一:その妖怪、凶暴につき

ひと、妖怪、口裂け女

 正午の上野、アメヤ横丁にはすでに酔客の笑い声が漏れていた。

 汗とアルコールと叩き売りされる鮮魚の生臭い匂いを真夏の陽光が熱し、陽炎のように揺らめかせている。



 まくったシャツの袖から覗く引き締まった褐色の両腕にビニール袋を提げた鬼島きじま冴人さえとは、一瞬向けられた不穏な視線に顔を上げた。

 狭い通りにひしめく屋台に怪しい影はない。

 鬼島は背後に注意を払いながら露店の角を曲がった。



 地上に満ちる喧騒から逃げるように地下へと続く仄暗い階段を降りると、喫茶「瑞祥」の看板がある。


「店長……」

 電子マネー不可の張り紙の元に佇む白いエプロンをつけた少女が不安げに見上げる。

「どうした」

 言いかけて、コーヒー色のガラスに映る店内に四つの影を見とめ、鬼島は口を噤んだ。


 彼は財布から五千円札を出し、少女に握らせた。

「買い出し行ってこい」

「店長が行ってきたばっかりですよね? 何を買えば……」

 少女の声を遮るように店に滑り込み、ドアを閉めると奥のテーブルに座る四人が一斉に顔を上げる。

 老人が三人、若い女がひとり。



八坂やさかさん……」

 女が微笑んだ。緩く編んだ豊かな黒髪が泣き黒子のある白い顔に影を作る。

「お邪魔してるよ。私たちのせいで貸切になっちゃった」

「年中貸切みたいなもんです」

 ビニール袋をレジスターの横に置いた鬼島を見て長い髭の老人が鼻を鳴らした。

「若いな。二十半ばか?」

「その年で化け物の溜まり場を切り盛りしてるなら大したものだ」

 山高帽を被った老人が笑う。



 八坂と呼ばれた女がパンツスーツの足を組む。

「大した用じゃないから気構えないでと言いたいんだけど、今回はちょっと言えないな」

「何があったんです」

「化け物喫茶が襲われた」

 子どもほどの背丈の老人が言った。

「浅草を皮切りに、蒲田、池袋、阿佐ヶ谷、新大久保。客も店員も皆殺しだ。ここ三日でられた数は四十を超える」

「まさか」

 鬼島は目を見開いた。


「嘘じゃないさ、力自慢の妖怪どももみんな殺されちまった。水も出ないのかこの店は」

 長い髭を撫でる老人の声に我に返った鬼島は四つのグラスに水を注ぐ。


「吸っていいかな」

 八坂が胸ポケットから煙草の箱を取り出した。

「全席喫煙席です」

 彼女が灰皿を中央に寄せると四人が銘々マッチやジッポライターを取り出した。

「ひとと妖怪の共生が始まって六十年。座って煙草を吸えるのも贅沢な時代が来るとはなあ」

「こんな世の中じゃ守る気も失せるというもの」


 老人たちの声に八坂が煙を漏らす唇を吊り上げた。

「鬼島くんには言うまでもないけど、人間と妖怪の同盟ができて以来、ここみたいな化け物喫茶は唯一二種族の垣根なく交流を交わせる場なの。そこを襲うってことは両方に喧嘩を売るってこと。妖怪だけじゃなく、私みたいな陰陽師にもね」


「犯人の目星は付いてないんですか」

 水差しを片手に鬼島が問う。八坂はくしゃくしゃの半紙を一枚テーブルに広げた。


「下剋上……」

 その三文字が踊る紙の端にはコーヒーの染みとそれより一段どす黒い茶の血痕があった。


「事件があった店の全てにこれが残されていたの。人間に妖怪を殺すのは無理。でも、私の知る古き良き妖怪の仕業じゃないな。全く新しい怪異と言っていいかも」

 八坂の声に「古き良き、か」と小柄な老人が肩を竦めた。


「相手が何にせよやることはひとつ。お礼参りよ」

「東京に怪異の権威はふたつもいらんのじゃ」

 老人の長い髭が炎のように煌めく。

「河童は芥川のネタにされたかも知らんが、馬の骨の笑いの種にされたことはいっぺんもないんで」

 山高帽を外した老人の頭部が鉱物のような輝きを帯びた。


「早速だけど、鬼島くんも腹を括ってほしいんだ。このままカタギのカフェ店主で通すか、私たちと野良をすくうか。今決めて?」

 八坂が煙草を挟んだ指を揺らす。紫煙が鼻先に絡みつき、鬼島は唇を固く結んだ。


「俺は何をすればいいんです」

「スカウト、かな」

 八坂は子どものような笑みを見せた。

「最終兵器を出すの。まだ妖怪が畏怖の対象だった頃の魔物、最強の妖怪をね」



 アメヤ横丁を抜けると、近代的なビルが林立する道路から若者たちが洪水のように流れてくる。

 奔流を塞きとめる岩に似た銀色のバンが鬼島の目の前に止まった。

「乗ってください」

 運転席の窓から屈強な黒服の男が言い、鬼島は後部座席のドアを開ける。冷房で冷えきった車内に入ると、助手席に同じ黒服の金髪の男がいた。

 鬼島が乗り込んだのを確かめ、バンは静かに大通りへ滑り出した。



 結露した窓を指で拭うと、昭和の面影を残す横丁が現代の街並みに呑まれて遠ざかるのが見えた。

 高架下をくぐるとき、屋台から突き出した摩利支天の朱塗りの外観が覗き、鬼島は溜息をつく。


「これから浅草に向かいます」

 運転席の男がハンドルを切り、バンが緩くカーブする。

「鬼島さん、鬼の家系でしょ」

 助手席の男が身を乗り出した。

「名字もそうだし、その肌日焼けじゃない。黒鬼ってとこか」

 鬼島は自分の浅黒い頬に触れ、

「何世代も前の話だ。ほとんど血は残ってねえ」

「いいね。妖怪とのしがらみはないのに職に困ったら化け物喫茶に派遣してもらえる。いいとこ取りだ」

 運転手が諌めるように舌打ちした。


「自分たちも東京人妖協会に雇われてる鬼ですよ。自分が牛頭ごず、こっちが馬頭めず

 ハンドルから離れた片手の親指が金髪の男を指す。

「人妖協会って名前も気に入らねえよ。なんで人が先なんだ」



 鬼島は座席に頭を預け、過ぎて行く浅草通りを見つめた。

「何で俺が選ばれた。襲撃者には妖怪ですら太刀打ちできなかったんだろ」

「腐りなさんな。血が薄い奴にしかできないこともあるんだよ」

 馬頭を睨んで運転手の牛頭が言う。

「まず鬼の家系には妖怪を神通力がある。貴方の店に来たご老人三方、何者かわかりました?」

「帽子の男は河童、髭の長いのが老人火、一番小せえのが子泣き爺。神通力なんてなくてもわかる」

「さすがです」


 金の炎を象ったオブジェとスカイツリーが見え出した頃、西の空は夕暮れの色に染まり始めていた。

「次の理由が本題です。これから解放する妖怪のいる場所には何重もの結界が貼られてる。陰陽師や神主だけじゃなくユタ、道士、ヴァチカンのエクソシストまでが合同で編んだ結界だ。あらゆる怪異は手出しできません」

「なら、霊媒連中がやればいいだろ」

「下手な霊媒師なら逆撫でするだけ。あんたみたいな半端もんがちょうどいいんだ」

 馬頭が口を挟む。


「厄介ごとを押し付けられたとお思いでしょうが堪えてください。貴方の助けが必要なんですよ」

 鬼島がかぶりを振って胸ポケットに手をやると、買い出しのとき、袋に入りきらずに入れたままのチョコレートウェハースの硬さが手を押し返した。

「その妖怪っていうのは何なんだ?」


 鬼島の問いへの答えの代わりに、赤信号で止まったバンの窓を小石が叩くような音がした。

 運転席の窓を黒い影が覗いている。

 真夏だと言うのに真っ赤なコートを着込み、簾のような長い髪で顔を覆った女だ。

 馬頭がこめかみの辺りで人差し指を回した。


 黒髪の間から覗く顔の半分はマスクで覆われ、何かを伝えるように不織布が蠢いている。

「何だ」

 しびれを切らした牛頭が窓を半分開けた。

 女は潜り込むように顔を近づける。

「私、綺麗?」


 どん、と車を掴んで揺らしたような衝撃が走った。

 鬼島の頬を生温かい飛沫が濡らす。

 拭った手を開くとべったりと血糊が貼りついていた。


 運転席の座席から真っ赤な棘が突出している。

 窓から閃いた半月型の巨大な鎌がシートごと牛頭を貫いていた。


「牛頭!」

 乾いた銃声が二発。助手席の馬頭が発砲する。

 再び車内に衝撃が走った。

 風切り音とともに鎌が反転する。ルーフが切り裂かれ、真夏の熱気と血の雨が鬼島に吹きつけた。

 金属片と黒服の腕が夕空に舞う。


 鬼島は車内へ飛び出した。

 焼けるアスファルトに手をついた瞬間、湾曲した刃が頭上に迫る。マスクを外した女の口から耳まで裂けていた。

 鋼と鋼がぶつかる音が響いた。


 鬼島の前に立ちはだかった牛頭が日本刀で鎌の先端を受け止めている。

 背中の穴からどす黒い血が噴き出した。

「地下鉄へ走ってください、浅草駅に仲間が……!」

 口の端から血の泡を零した牛頭が叫んだ。

 弾かれたように走り出した鬼島の後ろで轟音と爆風が走る。肩越しに視線をやると、炎上するバンが黒煙を上げていた。



 熱風に急き立てられながら浅草通りを駆ける鬼島の頭上が暗く陰る。

 空が血のようなどす黒い暗褐色に変わってきた。

 道路に車も人影も見当たらない。

「くそっ……」

 背後にちらつく赤い影から目を背け、鬼島は足を早めた。



 浅草線の看板が目に留まり、鬼島は地下道へ駆け込む。

 明滅する電灯が雨だれに汚れた壁を照らした。

 階段の踊り場にたむろする数人の黒服が顔を上げた。

「上野の鬼島だ、追われてる!」

「怪異か!?」

 黒服のひとりが叫ぶ。

「口裂け女だ」

 別の男の顔が蒼白に変わった。

「喫茶エデン襲撃犯ですよ!」

 階上に赤い影が挿す。身の丈ほどある鎌を携えた女が壮絶な笑みを浮かべていた。


 黒服が一斉に銃を構える。鬼島は彼らを押し退けて階段を駆け下りた。

 断続的な発砲音が悲鳴に変わる。鬼島の太腿から足元に切断された脚が壊れたホースのように鮮血をあげながら転がり落ちた。胃がひっくり返るような吐き気に呻き、鬼島は口を抑えて駆け出した。


 階段から流れるおびただしい血が鬼島を追う。

「何なんだよ、くそ……」

 改札を蹴り上げ、押上方面のホームへ走る。

 構内は無人だ。

 明かりの消えたホームに出て、痛む肺に薄い酸素と熱気が押し寄せて鬼島は噎せ返った。


 金属を擦り合せる音が徐々に近づく。狂笑がホームにこだました。

 汗と唾液を拭って後ずさった鬼島の背を自販機が押し返した。


 赤い影がゆっくりと階段を下るのが見える。

 真紅のコートの裾と、血糊で鈍く光る鎌の刃が姿を現わす。


 こんな場所で死ぬのか。

 目を閉じた鬼島の瞼にある日の惨劇が浮かんだ。

 血だまりの中に倒れる痩せた少年。光を失いつつある虚ろな目が鬼島を捉え、唇がかすかに動く。

「畜生……」


 階段と反対の方向から靴音が響き、鬼島は目を開けた。

 振り返ろうとしたが、全身が石膏で固められたように指先ひとつ動かない。

「誰だ……」

 喉から絞り出すと、靴音が止まる。


「お前、飯は食ったか」

 掠れた男の声が響いた。

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