五、ミスティック・隅田・リバー

東京、京都、因縁

 仄暗い東京人妖協会の最奥で、八坂やさかは後ろ手に手を組んで直立していた。


 向かい合う壮年の男は八坂の後ろ姿から両肩がはみ出すほど大柄で、鼻に一筋の太刀傷がある。

 白髪混じりの髪を撫で付け、男は厳しい顔に疲労の色を浮かべた。

「早くからすまんな、八坂」

「他でもない渡月わたつき会長のお呼びですから。息子さんのことですか」


 会長と呼ばれた男は頷く代わりにあご髭を撫でる。

「おう。きょうのやつがなぁ、勝手に京都の連中を呼んだらしい。勝手ばっかりしやがって」

「息子さんは用心深いですから。側近のふたりが亡くなって不安もあったのでしょう」

「アイツは臆病なだけだ」

 八坂は微笑を浮かべて眉を下げた。


「確かに持て余す事態になっちゃいるが、京都に借りを作るのは後々厄介だ。頼めるか?」

「ええ、日本の首都たるここが威厳を示さなければ名折れですから。敵は迎え撃ち、外様には手出しさせない。私なら、それが可能です」


 早朝の東京を映す窓ガラスを一斉に飛び立ったカラスが黒く染めた。



 ***



 昼下がりの喫茶「瑞祥」はいつになく賑わいを見せていた。


 女性客のひとりが足元にスマートフォンを向け、シャッター音が響く。撮影が終わるまで行儀よく動きを止めていた白と茶色の猫がテーブルに潜り込み、客のふくらはぎに鼻頭を擦りつけた。


「客が増えるのはいいんだが、中身を知ってるとどうにもな……」

 食パンを切りながらホールを眺める鬼島きじまの肩に冬瓜とうりが顎を乗せる。

「それより食品衛生法だろ。いつからここは猫カフェになったんだよ」


「飢饉のときの人間は犬でも猫でも食ったけど、今でも食わせる店があんのか?」

「ある訳ねえだろ」

 カウンターから覗き込んだ浅緋あさひの口にパンの耳を押し込んで、鬼島はサンドイッチを皿に乗せた。


「店長、ミートソースの注文があったんですけど、トマト缶がもう少ししかないんです」

 皿を受け取った氷下魚こまいが泣きそうな声で言う。

「何でだ、一昨日一ケース頼んだばっかりだろ」

「それが、一ケースだと思ったらひとつしか頼んでなかったみたいで……」


「問題か?」

 サンダル履きで厨房に現れた天丸てんまるが飲みかけの缶チューハイを氷下魚に押しつけた。

「必要なものがひとつしかなくて困ったときは、飲むとみっつに見えるぞ」

「何も解決してねえよ。それに氷下魚は未成年だ」

 鬼島が缶をひったくったとき、入店を知らせるベルが鳴った。


「気に入らねえのが来たな」

 浅緋が鋭い目つきでコートに隠した長ドスの柄に触れる。

「敵か?」

 声量を抑えて聞いた鬼島に浅緋が首を振った。

「そっちのがまだいい」



 客の間から金髪が覗き、渡月が現れた。

 その背後で光を吸った白銀の長髪が獣の尾のように広がった。

「鬼島、今話せる?」

 渡月が不機嫌そうに問う。彼の後ろに視線をやって浅緋が吐き捨てた。

「クズじゃねえか」

「何?」

「呼んでねえよ」

 厨房から顔を出した丑巳ひろみが引っ込み、椿希つばきに肩を小突かれるのが見えた。


「クズじゃなくて樟葉くずのは。久々だね、ヒダルガミ。前会ったのは昭和かな?」

 長身の男は目を細めて笑う。面差しには皺ひとつないが総白髪と白い肌が年齢を定かでなくさせていた。



「渡月さん。来るなら言ってくれれば……」

 厨房から出た鬼島の脇を擦り抜け、渡月は奥の座席に座った。冬瓜がテーブルに置いた水を見下ろして顔をしかめる。

「いらない、水道水だろ。飲まないんだ。東京の水は汚いから」

「女子高生の汲んだ水だぞ。ありがたく飲んどけよ」

 歯を見せた冬瓜を鬼島が銀盆で叩く。


「私のことはお気遣いなく。座っても?」

 微笑する白髪の男が椅子を引き、スーツの上着のボタンを外す。

「あぁ、もちろん……この方は?」

「京都人妖協会の会長秘書。妖狐の樟葉だよ」

 渡月がこともなさげに言う。

「俺、高校生の頃京都で陰陽師修行してたからさ。ツテがあるんだよね。今って正直もう東京だけじゃ手に負えないだろ? ドーマンセーマンの本拠地に力借りようと思ってさ、悪い?」


「このひとが妖狐ですか……」

 置き場をなくした水を持ったまま氷下魚が樟葉を見つめた。

「千年前からケツまくって人間に尻尾振るのに必死のクソギツネだ」

 浅緋がカウンターに肘をつく。片手はドスに触れたままだった。

「実際私は式神だから否定はできないな。彼とはちょっと因縁があってね」

 眉を下げた樟葉に浅緋が舌打ちを返す。


「どうせ京都の会長に油揚げでももらってきたんだろうが。ちょうどいい。前の続きでもやるか––––」

「浅緋!」

 鬼島の怒声に渡月が身を震わせた。樟葉が割って入るように身を乗り出し、目を丸くする。

「ヒダルガミに名前を?」

「ええ、よくなかったらしいですね。つけたもんはしょうがない。暴れないように見張ってはいますよ」

 鬼島は苛立ちを隠して卓上の布巾を握った。



「な、東京の妖怪たちは野蛮だろ? こんなんじゃ頭使った調査なんかできないって」

 渡月は手元で紙ナプキンを弄びながら呟いた。

「私は手柄を横取りに来た訳じゃないんだ。今回の案件に関しては裏方に徹するつもりだよ」

「と、言うと」

 樟葉は再び椅子に腰を下ろし、鬼島に気遣うような苦笑を浮かべた。


「私は“新しい怪異”の根源を探りに来たんだ」

 印を結ぶように白い指がテーブルの上で組まれる。

「渡月次期会長から写真を見せてもらったよ。新宿駅に落ちていた怪異の遺留物。あれは東京よりも私たちのところに縁深いものかもしれない」

 焼け焦げて半分に折れたロザリオの欠片が鬼島の脳裏をよぎった。


「あれは切支丹きりしたんのものと聞いてるが、どうして島原天草や何かじゃなく京都に?」

「大塩平八郎は知っているかい」

「江戸時代の施政者で儒学者ですね。乱を起こして鎮圧された」

「そう、不正を嫌ういいひとだったんだけどね」

「妖怪基準で歴史の人物を知り合いみたいに話すなって。ピンと来ないからさ」

 渡月が横から口を挟み、樟葉は肩を竦めた。


「大塩が行ったことのひとつでね、改革や乱ほど有名じゃないが、京坂の切支丹弾圧だよ」

 鬼島は静かに息を呑んだ。

「……その切支丹が今の一件に関わってると? 二十一世紀だぞ」

「まだ詳しいことは何も言えない。なぜ京都の切支丹のものが東京に流れ着いたのかもね。それを含めて調査したいんだ」


 鬼島は背を向けたままの浅緋に視線をやり、溜息をついた。

「何も難しく考えなくていいんだよ。俺たちが調べてる間お前らは今まで通り戦ってくれればいいんだから」

 渡月は寄れた紙ナプキンを放って立ち上がった。

「肉体労働ばかり任せて済まないけど、こちらもできる限りの協力はするよ。鬼島店長と妖怪のみんなも、仲良くやろう」


 次いで腰を上げた樟葉が手を差し伸べたとき、横から水差しを持った冬瓜が飛び出してぶつかった。

 チャコールグレーの上着が水を吸って一段明度の低い無彩色に染まる。

「冬瓜!」

 布巾を持って駆け寄った鬼島を手で制し、樟葉は指を立てた。

「ご心配なく」

 黒くなった布地の色が再び灰色に変わり、ひとりでに水が指の先に収束して球体を作る。


「また会おう」

 ガラスの球体じみた水の玉を保ったまま、樟葉は渡月の後をついて店を出た。

「狐汁にされちまえ」

 呟いた浅緋と冬瓜の頭を両手で叩き、鬼島は静かになった店内を眺める。

「東京と京都はそんなに仲悪いのか」



 地下から伸びた階段を上がり、渡月は足を止めた。

「どう、樟葉」

「飲まなくて正解だ」

 階段を登りきったところで球体を作っていた水が弾けて地面に飛び散る。アスファルトに広がった水溜りから赤い虫の群れのような線状のものが這い出した。


「うわ、気色悪」

 口元を抑える渡月の足元で虫が陽光に焼かれて蒸発する。

「少なくとも日本古来の呪術じゃないな。混ぜ物だろう」

 樟葉は靴先で水溜りを踏み、いくつもの円の波紋を作った。

「東京全土にこれが回っているなら本格的にマズいかもしれないな……」



 ***



「で、結局俺たちはいつも通り足で稼げって訳か」

 コートのポケットに手を突っ込んだ浅緋は鬼島に先行して、シャッターが降り始めた仲見世通りを歩いていた。

「あぁ、八坂さんから浅草に新しい怪異の気配があったって」

「またかよ、次は何だ?」


 簪や芸人用のカツラを売る店の角から外国人観光客が流れ、ぶつからないよう注意を払いながら鬼島はスマートフォンを掲げた。

「牛の首、だ」

「どんな奴だ」

「わからない」

 浅緋が怪訝な声を出す。

「あまりに恐ろしくて聞いたものは三日も保たず死ぬから誰も知らない。そういうよくある都市伝説だ」

「なるほどねえ」

 浅緋は脇道の商店街へと続く脇道に曲り、鬼島がそれに続いた。


 店が閉まっても代わりに灯り出す提灯と飲屋街の明かりが夕陽に滲む。自転車に乗った作務衣姿の老人が晩夏の空気を巻き上げて通り抜けた。


「あの樟葉って妖怪と因縁があるんだってな」

「因縁も何も、昭和に俺を封印した陰陽師の一味にあの野郎がいたんだよ」

 浅緋は側溝に唾を吐く。

「俺は人間の敵で妖怪の敵でもあるってな。鵺に土蜘蛛、危ない連中は出てくるたびに封印されて、面倒になって出てくんのやめちまったんだろ。今残ってんのは俺だけだ」


 鬼島は翻るトレンチコートの裾を強く引いた。襟首を抑えられた浅緋がくぐもった声を上げた。

「何だよ」

「何でもねえよ。それよりどこ向かってんだ」

「ようは怪談自体が本体なんだろ。なら、噺の本拠地だ」

 並んで歩き出した鬼島に浅緋が歯を見せた。

「寄席行ったことあるか」

「一度だけな……」


 アーケードを抜けて、ビニールの覆いが光を屈折させる飲屋街に出る。

「浅草の近くに住んでるのに行ったことねえのはもったいねえって連れてかれたんだ。ガキどうし落語の妙なんかわからなかったけどな」

「例のお友だちかよ」

「まあな」

 浅緋は肩を竦めた。


 雨だれに汚れたビルの間に漆喰塗りの白壁を模した建物が浮かび上がる。

 色とりどりの垂れ幕と旗が風にそよぎ、ふたつの「大入」の看板が現れた。


「浅草演芸ホールか」

 呼び込みの芸人の代わりに何も書かれていない木の立て看板が立つ入り口を眺め、ふたりはひしめく提灯の下をくぐった。

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