鬼、紗羅、儀

 暗闇の中でネオンが燦然と輝く車窓が鬼島きじまの横顔を映した。



「見送りなんてよかったのに。一周することになっちゃうよ」

 紫苑しおんが人差し指を立ててくるりと回す。


 紫苑と芥田あくたは報告のため、人妖協会の支部がある新宿に向かうことになっていた。

 上野駅で新幹線を降りた鬼島たちはそのまま山手線に乗り換え、ふたりを見送ることにした。


「急ぐ旅でもないしな」

 ドアが開き規則正しく乗客が吐き出され、車両から他の客がいなくなる。車内の寒々しい光が中吊り広告の中のアイドルの顔を不気味な笑みに変えた。


 嫌な予感がする、とは言えなかった。

 上野駅に着いたとき、うなじを冷たい手で撫でられたような悪寒を感じた。

 電車を降りるのを先延ばしにするように、鬼島は半円を描いて都心をなぞっていた。



 高田馬場駅に到着し、ドアが開く。

 痩せた男がふらつきながら雪崩れ込んできて、氷下魚こまいが小さく身を竦ませた。

 真夏だというのに古風なインバネスコートを纏った男は、黒く長い髪を細面な蒼白な顔に貼りつけて鬼島たちの向かいに座った。


 紫苑が大丈夫かと声をかける。

「大丈夫、少し酔っただけですから」

 男は落ち窪んだ眼窩の中の目を上げて力なく微笑んだ。紫苑が作り笑いを返す。


「ここら辺は本当にちょっと見ないうちに気持ち悪くなった……」

 男が喉をひきつらせる。

「よくあんたらは暮らしていけるな。嫌にならないのか?」

 浅緋あさひがコートに隠したドスに手をかける。鬼島がそれを制した。

「東京は取り返しのつかないことになってるのに、自分の中のことも外のことも、気づかないふりをして……」



 声を遮るように新宿への到着を知らせるアナウンスが響いた。

 鬼島は顎でドアを示し、男から目を逸らさず電車を降りた。


 ホームに降り立ったが悪寒は感じなかった。

「妙な奴でしたね」

 芥田が不快そうに言う。

「たまにああいうひともいるよね」

 人気のないホームを見回すと浅緋の姿がない。紫苑たちの方の向こうには拷問器具のような光を放つ銀のゴミ箱が並んでいるだけだ。

「あの馬鹿、乗り過ごしたのか」


 電車の方に踏み出した鬼島の袖を氷下魚が引く。

「店長、ここって新宿ですよね?」

「それがどうした」

 氷下魚は駅名の看板を指す。

 板はひどく劣化し、字がほとんど掠れていた。

 乾燥した唇のように激しくひび割れた表面から、ひらがなで書かれた「きさらぎ」の文字だけが読み取れた。



 鬼島は息を呑む。

 帰宅ラッシュの時間帯で無人なんてことがあり得るのか。

 疑惑を静寂が更に研ぎ澄ます。

 夕陽が照らす構内は天井がささくれ、石綿と配線がむき出しになっている。点字ブロックも所々剥げ落ちていた。田舎の廃線の終着駅のようだ。

 何より、山手線から見下ろした街は既に夜光が輝いていたというのに夕陽が差しているはずがない。

 そう思った瞬間、何かが爆ぜる音がした。



 全てが一瞬だった。

 いつの間にか背後に迫っていた黒い影が両手に握った鋭角の何かを振り上げる。

 背を向けていた氷下魚を庇うように芥田が前に立ち、咄嗟に紫苑が手をかざす。

 振り下ろされた刃の片方が獲物を振り払おうと進み出た芥田の右腕を宙に跳ね上げ、もう片方がわずかに身を捻った紫苑の脇腹を貫通した。



 頰に迸った返り血の熱に、止まっていた時間が動き出す。

「紫苑! 芥田!」

 鬼島の放った銃弾が襲撃者の頭部を粉砕した。

 影が崩れ、泥となってホームに飛び散る。

 それと同時に倒れた紫苑と芥田の身体から流れる血が池のように広がった。


 地面に座り込んだ氷下魚が声にならない悲鳴をあげる。

「紫苑、しっかりしろ!」

 紫苑を抱え起こし、脇腹を強く押さえた鬼島の指の隙間から温かく滑った血が伝い落ちた。

「くそっ……」

 視線の先では芥田が倒れ、腕の切断面から絶え間なく鮮血が流れていく。


「浅緋、来い!」

 停車した車両の窓に浅緋が映った。抜き身のドスを振りかぶりガラスに叩き込んでいたが、割れるどころか音ひとつしない。



 鋼のようにびくともしないドアに浅緋は鞘を投げつける。がらんどうの車内に木の跳ねる音だけが響いた。

「くそったれ、やりやがったなあ!」

 刀身に浮かび上がった歯が口惜しがるように歯軋りした。窓に顔を押しつけて浅緋が叫ぶ。

「鬼島、こいつは結界だ! 敵は怪異じゃねえ!」


 ガラスの向こうで浅緋が何かを告げようとしているのが見えたが、声は鬼島に届かなかった。

 手をきつく押し当てるほど、水を吸った布を押すように新しい血が流れ出す。

「紫苑……」


 真下の線路から黒い湯気が立ち上る。湯気は徐々に輪郭を帯び、ホームに這い上がってひと型の影になった。手にした凶器は紫苑と芥田を切り裂いたのと同じ、僧侶が持つような独鈷杵だった。



冴人さえとくん……」

 腕の中の紫苑が消え入りそうな声を出す。

「紫苑、喋るな。大丈夫だ」

 鬼島が片手で銃を握る。四方から影が迫っていた。

 紫苑が震える手を挙げ、親指と人差し指に挟んだものを差し出した。

「これ返すから。鬼の力が要るんでしょう……」

 血まみれの腕がだらりと垂れ下がる。鬼島の手の平には先端が錆びついた古い針が残っていた。


 停まっていた列車が徐々にホームを滑り出す。

 中の浅緋が動き出した車両のドアを蹴破って、何とか鬼島たちの見える方へ駆けるのが見えた。



 鬼島は紫苑からそっと手を離し、ホームに寝かせて立ち上がる。

「氷下魚!」

 石のように固まった氷下魚が目だけを鬼島に向けた。

「列車を止めてくれ!」

 無言で激しく首を横に振る。

「頼む、電車を止めて浅緋を戻してくれ。お前にしかできない」

 氷下魚は目を泳がせて、這うように点字ブロックに縋り、何とか腰を浮かせた。


 影は間近まで迫っている。

 列車は既に半分がホームから離れていた。最後部に向けて走る浅緋のコートの裾が窓の向こうで上下するのがわかる。

「氷下魚!」

 鬼島の声に弾かれて、氷下魚が駆け出した。



 鬼島が握った針を自身の手のひらに向ける。指がかすかに震えた。

「冴人くん……」

 血溜まりに横たわる紫苑の胸が上下した。

「無茶だけはしないでね……」

「あんたがそれを言うなよ」

 鬼島は目を伏せ、錆びた針の先端を手のひらの中央に突き刺した。



 全身の血管が膨れるのがわかる。指先から心臓まで電流のような衝撃が巡った。

 針が溶け、流れ出した黒い血が逆流して鬼島の腕を包んだ。黒鋼の手甲を纏ったような手の先には同じく光を反射しない黒い手斧が握られていた。



 十秒だ、十秒で終わらせる。それが限界だ。

 自分に言い聞かせる鬼島の白目が墨をこぼしたように黒ずんでいった。

 獣のような息を吐き、一歩踏み込んだ。


 手斧ごと腕を斜めに振り上げ、右上から突き出された独鈷杵ごと影を砕く。

 一秒。


 身を屈めて反転し、第二の影の腹を弧を描いた刃の軌道で裂く。血の代わりに吐き出された泥の生々しい土の匂いが鼻先で膨れた。

 三秒、全身から汗が噴き出す。


 左からの横撃を躱し、杵を振り切った影の手首を掴む。影の腕は脆く、掴んだ場所から土塊となって崩れる。鬼島は影の肩から先がなくなる前に引き寄せ、差し出された首を垂直に切断した。

 五秒、喉の奥から血の味が迫り上がる。


 二体同時に背後から襲いかかってきた影の片方を振り返らずに掴み、もう片方にぶつける。重なり合って崩れる泥の頭部に似た部分を見定め、ふたつまとめて斧で叩き割った。

 七秒、視界が明滅し、血が逆流する。


 弾けそうな心臓を抑えて目の前の影に飛び込み、続けざまに三体斬る。泥が刃に乗ってひどく重い。汚泥を払うため、大振りに斧を振り切り、一際大きな影を袈裟斬りに両断した。

 九秒、限界だった。


 斧と手甲が弾け飛ぶ。

 鬼島は頭からホームに倒れこんだ。



 最後尾の車両がホームを離れようとしていた。

 車内の浅緋が振り下ろす刃が何度もガラスに弾かれる。

「止まって、お願い、止まってよ」

 駆けながら氷下魚は熱に浮かされたように呟いた。

 足がもつれて宙に浮く。後ろに倒れるはずだった身体が何かに包まれた。


 氷下魚の背中を巨大な赤い左腕が支えていた。

「芥田さん……」

 血の気の失せた顔で足を引きずりながら後ろを走る芥田が、食いしばった歯をわずかに開いた。唇が行け、と動く。


 氷下魚は遠ざかる列車に手を伸ばす。

「止まれ!」

 車体を縁取る緑と黒の線が白く塗り替えられた。冷気の波が車両を飲み込み、ホームや線路まで氷の膜で覆い尽くしていく。急激な温度差に耐えきれなかったガラスが薄氷とともに砕け散った。



「結界が崩れたか! よくやった、アイス係!」

 扉上半分が切り飛ばされ、鉄塊の下から浅緋がホームに滑り込んだ。

 線路から這い上がろうとして氷に阻まれていた影たちを長ドスが一閃した。鞘に打たれ、刀に斬られ、影が次々と泥に変わる。


 勢いよく振り降ろされたドスの先端が空中で止まった。浅緋が目を見開いた。

「やっぱりなあ!」

 刃紋に浮かぶ歯が虚しく鳴る。

「怪異じゃねえ、こんなもん使ってこたあ陰陽師だろ!」

 浅緋の目の前にインバネスコートの男の姿がよぎったた。


 衝撃波に弾かれた浅緋が車両のドアを突き破り、内部の座席まで投げ飛ばされる。

「そう、妖怪は陰陽師を殺せない」

 男の低い声が響いた。

 芥田がない腕で虚空を掻き、残った左腕でガラスの残る窓枠を掴む。赤い片腕がそれをなぞってひしゃげた車体に爪を立てた。

 芥田と前鬼を取り囲んで影が滲み出す。


「そこまで」

 遠くから女の声がした。

 列車に残った全てのガラスが飛散し、赤い霧が噴煙のように窓という窓から噴き出した。


 霧が瞬く間に影たちを包み拭い去る。

 血煙に似た霧は勢いを失わず、ホーム上に倒れる鬼島の頭上を駆け抜けた。呼吸が楽になり、血の流れが正常になっていくのを感じる。



八坂やさかか」

 陰陽師の男が唸った。切り落とされた車両のドアの間からスーツとパンプスを纏った靴が覗いていた。

「鬼島くんたち、ごめんね。ホームから動かないで。必ず助けに行くから」


 赤い霧が引き潮のように薄くなって消えた。

 鬼島は腕の力だけで上体を起こす。

 インバネスコートの男も山手線も跡形もなく失せていた。

 おびただしい血と泥の跡と、横たわる紫苑、端で座り込んだ氷下魚だけが残っている。

 空は血の色の赤だ。


 朽ち果てた駅の天井や柱から溶け始めた雪の雫が垂れ、プラットフォームに音を立てて落下し、乾き始めた血痕を再び滲ませた。



 ***



 赤い霧が消え、開けた浅緋の視界に新宿駅の文字が飛び込んできた。

 LEDの電灯に張り替えられたばかりの路線案内。紫紺の夜の光がホームに伸びる都会の駅だった。



 前に立っていた八坂は半目を開けてうなだれる芥田の肩を抱えていた。

「ひどいね」

 八坂が息を吹くと、切断面から溢れる血の筋が赤い紙紐に変わり、傷口を縛り上げた。

 駆け寄ってきた黒服たちに芥田を引き取り、場外へ運び出す。



「遅かったじゃねえかよ。俺が死なせたらマズい奴まで攫われちまったぜ」

 浅緋が睨むと、八坂は憂鬱を隠さず視線を返した。

「あなたの責は今問わない。私が遅れたのは事実だから。これでも飛ばしてきたんだけど」

「ここ以外でも何か起こったのか」

 彼女はスマートフォンを掲げた。画像は地下鉄の階段から担架を担ぎ出す救急隊員とテロップが並ぶニュース映像だ。


「田端と神田と大崎で襲撃があったの。こちらの被害は今わかってるだけでも二桁になりそう」

 八坂が肩に降りた髪を払うとシャツの襟に赤茶けた血の跡が散っていた。

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