新宿、虚勢、本性

 夕暮れの新宿駅は異界の空によく似た赤色に染まっていた。



 八坂やさかは新宿アルタ前の喫煙所で寄せる人混みを警備員と黄色のテープが押し返す喧騒を眺めていた。

「しかし、よく封鎖できたな」

 浅緋あさひが感嘆したように言う。駅前を埋め尽くすパトカーの群れの間から有事を知らせるアナウンスが流れていた。

「昨日の襲撃をテロ行為ということにして、次は新宿を襲うって犯行声明を流してもらったからね」

「相変わらず手段を選ばねえ」


「相変わらずって、昔から知ってんのか」

「知らないはずなんだけどね。私も先代も先先代も八坂の女はよく似ているから」

 横から口を挟んだ冬瓜とうりに八坂は笑った。

「東京が江戸だった頃から八坂家は怪異と戦ってきた。ヒダルガミはその中でも最も因縁の深い敵のひとつなの。私にもその経験も脅威も受け継がれてる、彼としても同じかな」

 浅緋は答えずに目を逸らした。



「はあ、どうりで」

 冬瓜は身を屈めて八坂には聞こえないように囁く。

「あんたがあの女に従うのは怖いからだけじゃねえってことだ。そんな気がしてたぜ」

「どういう意味だよ」

「あんたは仲間なんか作れねえからな。八坂の陰陽師は敵とはいえ唯一の知り合いってことだ。そりゃあ特別だよな」

 浅緋は目が醒めるような極彩色のアロハシャツを見返した。

「その服で親が泣かねえか?」

 冬瓜は舌を出し、喫煙所を後にした八坂の影を踏んだ。

 道端にはひしゃげたビール缶が大量に転がっていた。



 ***



 ひび割れたベンチで膝を抱えた氷下魚こまいが乾いた唇を震わせる。氷で乾きを凌がせていたが限界が近いのかもしれない。

 鬼島きじまは最後の煙草に手を伸ばした。


 何時間経ったのかわからなくなっている。

 自分もとっくに限界だ。だが、自分より弱い人間がいるうちはまだ繕える。

 そう言い聞かせて鬼島はライターを握った。


「氷下魚、帰ったら何が食いたい。好きなもん作ってやる」

 口に含んだ氷を噛み砕いて彼女が赤い目を動かした。

「何でもいいんですか……」

「ああ、材料ならいくらでも買ってやる」

「じゃあ、たらこパスタ……ホタテの貝柱の入ってるやつがいいです……」

「わかった、買い出しは付き合えよ」

 氷下魚が悲痛な笑みを浮かべて頷いた。鬼島も余裕のある表情を返したつもりだったが、上手く繕えたかはわからなかった。



 ***



 駅を包囲する警察官たちに手帳を見せ、八坂がテープをくぐった。

「すごい、VIP扱いだ」

「呑気ね」

 丑巳ひろみ椿希つばきがそれに続く。

 階段を下り、警察官たちが見えなくなったのを確かめて浅緋は長ドスを鞘から抜いた。



「作戦を確認するね」

 八坂が指の骨を鳴らす。

「私が鬼門を開く。待機させている陰陽師たちと椿希ちゃん、丑巳くんで雑魚を蹴散らして。その間にヒダルガミと冬瓜は向こう側に殴り込んで救出と討伐を。後は鬼門を開く場所だけど……」


「俺がやる。鬼島たちの気配が残ってる場所を探せばいいんだろ」

 床に伸びる浅緋の影が生き物のように蠢いた。じくじくと湿った音を立て、影の中から無数の虫や鼠や鴉が湧き出した。

「飢えた奴らは俺の下僕だ。行け」

 生き物たちが浅緋の声に合わせて一斉に走り出す。


「気色悪い……」

 冬瓜が口元を手で覆った。浅緋が暗がりに視線を走らせる。

「下だ。行くぞ」

「下って、ホーム十個以上あるんだけど」

 丑巳が呼び止めるのに構わず、トレンチコートを翻して浅緋が改札を飛び越えた。


「新宿駅に北口はないから北に鬼門を作れば都合がいいね。大江戸線に絞ろうか」

 八坂が暗がりの方へ歩き出す。

「ヒダルガミいらなかったんじゃねえか」

 冬瓜は悪態をついてその後を追った。



 最低限の明かりが照らす構内にはスーツや黒い着物姿の人影が点在していた。


 浅緋を追いかけながら丑巳と椿希が交互に叫ぶ。

「一度小田急線に出て連絡通路に行かないと」

「今は通り抜けられないわ。西口側の通路から回り込まないと」

「夫婦で話をまとめてくれねえかな」

 ふたりの前を走る冬瓜の先で長ドスの刀身が歯軋り似た音を立てる。

「駅を壊したら封印の期間が延びるから」

 八坂の静かな声に浅緋の舌打ちが重なった。



「でも、ここまで来れば––––」

 八坂の足元で何かが爆ぜた。湾曲した鎌がタイルを割って駅の床に突き刺さっていた。

 タイルのひびが広がる。

 割れ目から海藻のような干からびた長い髪が広がり、紫色の肌をした老婆が姿を現した。黒い霧が辺りに立ち込め、不定形の影がひとの形に凝固していく。



 包丁を抜いた椿希を手で制して八坂が前に出た。

「退きなさい」

 パンプスの爪先が地面を叩き、衝撃波が一瞬で影を掻き消した。

 老婆が瞬膜の張った目を恨みがましく向ける。


「怪異との共生までやっと漕ぎ着けたのに壊すのは簡単なんだから……」

 八坂が宙に手をかざした。老婆の紫色の顔面が更にどす黒く染まる。

「ひとが時間をかけて築いたものを台無しにする奴はね、一瞬で殺されても文句は言えないんだよ」

 老婆の首が水風船のように破裂し、赤い鮮血と白い頭蓋と脳漿が飛び散った。

「怖え女……」

 浴びた飛沫を拭いながら冬瓜がくぐもった声を出した。



 構内の随所から黒煙に似た霧が立ち、次々と影が姿を現わす。

 シャッターを降りた売店の奥を見やって八坂が足を止めた。

「あそこに一体大物がいるね」

 売店の影と構内図の掲示板の影と混じり合った黒い染みが床に伸びている。

「先攻のふたりはそのまま行って」


 冬瓜は八坂と視線を交わし、

「じゃあな。ちゃんと働けよ、ヒモ野郎!」

 既に下り階段に浮かぶコートの裾しか見えない浅緋に向けて駆け出した。


 黒い突風が駆け抜け、ホームへ向かったふたりの姿を掻き消す。

 風の幕を裂いて突き抜けた何かを八坂は人差し指と中指で挟んで食い止めた。砕け散った両刃刀の残骸が煌めいて床に降る。


「私はこれから鬼門の方に集中するから。怪異たちはよろしくね」

 八坂は薄く目を閉じて手を組んだ。

「あなた、そろそろ観念して戦いなさい」

 丑巳は溜息交じりにシャツの下から牛刀を取り出した。



 ***



 大江戸線のホームへ続く雨垂れで汚れた白い通路の隙間から影が滲む。

 重心を下げ、足首の力だけで跳躍した冬瓜が壁を足場に回転し、天井から滴る黒い影を切り裂いた。


 剥き出した鋭い爪を収縮させて着地すると、ホームの端で待機していた浅緋がコートの裾でドスについた泥を拭っていた。

 他に人影はなく、落下防止のガードで固く閉ざされた線路は闇の方へ続くばかりだ。



「カチコミかけるつったってどうすんだよ、門が開いたらあんたとおれで競争ってか」

 猫背になってホーム下を覗き込む冬瓜の前を熱風が掠め、防御するより早く線路上に飛び込んだ隕石のような赤い光球が地を削った。

 浅緋が長ドスを構える。


「味方だ。人妖協会の火車かしゃ。八坂から聞いてないのか」

 燃え盛る球体から低い女の声が響いた。炎の中心で車輪の輻に似た軸が放射線状に伸び、ゆっくりと回転している。

 燃える外輪が促すように傾いた。

 その先には錆びついた古いトロッコのような台車が捨て置かれていた。


「早く乗れ。じきに鬼門が開く。私が荷台を押して突破する」

「原始的なこって。案外人間も進化しねえな」

 浅緋が薄く笑ってホームから飛び降り、冬瓜がそれに倣う。

 二体の妖魔を乗せたトロッコが悲鳴のような音を上げた。


 緩くカーブした壁の先が朱色に発行した。

 光は壁を伝って四角形を描き、浅緋たちの目の前に天井を軸にして立つ逆さの鳥居が出現した。

 鳥居の向こうから息が詰まりそうな黒い靄が漂い出す。

「行くぞ」

 火車がトロッコの後方へ回転し、勢いを増した炎が陽炎を作って靄をじりと焼いた。


「天邪鬼、着く前にくたばんなよ」

「こっちの台詞だ、御老公」

 トロッコが発信し、霞とホームの光景が急速に後ろへ流れる。

 禍々しい風を受けながら加速した荷台が鳥居の中央を突き抜けて消えた。



 ***



「まだ終わらないの?」

 際限なく湧き出す影を包丁で斬り伏せながら椿希が叫んだ。

 八坂は床に手をついて虚空を見つめたまま答えない。


 正面から襲いかかった影に椿希が包丁を振り下ろす。脳天から胸まで垂直に裂けた影の右半分が千切れ、左半分に吸収された。

 花が開くように影が広がり、裂け目から白い牙が突出した。反射的に身を庇って目を閉じた彼女に無数の牙が迫る。

 痛みは襲ってこなかった。


「ヒモも楽じゃないんだよ」

 聞き慣れた声に目を開けると、椿希の前に立つ小柄な男が凶暴な口に牛刀を突き立てていた。

「たまにはいいところ見せないと愛想尽かされちゃうからさ」

 丑巳が刃を抜くと、影が大量の泥を噴き上げて崩れ落ちた。


「あなた……」

「例の大物が来ちゃったみたいだね」

 丑巳が顎で指した先に一際大きな影が立っていた。

 ホームにひっそりと佇む公衆電話の前に、推理小説の怪盗のようなシルクハットとマントを纏った男が不敵な笑みを浮かべて佇んでいる。


「適当にサボるつもりだったんだけどな」

 丑巳は男を見据えてから振り返らずに言った。

「椿希ちゃん、八坂さんを頼んだよ。僕が戻るまで下には来ないで」

「頼まれたって行かないわよ」

 冷たい口調を作った妻に小さく笑みを返すと、丑巳は再び男の佇まいを眺めた。


「妖怪を殺したいんだよね。僕が相手だ」

 地を蹴って駆け出した丑巳が男の脇を掻い潜り、ホームの階段に向けて駆け出した。

 男は喉を鳴らして笑うと、マントを翻して猛追した。



 階段を駆け下りる丑巳の背に男が肉薄する。

 丑巳は後ろを確かめて足を速めた。

「威勢のいいことを言って逃げるだけか?」

「こっちもいろいろ準備があるんだよ」


 男は速度を落とさずマントを揺する。裾から現れた無数の手が伸び、すんでのところで回避した丑巳のシャツの裾を引きちぎった。

 半身になって追撃を避け、地を滑って距離を空けた丑巳の踵に案内板の支柱がぶつかる。


「次にもらうのは腕がいいか脚がいいか……」

 ホームの最端まで追い詰めた獲物を見下ろし、男は残忍な笑みを浮かべた。

 丑巳は背後に逃げ場がないことを確かめて男に向き直る。


「下剋上と言ったね。宣戦布告するなら名乗ってくれてもいいんじゃないかな」

 男が少しずつ距離を詰めながら通る声で言った。

「妖怪を殺す新しい怪異のひと柱。怪人アンサーだ」

「聞いたことがある。どんなことにも答えてくれる代わりに、君からの質問に答えられなきゃ身体の一部を捥がれるんだろ」

 丑巳は一歩後退る。


「じゃあ、答えてくれよ。君たちの目的は何だい」

 男はシルクハットの縁をなぞった。

「人間と怪異の共生は成り立たない。怪異に人間は不可欠だが、人間は怪異を必要としないからだ。なら、恐怖による支配体制に変えるしかないだろう?」

 丑巳は肩を竦めた。

「君たちの首謀者は?」

「質問はひとつまでだ」


 怪人アンサーは丑巳の眼前まで迫っていた。

「では、私から。サービス問題にしよう。お前は何の妖怪だ?」

 丑巳は感情のこもらない声で答えた。

「僕は牛鬼。昔は怖がられてたよ。何せ牛や鬼のくせに毒を使うんだから」

 男が膝をついて崩折れた。怨嗟や疑問の代わりに怪人アンサーの口から黒い血が溢れ出す。


「ひとが多いとこじゃ使えないんだけどここは地下だしね。たくさん喋ってもらったから、そろそろ回ってきた頃かな」

 怪人アンサーがもたげた喉首を牛刀が貫いた。

「お前……」

 憎悪の声を上げる男の肩を手で支え、より深く刃を刺し込む。

「まだ生まれたてだから知らないみたいだけど、妖怪に隙を見せない方がいいよ」


 断末魔が響く前に丑巳は男の首を捩じ切った。

「特に牛鬼は凶暴で残忍なんだから……」


 怪人アンサーの死骸が砕け、プラットフォームに広がるマントが腐臭を放つ泥になって溶け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る