究明、窮命、救命

 喫茶「瑞祥」のうがい薬のような色をしたガラス戸には臨時休業の看板がかかっていた。



 店内は営業時よりも多くの人間が集っているが、誰ひとり声を発さず、古い空調がときどき停止しながら駆動する音だけが響く。


「まずは牛の首討伐お疲れ様」

 円形に並べたテーブルを囲む人間と妖怪の中、八坂やさかが口火を切った。浅緋あさひ鬼島きじまが視線を下げる。


「そして、ついに敵が正体を現したね。敢えて接触してきたと言うべきかな」

「薄鼠色の着物を纏った若い男、最初に襲撃された浅草の化け物喫茶での目撃情報と一致しますね」

 纏依まといが口を挟んだ。



「それ以降の襲撃に奴の影はなかった。わざわざ出てきたということは何か意図がありそうだね。鬼島君、何か言われた?」

「奴はすぐに消えて、ほとんど何もわかりませんでしたが……」

 鬼島は演芸ホールの赤みがかった闇を思い返す。

「『舶来の混ぜ物が多すぎた』とか『話を媒介にしたもの』とか言っていました」


「舶来ぃ?」

 テーブルの円には加わらず、ウレタンが薄くなった奥のソファに脚をかけた冬瓜とうりが眉をひそめた。

「怪談の牛の首も落語の死人茶屋も日本のもんだろ」



「それに関しては、私からいいかな」

 老人のような白髪を揺らし、樟葉くずのはが手を挙げる。

「今まで東京に出た新しい怪異を名乗る者たちの痕跡を調べさせてもらった。その結果、確かに彼らは妖怪に都市伝説やインターネット発祥の怪談のガワを被せたものだがそれだけじゃないことがわかってね」


 髪と同じ白さの指が、卓上に日焼けで変色した紙片を置いた。

「彼らには海外の魔物の伝承も被せてあったんだ。電話からひとを呼ぶメリーさんには、泣き声でひとを呼び寄せるメキシコの怪異ラ・ヨローナ。夢でひとを襲う猿夢には夢魔という風にね……だから、日ノ本の妖怪も陰陽師も対抗しきれなかった」



 空調が流す冷風の下を沈黙が這う。

「何だか……突飛な話ですね」

 やっと口を開いた鬼島に樟葉が鷹揚に笑う。

「ところが、そうでもないんだな。元を辿れば日本の域を出ない話だよ。八坂、君の先祖は京都の陰陽師だ。もうわかるだろう?」

 八坂は否定も肯定もせず、先を促すように視線を送った。



「事の起こりは文久十年、京坂のキリシタン弾圧だよ」

「キリシタン……」

 鬼島は新宿駅に残されたロザリオの欠片を想起し、乾いた唇を舐めた。


「そう、詐欺罪で検挙された祈祷師らがキリシタンと発覚し、合計六十五名が処罰された事件さ。しかし、当時から彼らをただのキリシタンと片付けていいかは意見が割れていてね。何しろ、イエズス会の教本を持っていたとはいえ元は陰陽師でもあった訳で……ヒダルガミ、君もいたから覚えてるだろ?」


 答えの代わりに、一直線に投げられたナイフが風を切った。樟葉の心臓部を貫通する寸前に、彼のスーツの胸がガラスのように透け、擦り抜けたナイフが壁に突き刺さる。

「浅緋!」

 鬼島の怒号に樟葉は宥めるような微笑みを返す。



「年齢四桁どうしにしか伝わらない昔話はいいって。先に進めてくれよ」

 渡月わたつきが机に頬杖をついた。

「話を戻そう。ここからは極秘だが、彼らはキリスト教だけでなく様々な教義の文献を集めていてね。中にはネクロノミコンやルルイエ異本など、聞いたことのない妖魔の召喚や製造に纏わる魔導書もあった。大方は我々京都の陰陽師が回収したが、全部ではなかったんだ」

「それが流出したってことですか?」

「おそらく」



「やっぱり本場の京都は違うだろ? 東京の協会がこれだけの間辿り着けなかった事実も一日で調べ上げるんだから」

 渡月が満足げに頷いた。

「あの阿呆ボン、何で東京の奴なのに京都に肩入れしてんだ?」

 鬼島の耳元に浅緋が手をやって囁いたとき、指先が頬に触れた。死人の肌の冷たさに、畳に広がる血の海が蘇り、鬼島は反射的に身を引いた。

「何だよ」


 怪訝な顔をする男の顔はとうに見慣れたものだが、金の瞳だけは屍の山を築いたあの魔物と同じ色をしていた。

 鬼島は幻覚を振り払うように首を振った。



「でも、何故京都で始まったものが東京に?」

「憶測だけど」

 八坂が小さく溜息をついた。

「京坂のキリシタンを処罰したのは大塩平八郎。日本史で聞いたことあるでしょ? その後、乱を起こした大塩を捕縛した奉行がいて、彼は新撰組に殺された。押収されたキリシタンの文献が回り回って江戸に来たと考えられるかな」



「一番肝心なとこが抜けてるだろ」

 冬瓜がソファの上で素足を組んで仰け反る。

「出自も手口もわかった。だが、動機がわからねえ。邪法使って、妖怪を別の怪異に作り変えて、奴らは何をしてえんだ?」


「そこまではまだわからない。もっと調べてみるつもりだけど……」

 樟葉が言葉を濁した。視線の先の八坂が微笑を浮かべる。

「これは東京の問題なの。協力はありがたいけど、あまり出過ぎないでほしいな」

「勿論、私は引き続き裏方で調査に回らせてもらうよ。助けになれることがあれば言ってくれ」



 椅子を引く音が静かに響く。

 花柄のカバーがかかった背に触れながら、妖狐は隣にだけ聞こえる声で言った。

「君は今の話をどこまで知ってて言わなかったんだい?」

「報せれば全員を危険に晒すことになるからね」

 八坂は卓上で指を組み、正面を見つめたまま答える。

「私の望みはひとを守ることだけじゃない。人間と妖怪の共生だから」

「それは、いい望みだね」

 樟葉は真っ白な顔で微笑んだ。



「私たちはもう出るけど、よければ東京の妖怪と行動を共にしたいな。土地勘もあるし、監視としてつけてくれてもいい」

「でしたら、私が行きましょう。偵察には慣れていますので」

 椅子を降りた纏依が床に降りる前に猫に姿を変える。纏依を肩に乗せた樟葉と渡月がガラス戸を押し、ベルの音ひとつ残して去った。



 空気に張り詰めていた緊張が解け、鬼島は息をつく。


「畜生どうしで出ていきやがって」

 呟いた浅緋の横で丑巳ひろみが臨時休業の貼り紙を剥がした。

「動物みたいに小さくて毛並みのいい妖怪は人間に可愛がられるから。親人間派になりやすいんだよね」

「貴方だって牛じゃない」

「僕の本体は結構グロいから……」

 夫婦が厨房に引っ込み、他の妖怪も持ち場に戻り出す。


 鬼島がテーブルを元の位置に並べ直すと、端にまとめておいたビニールクロスがふわりと広がり、傷のついた卓の表面を覆った。

「取って食いやしねえよ」

 顔を上げた鬼島に浅緋が肩を竦め、トレンチコートを翻して背を向けた。



 その背中を見て俯いた鬼島に静かな声が降った。

「何かを見た?」

 八坂は煙草を指に挟んで目を細める。

「たぶん、ヒダルガミの昔の姿を見ました。今みたいなひと型じゃない化け物で、ひとを食い殺してひとに討たれるところだった」

「ヒダルガミは今も昔も全ての生き物の敵だよ」


 鬼島はクロスの裾を引いて整える。

「食わなきゃ生きていけないのは俺たちもあいつも同じなのにな……」

「程度が違うよ」

 八坂はくすりと笑って煙草に火をつけた。長く吐き出した煙が天井にぶつかる。


「まあでも確かに、昔のヒダルガミはもっと手がつけられなかった。今より飢餓が蔓延していたからか、私たちが何度も力を削ったからかはわからないけどね」

 鬼島は無言で紫煙の軌道を見つめた。


「あれは災害と同じ。昔は受け入れるしかなかったけど、人間は努力でそれすらも支配下に置いた。彼を調伏する手段もあっていいと思わない?」

「……あいつが飢えから解放される方法はないんでしょうか」

「それは、君に探してもらおうかな」

 八坂は灰皿に灰を落とし、鬼島を見据えた


「そのためには彼をもっと知る必要がある。大丈夫、いつも通りでいいんだよ。」

「今度は何をさせる気ですか」


 空調が鬼島の不信を代弁するように大きく鳴った。

「鬼島君、安全が保証できるまでヒダルガミを君の家に住まわせて」


 エアコンのフィルターが埃の匂いを振りまき、卓上のドライフラワーの花弁を散らした。


「冗談ですよね?」

「本気です」

 八坂は再び煙草を強く吸う。

「今回の件で鬼島君は敵の親玉に面が割れた。二十四時間いつ何が来ても対抗できる護衛が必要だってこと。正直言って、適任は他にいないと思うな」

 鬼島は背後に視線をやった。コートの下から突き出した長ドスの白鞘が天を向いている。



「それに、烏や虫を呼べて死体でも平気で食べる妖怪を飲食店に住ませておくのは食品衛生法上どうなんだろうね?」

 八坂が首を傾げる。

 鬼島はテーブルに両手をついて肺の空気を全て出すように息を吐き、観念して顔を上げた。


「浅緋」

 名前に浅緋が振り返る。鬼島はこめかみに手をやった。

「保健所の監査が入るとマズい。今日から寝床を移してもらう」

「……何の話だ?」

 わずかに困惑が滲む声と表情は人間と何も変わらなかった。



 ***



 八月の隅田川の水面は陽光を受け、さざ波のひとつひとつまで銀紙のように輝いていた。


 熱で膨らんだ水草の匂いが暑気とともに漂う河川敷に、数人の人間が倒れている。

 そこから少し離れた場所で、白く細い旗のようなものが風もないのに身をくねらせ続けていた。

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化け物喫茶血風録 神祇なき戦い 木古おうみ @kipplemaker

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