噺、怪談、昔話
「
「別に、全然忙しくねえよ」
隣歩く冬瓜はいつもの派手なシャツではなく学生の制服を纏っていた。
「最近、たまにお店に来ないことが多いですから忙しいのかなあって……」
「登校日だ何だがあったからなあ。こいつのクラスメイトに会ったときは取り繕うのが大変なんだよ。宿題も代わりにやってる。全然わかんねえけどな」
冬瓜は制服の胸を叩いた。この妖怪の素材になった少女がいたことを思い、氷下魚は目を逸らした。
「冬瓜さんはひとの皮を被る妖怪なんですよね」
「まあな」
スーツの男が氷下魚の肩にぶつかりかけ、冬瓜が罵声を浴びせる。男は信じられないという顔でふたりを見て去っていった。
「で、何だっけ?」
氷下魚はかぶりを振ってから頭の中で言葉を探す。
「ええっと、じゃあ、瓜子姫と天邪鬼って昔話は本当なんですか」
「あぁ、あれか? 瓜子姫ってお姫様が天邪鬼に騙されて殺されて、剥いだ皮を被って成り代わった天邪鬼が退治されるってやつ」
冬瓜は屋台から流れる汚水の水溜りを跳んで跨いだ。白濁した水の飛沫がローファーを汚した。
「そういう女ならいたぜ」
氷下魚は水溜りを迂回して避け、先に進む冬瓜を追った。
「本当なんですね……どんなひとだったんですか」
「氷下魚ちゃんに似てたかなぁ」
言葉を失って立ち止まった氷下魚に冬瓜は振り返って歯を見せる。
「嘘だよ、天邪鬼の言うことなんか信用すんな」
トルコ料理の屋台から流れた煙が冬瓜を霞ませ、氷下魚は曖昧に笑った。
「昔話ってラストが違うのよくありますよね。瓜子姫が生きてたり死んじゃってたり、天邪鬼が姫のふりして嫁入りしようとしたり……あれはどうなんですか」
「どうかなあ……じゃあ、こういうのは?」
冬瓜は制服のリボンを煩わしげに緩めた。
「瓜子姫は馬鹿だったから天邪鬼を鬼だって気づかずに仲良くしてやってた。あるとき、姫に結婚の話が出て馬鹿だから二つ返事で受けた。それが今おれたちが戦ってるような外道陰陽師の家だと知らずに。姫は馬鹿だから輿入れの日にそれを知って、嫁入り道具の簪で喉を突いて死んじまった。天邪鬼は紅い絨毯みたいに染まった畳を見て事を知った。で、姫の皮を剥いで
成りすまして御輿に乗った。凶器の簪を持って……」
夜の色に染まり始めた横丁の隅に、唯一変わらない喫茶「瑞祥」の看板が覗いた。氷下魚はビニール袋を胸に抱いた。
「それも嘘ですか?」
「当たり前だろ」
猥雑な通りに不似合いなほど清廉な風鈴の音が聞こえた。
***
浅草演芸ホールの中は無人だった。
擦り切れた革靴の底がホールへと続く扉を蹴破った。
内部は闇に包まれ、朱色の壁と同じ色の椅子が等間隔でひしめく輪郭だけが茫洋と浮かび上がった。
両脇の通路が鬼島たちを導くように仄かに明るくなった。
「何もいないのか……」
浅緋は答える代わりに高座の方を顎でしゃくった。
間の抜けた出囃子が鳴り響いた。
天井に提げられた紅白の提灯が蛍のようなかすかな光を灯し出す。
高座の中央に影が滲んだ。
萌黄色の羽織を纏った男が正座し、紫の絨毯にのめり込むように深く頭を下げている。舞台に三つ指をつく節くれだった手は微動だにせず、男の頭部を覆い隠していた。
「ようこそのお運び、厚く御礼申し上げます……」
地の底から這うような声が噺家の腕の中から響いた。
暗闇を昼白色に染め上げる明かりが高座を徐々に照らしていく。
身を伏せたままの噺家の背後の屏風は何の絵柄もなく、紅梅のような血飛沫が散っていた。舞台の隅の演目台にかけられためくりには赤茶けた筆文字が記されている。
牛の首––––。
鬼島は銃を構えた。浅緋が長ドスを手に、通路から高座までの距離を目で探る。
噺家がゆっくりと身を起こした。腕で隠れていた顔は鬼女の面で覆われている。そのこめかみからは闘牛のような角が生えていた。
怪異が内側からはだけるように羽織を脱ぎ、扇子を出した。
「毎度……世にも恐ろしい……厭なお噺を一席……」
鬼島が引き金を引くより早く高座から膨大な黒い波が押し寄せ、視界を闇が染めた。
演芸ホールの絨毯を踏んでいた鬼島の脚に何かがぶつかった。
いつの間にかアスファルトに変わった地面に広がるどす黒い血が、表面張力でナメクジのように這ってくる。
その先にあるものは、悪夢で何度も見た。
「落ち着け……落ち着け……」
銃を持つ手が震える。
血だまりの中に少年が倒れている。
くの字に折れた細い身体が痙攣している。少年の光を失いかけた目が鬼島を捉えた。歯ぐきから溢れた血が顎を伝い、乾いた唇が何か言いたげに開く。
疑問か、怨嗟か、助けを求める悲鳴か。
「猿夢と同じだ。全部幻覚だ……」
鬼島が目を固く瞑った瞬間、大地を破るような咆哮が轟いた。
アスファルトだったはずの地面が畳張りの床に変わっていた。
畳は汚泥で汚れ、鉤爪で裂いたような跡でひび割れていた。血と折れた刀と矢の残骸に混じって、引きちぎられてささくれた肉の断面を見せる手足が散らばっていた。
銃を構えながら後退った鬼島の背にひとの肩がぶつかる。背後に大量の人間が立っていた。
狩衣姿の神主や巫女たちは皆、全身に血を浴び、張り詰めた表情で武器を構えている。
一目で重傷とわかる傷を負ったひとびとは鬼島の存在に気づかず、惨劇の先にあるものを凝視していた。
真っ二つに折られて畳に突き刺さった障子の向こうから濃い鉄錆の匂いが漂ってくる。
振り返った鬼島に再び咆哮が浴びせられた。
部屋の奥に縦横無尽に張り巡らされた注連縄が大蛇の
ごとくのたうつ。
何重にも縛りつけられたものがひとの胴ほどもある縄を引き千切ろうと暴れていた。
縄を取り巻く呪符の間から、血肉をこびりつかせた長い髪と擦り切れた黒い紋付袴が覗く。荒れた髪から巨大な歯が現れ、吐き出された人間の腕が畳の上で跳ねた。
「まだ動くぞ!」
神主のひとりが叫び、周囲が一斉に矢を構えた。
縄に括られた魔物が吠え、紙吹雪のように呪符が舞う。声の風圧になびいた髪の間から金色の瞳が垣間見えた。
「浅緋……?」
魔物は答えない。咆哮をあげる喉がめくれ上がり、宙を向いた歯から干からびた無数の腕が突き出し、天井を這い回る。部屋中を軋ませて走った腕が、刀を抜いて向かった陰陽師の何人かを捉え、口に放り込んだ。
骨を砕く音とともに飛散した血飛沫が鬼島の頰を叩く。
咀嚼を続ける魔物に木矢が突き刺さった。魔物の口から血とひとの骨が溢れ、呻きが上がる。
「まだだ、完全に抑えるまで止めるな!」
声に次いで放たれた矢が魔物を貫く。
ひとりの神主の横で巫女が震えながら矢をつがえる。
「これも妖怪です。祓うことはできませんか」
「無理だ、こいつに道理はない。飢えのままに全てを襲い続けるぞ」
「違う……」
無意識に呟いた鬼島に注意を払う者はいない。
「待ってくれ、こいつは……」
「成仏なんてさせるか、何人殺られたと思ってる」
若い神主が放った矢が縄ごと魔物を貫いた。噴き出した血が弧を描き、金の瞳が鬼島を一瞬捉えた。
「浅緋!」
鬼島は引き金を引いた。轟いた銃声が空間を破る。
惨劇の舞台が消え、演芸ホールの仄明かりが戻った。風穴を開けた提灯がひとつ揺れている。
長ドスを構えたまま立ち尽くしていた浅緋が鬼島を見た。
高座の上の怪異は微動だにしない。
「牛の首は誰も知らない怪談だ。それぞれがいちばん恐れるものを想起させる……」
鬼島は銃を手に呼吸を整える。まだ脳裏に焼き付いた友人の死に顔が離れない。
––––恐怖に勝てるものを思い出せ。
少年が演芸ホールの前で手を振る。呼込の芸人にサインをねだり、「名前も知らないくせに」と呆れた鬼島に「有名になったら価値が出るんだ」と笑った顔。
寄席が始まる前に今は上演されなくなった落語の話まで一夜漬けで覚えたんだと自慢して、常連客らしい老人に睨まれたときの表情。
––––笑え。恐怖に呑まれるな。
鬼島は犬歯を見せるように笑う。獰猛で悪辣なヒダルガミのように。
再び高座の奥で闇がひしめく。
「噺家の敵は噺を遮る騒音だろ」
鬼島は闇雲に銃を撃った。弾丸が提灯や座席を抉り、火花が散った。
「行け!」
浅緋が弾かれたように身じろぎ、牙を剥き出した。
駆け出した浅緋を追う闇が銃声とともに霧散する。
鬼島は素早く弾を込めながら高座を睨む。
「牛の首、自分で自分の首を絞めたな。この場所で思い出した。落語にもお前に似たものがあった。あまりに怖いから上演されなくなったと尾ひれがついた演目……」
浅緋が地を蹴って跳躍する。高座まで駆け上がり、翻ったコートの裾から閃いた刀身が紅白の光を映した。
「その噺は『死人茶屋』だ!」
長ドスが袈裟斬りに萌黄の羽織を斬った。破れた布地が宙を舞って消える。一拍遅れてごとりと落ちた首がガラス細工のように砕け散り、破片が紫の座布団に降り注いだ。
「久しぶりに嫌なもん見たな……落語ってのは笑えるんじゃねえのかよ」
浅緋は長ドスを担いで高座から飛び降りた。鬼島と視線が合い、バツが悪そうに目を逸らす。
「お前も何か見たかよ」
「さあな」
高座にひとつの影がよぎった。
咄嗟に気配の方を向いた浅緋と鬼島の前に、舞台に立つ薄鼠色の着物の男がいた。
「誰だ……」
男は意にも介さず、座布団の上の欠片を拾った。
「やはり、舶来の混ぜ物が多すぎると駄目か……話を媒介にしたものなら上手くいくと思ったんだけどな」
振り抜いた浅緋の長ドスは虚空を斬った。
男の姿はない。
「何だったんだ、今のは……」
鬼島の問いに浅緋は首を振った。
「さあな……敵の親玉、じゃねえのか」
無人の演芸ホールの提灯はひとつずつ明かりが消え、沈黙だけが漂った。
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