二:戦場のメリーさん

少女、復讐、メリーさん

 鬼島きじまが御徒町駅近くのビジネスホテルから出ると、早朝の通りは仕事に向かうひとびとと疲労と酔いを抱えてこれから帰るひとびとが交錯していた。



 微塵も疲れを感じさせない八坂やさかがロビーに現れた。

「帰してあげられなくてごめんね。先代が彼に施した封印の掛け直しをするまで預けるのは不安だったから」

 八坂の後ろで男が肩を竦める。ワイシャツは新しくなり、トレンチコートは洗濯したのかかすかに白い洗剤の跡がついていた。


「彼にはふたつの制約を貸したの。ひとを害した妖怪以外喰らわないこと。鬼島くんを死なせないこと。これらを破ったらすぐに封印する」

 鬼島は曖昧に頷いた。


「八坂さんの先代って……」

「俺をしばいた女だよ」

 口を挟んだヒダルガミに彼女は微笑した。

「私の家は代々彼みたいな人間を脅かす妖怪と戦うための一子相伝の陰陽師。次の代が生まれたら十五年間術も思想も全てを伝承して身を引くの。家が続く限り八坂家は不死と行っていいかな。彼は本物の不死身だけどね」

 八坂はそう言って先日の襲撃犯の調査が残っているから、と去った。


 残された鬼島が視線をやると男は片手に下げたビニールを掲げる。

「何だそれ」

「煙草。カートンで寄越した。腹が減ったらそれで誤魔化せだとさ」

 鬼島は鈍く痛む頭を振ってアメヤ横町の方面へ足を踏み出した。



 閉店間際の呑み屋がアスファルトに広げた水の痕が黒く染み出す横丁はまだ静寂の中にある。

 半年前から閉店セールの垂れ幕を掲げているカバン屋がシャッターを棒で押し上げていた。


 通りを見回しながらヒダルガミが呟いた。

「上野もだいぶ変わっちまったなあ」

「お前、いつから封印されてたんだ?」

「一九六四年、東京五輪の年だ」

 段ボールを積んだ台車がふたりの前を横切る。

「これを機に人間と妖怪も仕切り直しって協定を結んだらしいが、要は戦後からやっと持ち直して妖怪も傘下に組み込めるって思ったんだろ。居場所がなくなりかけてた妖怪が飛びついたって寸法だ」


 男は長い前髪を揺らしてひしめく看板を見上げた。

「南国喫茶、こんなのもあんのか」

 上京してきたばかりの青年のような仕草に溜息をつき、鬼島は男の腕を引いた。

「俺の店はこっちだ」


 シャッターの間に地下一階の階段が覗いたとき、ヒダルガミが笑う。

「お前の店は雪国喫茶か?」

 問い返す前に靴底がじゃりっと鳴り、八月にあるはずのない霜が階下から伸びているのが目に入った。

「あの馬鹿……」


 鬼島は手すりを掴んで階段を駆け下りる。

氷下魚こまい、今度は何やった!」

 扉の前で巨大な氷塊になった盆を抱えた少女が顔を上げた。

「店長、違うんです! 何もしてないんですよ」

 赤茶けた髪をシニヨンネットに押し込み、半袖の黒いワンピースをまとった少女が指を指す。

「ただ虫がいたからお湯をかけたらブレーカーが落ちちゃって……冷やせばいいかなって思ったんです」

「充分やらかしてるだろうが!」


 扉を開け放つと冷気が噴き出した。

 冷蔵庫の中のようになった店内を眺める鬼島に少女が近寄る。

「ごめんなさい、でも……」

「もういいから暖房つけてこい。開店までまだ時間がある」


 長ドスの鞘で張り巡らされた薄氷を叩き落としながらヒダルガミががらがらと喉を鳴らす。

「すげえの雇ってるな。雪女か?」

 少女はおずおずと一礼した。

「お客さんですか?」

「客じゃない。気にするな」

 男は音を立てて氷漬けのソファに腰を下ろした。


 鬼島がレジスターに積もった雪を布巾で拭いながら言う。

「こいつは雪女の氷下魚。お前と一緒で人妖協会から押しつけられた、うちのアイスクリーム冷やし係だ」

「ウェイトレスですよ」

「注文もレジの打ち方も覚えなくて何が給仕だ」


 ヒダルガミの前に霜で固まった布巾が落ちる。

「少しは手伝え」

 男は肩を竦めた。

「店を手伝えとは言われてねえ」

「働かねえなら食わせねえぞ」

「そこらの人間片っ端から食ってやろうか」

 鬼島が眉間に皺を寄せたとき、小さなベルの音がした。



 凍りついたドアの影に隠れるように夏物のセーラー服の少女が立っていた。

 少女は短く切り揃えた髪に落ちた霜を払って、寒そうに手を擦り合わせ、張り詰めた表情を浮かべる。

「ここは化け物喫茶ですよね」

「今まだ準備中で……」

 鬼島の声に少女が首を振る。

「私の兄が、化け物に……」

 消え入りそうな声は途絶え、少女は顔を覆った。



 暖房が唸る店内で唯一無事だった座席に通された少女はスカートの裾を握りしめて俯いた。

「私は瓜子りこって言います。高校一年生です」

 鬼島が紅茶を入れたカップを差し出すと、彼女は両手でそれを握りしめた。

「兄は池袋で化け物喫茶を経営していました。それで、先日……」

 少女が言葉を詰まらせる。鬼島は襲撃のあった地名を順番に思い出し、瞑目した。


「で、護衛か仇討ちを頼みに来たってか?」

 ソファに仰け反って袋から出した食パン一斤をそのまま喰い千切る男が言った。瓜子は怯えたように振り返る。

「気にしないでください」

 彼女はカップを置いてまだスカートの裾を触りながら頷いた。

「お兄ちゃんは最期に何があっても電話を取るなって言ったんです。でも、昨日着信があって、警察のひとかと思って出ちゃったんです。そしたら––––」



 電子音が鳴り響いた。

 瓜子が悲鳴を上げて携帯を放り投げる。

 テーブルの上に落ちた手帳型ケースのスマートフォンが独りでに振動を続けた。

 頭を抱えて震える瓜子に、鬼島が「出ていいですか」と問うと首肯が返った。


 少女とよく似た青年が並ぶ待ち受け画面の着信をスライドすると、ノイズが走った後、甲高い声が聞こえた。

「私、メリーさん。今駅のホームにいるの」

 電話が切れた。静まり返った店内に溶けた霜が雫を落とす音だけが響く。


「どこの駅だよ」

 吐き捨てたヒダルガミの後ろから氷下魚が顔を覗かせた。

「怪談のメリーさんみたいですね」

「メリーさん?」

「都市伝説ですよ。急に『私、メリーさん。今どこそこにいるの』って電話がかかってきて、だんだん近づいてくるんですよ。最後は『今あなたの後ろにいるのー!』って」

 氷下魚がソファの背を掴んで揺らした。男はパンくずを拭いながら顔を上げる。

「アイスクリーム冷やし係しかいねえ」



 それを眺めて苦笑していた瓜子はすぐに表情を曇らせた。

「そうです、昨日からずっと近づいて来てるんです。このままじゃ私も……」

 涙を滲ませる少女に鬼島は携帯電話を返した。

「わかりました。そいつらは俺たちの敵でもある。迎え撃ちましょう」

 瓜子が目を丸くし、男が口笛を吹いた。

「やる気だな、坊ちゃん。いいぜ、俺も連れて行きな」

「当たり前だ。氷下魚、少しの間店任せる。絶対に余計なことはするなよ」


 立ち上がった鬼島に瓜子が不安げな声を上げる。

「どうするんですか?」

「ここじゃどれくらい被害が出るかわからない。人気のないところまで行きます」


 長ドスをコートの裾にしまいながらヒダルガミが呟いた。

「ホームって上野と御徒町どっちだ?」



 鬼島を筆頭に瓜子と男は長方形の長い影を落とす台東区役所の角を曲がった。


 雑然とした都会の一角に時代から取り残されたような建物がある。

 茶色い塗装は雨垂れと蔦に覆われ、突き出した室外機と鉢植えが指で突けば崩れて塵になりそうなほどにひび割れていた。


「何ですか、ここ」

 瓜子の声に応えるように長い女の髪に似た植物の枝葉がざわめく。

「旧下谷小学校。九十年代に廃校になってそのまま残ってる。今は役所が物置代わりに使ってるらしいが滅多にひとは来ない。ここなら広さもあるしな」

 錆びついた緑のフェンスの網目から覗く校舎は、止まった時計やバスケットゴールが在りし日の姿のまま残っている。

「上野にこんな場所があったんですね」


「ここ、潰れちまったのか。まあ、ヒロポン売りがウヨウヨしてる場所に学校ってのもなあ」

 男はコートを翻して鉄柵を飛び越え、中の南京錠をドスで断ち切った。

「お前の頃と一緒にするな」

 鬼島が扉を押し、冬瓜が後ろに続く。


 風が廃墟に吹き渡り、一斉に窓ガラスが鳴る。共鳴するように電話が鳴った。

 瓜子が出ると、甲高い声が漏れ聞こえる。

「私メリーさん。今役所の前にいるの」


 脅える少女に男が楽しげに笑う。

「手前から来てくれんなら楽でいいや」

「あの、あなたは何の妖怪なんですか」

「のっぺらぼう」

「顔、ありますよね?」

「じゃあ、ろくろ首だ」

 横から手を出して鬼島が襟首を締め上げ、ヒダルガミが舌を出してみせた。


「そうだ。これやるよ」

 男は首から離れた手に硬質な何かを握らせる。

 錆びついた銃口が鬼島を見返した。

「トカレフのパチモンだ。ないよかマシだろ」

 鬼島は無言で受け取り、弾倉を叩いた。

「暴発しねえだろうな」

「銃を撃ったことがあるんですか?」

 慣れた手つきで拳銃を確かめる鬼島を瓜子が見つめる。

「まあな……」

 鬼島はそれ以上何も言わずに銃をしまった。



 色褪せた緑色の校庭に三人の足音が響く。

「お兄ちゃん、いざとなったら人妖協会が守ってくれるって言ってたんです」

 瓜子のローファーの先が白線の上に溜まった埃を掃いた。

「でも、協会は除霊をするんですよね。私、お兄ちゃんを殺した犯人が成仏するなんて許せなくて。協会に言わずにあなたたちのとこに来ちゃったんです。仇を討ってくれるかなって……こんなのお兄ちゃん望んでないですよね」


「死人は何も言わねえよ」

 鬼島は視線を下げ、ベルトに挟んだ銃が肋骨を押し返す感覚を確かめた。

「何を思うのも生きてる人間の権利だ。忘れて生きられないなら復讐すりゃいい。お前の身内を奪った奴にお前の人生まで奪わせるな」

 瓜子は口元をかすかに緩めて微笑んだ。



 三人は空色の塗装が剥げた扉の前で立ち止まった。

「この体育館なら人目につかねえ」

 鬼島が後ろに視線を投げ、ヒダルガミが抜刀した長ドスを振るった。

 一拍置いてふたつのドアノブがごとりと落ちる。


「入るぞ」

 鬼島が踏み出したとき、また着信が鳴り響いた。瓜子が携帯を取り出し、鬼島が受け取る。

「私、メリーさん」

 甲高い声が無言の廃墟にこだまする。

「今、あなたの後ろにいるの」



 瓜子が突然鬼島の背を突き飛ばした。

 少女が次いで体育館へ中へ飛び込む。

 駆け出したヒダルガミの鼻先で扉が音を立てて閉じた。

 錆びた鉄に反射する赤い光に顔を上げると、青かった空が血の色に染まっていた。

「やりやがったなあ……」

 男は歯を鳴らして呻いた。



 体育館の中は一条の光もなく、埃と錆の匂いが充満していた。

「瓜子!」

 声を張り上げながら、鬼島はスマートフォンの懐中電灯を点ける。

 暗がりの中に浮かび上がった少女の顔は冷たく鬼島を見下ろしていた。


「手間取らせやがって。護衛までいるんじゃねえか」

 声は男のように低く枯れていた。瓜子が辺りを見回す。

「連れて来たぜ。これでおれはお役御免でいいんだな」

「お前……」

 鬼島が呆然と呟く。


 体育館に非常灯に似た赤光が広がった。

 影が闇の中で蠢く。壁中に広がる黒い血痕が室内に満ちる朽ちた錆の匂いの元を表していた。

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