ウエハース、煙草、ヒダルガミ
飯は食ったか。
掠れた男の声が繰り返す。
「何だって……」
これは飢餓感だ。
「飯食ったかって聞いてんだ。俺は食ってねえ。長い間、何にも」
空っぽの胃の粘膜が収縮する。鬼島はえづいて吐瀉物を吐き出した。点字ブロックの間に胃液がほとんどの汚物が広がる。
「だから、腹が減ってしょうがねえんだよ」
「俺だって、食ってねえよ……!」
黄色い雫が糸を引く。鬼島は倒れそうになる身体を支えて叫んだ。
「急に店に押しかけられて、訳わからねえ仕事押し付けられて、殺されかけてんだ、こっちは……」
震える指で胸ポケットに触れる。
「腹減ってんならこれでも食ってろ!」
英字がびっしりと印刷された小さな袋が地面に落ちた。力を振り絞り、体温でぬるくなったチョコレートウエハースを声の方向に放り投げる。
血の気のない節くれだった手がそれを拾った。
「何だこりゃあ、メリケン言葉ばっか書いてやがる」
乾いた笑いとともに拘束が解け、吐瀉物に手をつきかけた鬼島は慌てて身を起こす。
「普通、俺に会ったら手前で飯食うんだけどなあ」
痛む腹を抑えて立ち上がると、擦り切れた黒革の靴の先端が見えた。
無人だったはずのホームに男が立っている。
よれた駱駝色のトレンチコートの下に点々と血がしみをつくるシャツを着込み、片手には朴の木の鞘に収めた長ドス、もう片手には鬼島が投げたウエハースの袋と手垢で光る模造品のトカレフを携えていた。
野放図に伸びた艶のない黒髪が片目を覆う痩せぎすの男がくっと喉を鳴らした。
「俺に飯寄越した奴は初めてだ」
耳をつんざくような金属音が響く。
明かりの消えていた蛍光灯が次々と灯り、真下に佇む赤いコートと巨大な鎌を揺らす女を照らした。
トレンチコートの男が片手を上げ、二発発砲する。
持ち上がった鎌の刃が火花を散らして弾丸を弾いた。
「パチモンじゃ効かねえか」
呆然とふたりを見比べる鬼島の前に出て男が笑った。
「殺されかけてんだって?」
男が袋ごとウエハースを半分食い千切り、ビニール片をホームの白線に吐き出す。
女の耳まで裂けた口が開き、狂ったような笑いがホームに反響した。
「デケえ口だ。いいなあ、そんなにデカけりゃ、たくさん飯が食えるんだろうなあ……」
食べカスを拭って男は長ドスを掲げる。
白鞘から抜かれた鋼が蛍光灯の光を鈍く反射した。
「俺はもう半世紀も何も食ってねえんだ。怖え女に捕まっちまってなあ……」
口裂け女の姿が赤い陽炎となって揺らいだ。
一番線を示す看板を鎌の柄が跳ね上げ、刃の先が点字ブロックを削る。
「私、綺麗?」
銀の軌道が閃いた。
鬼島の視界を赤一色が染める。
「どの面下げてほざいてんだ、スベタぁ!」
砕け散った鎌の破片に遅れて女の真紅のコートが真っ二つに広がる。
男の長ドスが口裂け女を脳天から両断していた。
虚空を舞った女の手が宙を掻き、黒い靄となって霧散する。
左右に断ち切られた口裂け女の残骸が漂って両端へ漂い、けたたましくホームへと飛び込んで地下鉄がそれを砕いて駆け抜けた。
男が血を浴びたドスを拭って鞘に収める。
都営浅草線のホームには帰宅ラッシュの賑わいが戻っていた。
スーツ姿のサラリーマンやこれから街へ繰り出す学生に肩を押され、我に帰った鬼島は男を見つめた。
何人もの黒服を瞬殺した魔物を屠った男が長い前髪の下から笑う。
「礼なら飯でしな」
足を引きずりながら地下鉄の階段を上がり、地上に出るとネオンの光が目を刺した。
空の血の色は消え失せ、夏の夕暮れに夜の藍色が染みている。
「何だ、浅草はこんなにひとが多かったか」
男は長ドスと銃を隠すでもなく堂々とアスファルトを踏みしめて雷門通りへ進み出す。
レトロな洋食屋の看板の前でたむろしていた人力車の車夫が視線を向けた。
「それ隠せ。銃刀法違反で捕まるぞ」
鬼島が肩を掴むと男は歯を見せた。
「妖怪は現行法で裁かれねえよ」
「目立ちすぎだ。昭和のヤクザじゃあるまいし」
男が訝しげに眉をひそめる。
「昭和って、今いつだ」
「令和だ」
「昭和のまがいもんか?」
「令和の前が平成、平成の前が昭和だ」
男は目を剥くと引き攣った笑い声を上げた。
「戦後は遠くなりにけり、なんてもんじゃねえな」
溜息をついた鬼島の胃がきりきりと絞まる。
通行人の視線から逃げるように、鬼島は男の肩を掴んだままひと気のない方へ歩き出した。
強烈な白い光を路傍まで伸ばすコンビニエンスストアに入り、鬼島は息をついた。
この男を連れて飲食店には入れない。上野まで歩くのも難しい。迎えを寄越してもらおうとスマートフォンをポケットから出すと、知らない番号からの不在着信が二件入っていた。
留守番電話の表示をタップして、液晶を耳に当てると
メッセージに耳を澄ませながらレジの方を見ると、男が店員を捕まえていた。
「何でもいいから早く食えるものくれ」
怪訝な顔つきで店員が棚に並べかけていたカップ麺を渡す。
男は封を剥がしてカップを持ち上げると、中の固まった麺を口に流し込んで噛み砕いた。
「お湯を入れないと駄目ですよ!」
慌てる店員の手からポットを奪い、空のカップに注いだ熱湯を酒を煽るように飲む。
「何やってんだあいつ」
鬼島は携帯を肩に挟んだまま近場にあった弁当とペットボトルの緑茶をふたつ掴んでレジへと走った。
「あと十分で迎えが来る。それまで大人しく食ってろ」
提灯を写真に撮る若者たちの背を眺めながら、雷門の前のガードレールに腰掛け、鬼島は男に弁当と割り箸を渡す。
プラスチックの容器を剥ぎ取る男を横目に、自分も弁当の蓋を開いたが食べる気にならなかった。
「で、お前は何で追われてたんだよ。運がなかっただけか?」
男は白米の半分を根こそぎ箸で掴んで口に放り込みながら聞く。
「お前を解放しに来たんだ」
シャッターの降りた土産物屋の前で談笑する女たちが甲高い笑い声を上げた。
女の赤く裂けた口が脳裏をよぎり、鬼島はかぶりを振る。
「どこまで知ってるかわからないが、今、人間と妖怪を第三勢力が襲ってる。それに対抗するため東京人妖協会がお前を起こして戦ってもらう算段をした。それで俺が寄越された」
「人妖協会ねえ。俺が封印された年にできたらしいが、まだ存続してたのか。お前がその使いっ走りか」
男は一気にペットボトルの緑茶を煽った。
「そうだ。協会が東京の各地に設けた人間と妖怪の緩衝地帯が化け物喫茶。俺は上野を担当してる」
男は平らげた弁当の箱を握りつぶし、首を傾げた。
「喫茶だか協会だか知らねえが、よく俺を呼ぶ気になったもんだ。俺は人間からも妖怪からも爪弾きにされたんだぜ」
男が地面に放ろうとしたゴミを横から奪って袋に詰め、鬼島は忘れていた問いを投げかけた。
「そういえば、お前は何の妖怪だ?」
「知らねえのかよ」
男が乾いた声で笑う。
「まずはお前が名乗りな」
鬼島は溜息をついた。
「
男が右手の指を二本突き出して鬼島の頬をついた。
「黒鬼だろ。見たことあるぜ。その黒子。目の下と頰んとこに一個ずつ。こりゃあ昔お前のご先祖が陰陽師に針で突かれたとこの名残なんだ」
笑う男の手を振り払うと、トレンチコートの肩を竦めて妖怪が言う。
「煙草持ってるか」
「質問に答えろ」
「くれたら答えてやるよ」
ポケットから箱とライターを出して渡し、男が唇に一本挟んだとき、足音が聞こえた。
「八坂さん」
パンツスーツの女を見とめて、男がぽろりと煙草を落とす。
「陰陽師……」
「鬼島くん、大変なものを起こしたね」
夜の街の喧騒を背後に八坂が目を見開いた。
「どういうことです。彼の封印を解くのが仕事じゃないんですか」
鬼島の元まで歩み寄った八坂が首を振る。
「私たちが解こうとしたのは浅草寺の下に封印している鵺だよ。彼はヒダルガミ。東京人妖協会設立に当たって、人間と妖怪どちらにとっても有害と見なされ、封印されたただひとつの魔物。妖怪喰らいの妖怪だよ」
鬼島の隣で男の目が金色に輝く。
「あぁ、そうだ。封印したのがお前……の先代か?」
八坂はヒダルガミを見下ろして口角を吊り上げる。
「そう。私もやろうと思えば貴方を封印できるよ」
八坂は鬼島に顎で示し、近くに呼び寄せる。
「そんなにマズいんですか、奴は」
「そうだね。奴は妖怪を食うだけじゃない。妖怪が忘れられて力を失おうと、彼だけは力を失わないの」
彼女は煙草を取り出して火をつけ、深く煙を吐き出した。
「妖怪の力の源は神と同じで信仰。忘れられれば弱体化する。今の妖怪たちはほとんどそうだけど、ヒダルガミだけは違う。奴の力は飢えと乾き。世界から飢餓が根絶されない限り奴は死なない」
言葉を失った鬼島の横をすり抜け、八坂はヒダルガミの前に立った。
「私は貴方を封印しない。できるけどね。貴方には私たちの力になってもらいたいんだ」
彼女は紫煙を燻らせて微笑む。
「鬼島くんの作る料理はとっても美味しいの。貴方が協力する限り、食べさせてあげる。だから、」
八坂はヒダルガミの乾いた唇に煙草を押し当てた。
「立場、理解してね?」
その言葉が鬼島に向けたものでもあることはわかっていた。
ヒダルガミは煙を吐き出して歯を見せる。
浅草の街を覆うように夜の帳が垂れ込めていた。
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