祈り、呪い、期限

「きさらぎ駅、人里離れた沿線に突然接続する異界の無人駅……匿名掲示板発祥の怪談で半ばインターネット・ミーム化しているものだね」



 八坂やさかは黒いバンの後部座席で呟いた。

 午前四時半、窓の外を流れる白み出した空とまだ静かな上野の街を遮って、時折パトカーや救急車がすれ違う。

 人妖協会からの迎えに拾われ、八坂の隣に座らされた浅緋あさひは彼女の耳に収まった白い貝殻のような栓を睨んだ。

「ひとと話すなら耳栓外せよ」

「耳栓じゃなくてイヤホン。被害が次々増えてるから連絡が絶えないの。妖怪だけじゃなく協会の陰陽師やそれを庇った一般人で襲われてる。いよいよ見境いがなくなってきたね」



 バンが停車し、先に降りた運転手が後部座席の扉を開く。まだ夜明けの空気に冷たくそびえるアメヤ横丁の看板が目に入った。


 降車した八坂と浅緋はシャッターが閉ざす電気屋とゲームセンターの前を進んだ。

「きさらぎってのは二月じゃねえ、鬼の古い読み方だな。鬼の子孫と鬼を使う陰陽師を使うのに都合いいって訳か」

「そうね。敵の一味に陰陽師がいるならそういう言葉遊びに拘るのも、妖怪が最近発祥した怪異として存在していたのも納得がいく。名前を与えて存在を作り変えていたということだから」

「くだらねえ真似しやがる」


 浅緋の吐いた唾が通りに捨てられた吸殻の上に落ちた。

「三流の外法陰陽師だろうが厄介だぜ。人妖協会の妖怪は陰陽師に手を出さねえって決まりだろ」

「そういう縛りだね。鬼島くんたちの救助に出す編成も考え直さないと」

「お前はどうするんだよ。敵の信仰がわからねえと対策が難しいんじゃねえのか」

 八坂はイヤホンを外して握りしめた。

「神も仏も関係ないよ。私が信仰しているのは私だけだから」

 浅緋は吐き捨てるように笑った。

「聞くまでもなかったな」



 ***



 ひび割れたホームに横たわる紫苑しおんが血の混じった咳をした。

 赤く染まった胸が酸素で膨らむたび、ごぼごぼと泡の立つ音がする。


 鬼島きじまはシャツの袖をちぎって天井から滴る水に浸し、血で汚れた紫苑の顔を拭った。

冴人さえとくん、そこにいる……?」

 膜を張った瞳がわすかに動く。

「よく見えなくて……」

 鬼島が上半身を抱え起すと重く冷たかった。脇腹の傷が黒い穴のように口を広げ、もう新しい血も流れない。


「私もう駄目そうだからさ……」

「くだらねえこと言うな。もうすぐ八坂さんが来る。浅緋も……」

 紫苑が力なく笑った。鬼島の肩に乗せた頭がずり落ちそうになる。手で押さえると髪にこびりついた血が剥がれ落ちた。


「ごめんね、いつも助けられなくって。私のこと恨んでいいよ……」

 鬼島は首を振った。それが紫苑には見えないことはわかっていたが、喉が詰まって言葉が出なかった。

「恨んでいいから……忘れないでね……」

 紫苑の目から光が消えた。彼女の身体が力を失い、額が、硬い鼻梁が、まだ柔らかい唇が鬼島の胸にぶつかりながらずるりと下がっていった。


 膝の上の紫苑の体温が徐々に消えていく。鬼島は顔を覆った。目を閉じているのに指の隙間から入り込む、突き刺すような赤い光がまぶたの裏側を焼くように映り続けていた。



 どれほど時間が経ったかわからない。赤い闇の中で鼓膜をざらつかせる啜り泣きが聞こえていた。

 鬼島は手を下ろし、声の方に視線をやる。

 少し離れた場所で氷下魚こまいがゴミ箱を背にうずくまっていた。


 鬼島はベストを脱いで地面に敷き、その上に紫苑を寝かせて立ち上がった。どこからか吹いた風が亜麻色の髪を揺らした。



「氷下魚、立てるか」

 膝に埋めた顔がわずかに持ち上がり、赤く腫れた目が驚いたように鬼島を見る。

「救助がいつ来るかわからない。脱出できる場所を探すぞ」

 歩み寄って手を差し出すと、氷下魚がおずおずと手を重ねた。冷え切ってはいたがまだ柔らかい、生きているものの感触だった。


 ホームの向こうには錆びついた線路と赤く枯れた雑草があり、その先に有刺鉄線を巻いたフェンスがある。

 ガラスが割れて針が止まった時計は四時二十分を指していた。

 鬼島は看板に張った霜から垂れる雫を手に受け、こびりついた血を洗い落としてからシャツで拭った。

 埃で汚れた布地に赤茶けた筋が指の形に残った。



「あの影が出てこないのは恐らく八坂さんが結界を張ってるからだ。線路の外には出ない方がいい。駅の中を探すぞ」

 鬼島は一度横たわる紫苑を見やってから、階段の方へ踏み出した。氷下魚が少し遅れてその後を追った。


 階段はところどころ砕けて、両端の手すりもひしゃげている。喫煙禁止や駅員への暴行事件の件数を謳う貼り紙の残骸がセピア色のセロハンテープに残っていた。

「足元、気をつけろ」

 肩越しに振り返ると、崩落した足場に注意しながら歩く氷下魚が頷く。


 階段を登りきると、暗がりの中でふたつ並んだ改札が茫洋と佇んでいた。

 腐りかけた緑のコルクの掲示板と観光案内の看板に現在地を示すものは何もない。

 鬼島は銃を抜き、改札に向けて発砲した。


 放たれた弾丸は自動改札機の上で障壁に弾かれたように破裂した。薬莢が足元に落ち、硝煙の匂いが漂った。


「駄目だな」

 鬼島はかぶりを振って銃をしまった。色褪せて白くなった水色のベンチに座ると、氷下魚が少し迷ってからその隣に腰を下ろした。


「店長、ごめんなさい。私がちゃんと電車を止められてたら……」

 彼女の肩に血の色の大きな手形が残っていた。

「謝るな。謝ったらクビにするぞ」

 氷下魚は目を丸くして何か言いかけてから俯いた。


 鬼島は煙草を取り出して火をつける。箱の中の残りは三本だ。鬼島は煙を吐いた。

「私じゃなきゃよかったのになあ……」

 氷下魚が震えた声で呟いた。

「私じゃなく紫苑さんが残ってたらもっと上手くやれたかもしれないのに……今だって私がいなくて店長ひとりならもっと……」

 鬼島は煙草を持った手で額をこすり、もう片方の手で氷下魚の頭を小突いた。小さな呻きが上がる。


「お前がいるからまだ何とか虚勢はって平気なふりしてられるんだ。俺ひとりだったらとっくに駄目になってる。今頃泣いてたかもな」

 氷下魚は頭を押さえて鬼島を見てから、曖昧に微笑んだ。

「店長が泣くところ想像できないです」

「しなくていい」

 棚引いた煙は改札の上まで流れ、透明な壁にぶつかって屈折した。



 ***



「連れて行かれたのね、あの子たち」

 喫茶「瑞祥」に椿希つばきの沈鬱な声が響いた。


 カウンターの奥で派手なアロハシャツに着替えた冬瓜とうりが舌打ちする。

「何であの女まで来てんだよ」

 中央のテーブルの前には煙草を咥えた八坂が佇んでいる。

「そりゃ責任者だからね。ヒダルガミがいても勝てないような敵なら尚更さ」

 厨房からホールを盗み見た丑巳ひろみの頭上にメニュー表が飛来し、鴨居にぶつかって落ちる。


 椅子に踏ん反り返って投擲したままの形に手を伸ばした浅緋が鋭い視線を向けた。

「おお怖、当たんなよ」

 冬瓜が大げさに肩を竦めてカウンターの下に消えた。



「それでどうするの。陰陽師の結界なら私たち手出しできないわよ」

「俺の処遇もどうすんだよ」

 椿希と浅緋に人差し指を立て、八坂がスマートフォンを耳に当てる。くぐもった呼び出し音が漏れた。

「陰陽師といってもやり口は外法だからね。毒を持って毒を制すつもり。これからその専門家と話すから」


 電話から低く陰鬱な息遣いが聞こえた。

「お忙しいところ申し訳ありません。岡山人妖協会の縄目なわめ主任ですね」

「別に構わんがん。急ぎか?」

 訛りの強い、若い男の声だった。

「はい、一刻を争います。早速ですが、貴方の管轄下に霊道より更に凶悪な魔物の通り道がありますね」

「ナメラスジか。しゃあけど、最近はそう騒ぎも起こらんけん俺も……」

「それと同じものを東京に作ることはできますか?」


 しばらくの沈黙があった。

「いけん、あねえなもんは害はあっても得やこありゃあせん」

 八坂は灰皿で煙草の先を叩き、唇に押し当てた。

「敵が鬼門を開いて我々を襲撃しました。陰陽師のひとりが死に、ひとりは重傷、うちの人間がまだふたり異界から帰還できていません。彼らを取り返すためには同じ道を作ってこじ開けるしかありません」

 電話口の男が湿った吐息を漏らして笑った。

「きょうてえ女じゃ。メールで図面を送る。やっちもねえことに使ったらおえんぞ」

 ぷつりと音がして電話が切れた。



 八坂は電話を下ろし、妖怪たちに向き直った。

「さて、質問に答えるね。まず結界を破る方法」

 細い指先が煙草を灰皿の底に押しつける。

「あれはきさらぎ駅の名を使った鬼門。これから識者に送ってもらったやり方で彼らが消えた新宿駅に再び鬼門を開いて、こちらから殴り込むの」


「新宿駅の構内は迷いやすいわ。私たちも同行した方がよさそうね」

「私たちって」

 椿希が隣に並んだ丑巳の背中を叩いた。

「この期に及んでサボるつもり?」


「もちろんふたりと天邪鬼にも協力してもらうね。そして、ヒダルガミ。あなたの処遇について」

 八坂が口元だけで微笑んだ。

「これから二十四時間以内に鬼島冴人と釣田つりた氷下魚を救出して。それができない場合、あなたを再び封印します」

 浅緋は片方の眉を吊り上げた。

「好きにっていいんだな」

「必ず大元をってね」


 八坂は緩く編んだ髪を払って踵を返すと、携帯を耳に押し当てて店を出た。


 昨日から着たままのはずだが皺ひとつないジャケットの背を見送って、冬瓜が浅緋の座る椅子を見下ろす。

「しかし、あんたが大人しく働くなんて意外だよな。新宿に来た協会の連中ぶっ殺して消えるくらいのことはすると思ってたぜ」

「働く理由なんざひとも妖怪も同じだろ」

 浅緋はまだ火が燻っている吸殻を口にした。


「飢えねえためさ」

 浅緋が舌を出し、吸殻の先端を押し当てると、花火のような音をたてて火が消えた。

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