに笑って男は紙ナプキンで口を拭った。



「ホテル暮らしさせる金はないぞ。お前の家はここになる。お前が怪異を殺す限り衣食住の面倒は見てやる」

 鬼島は食べカスひとつない皿を見下ろした。

「洗い物ぐらいは自分でやれ」


 エアコンの冷風に臨時休業の張り紙がはためかせ、真鍮のベルを小さく鳴らした。

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