昔、憧憬、ラーメン

 大宮駅に降り立つと、石で固めた龍のように広がる自由通路に陽射しが降り注いでいた。


「埼玉まで来ちゃったね。戻るのが大変だ」

 紫苑が小さく伸びをした。

「東京に帰らなくていいんですか」

 鬼島きじまが問うと、紫苑しおんは盃を傾けるような仕草をした。

「せっかく来たんだしお昼食べていこうよ。戦勝祝いってことで」



「デケえ通路だな。ひとが住めそうだ」

 通行人の汗と日焼け止めの匂いが漂う光景に浅緋あさひが目を細めた。

「昔、こういうとこには立ちんぼがいて、ヒロポン打ちのヒロ子っていうのが……」

 鬼島は浅緋の額を手の甲で叩く。

「立ちんぼとヒロポンって何ですか?」

 氷下魚こまいの問いを無視して振り返ると、不快とも何とも言えない表情で芥田あくたが目を背けた。



 橙色の門をくぐって狭い飲み屋街に入る。

 すれ違うのがやっとの道幅を積み上がったビールケースや青いゴミ箱がさらに狭めていた。

 アーケードのガラスが濁った光を落とし、居酒屋の看板や提灯の光と混ざるのを見て、夜以外が似合わない街だと思いながら鬼島は口を開いた。


「昔も食事といえばこういうところでしたね」

「覚えてるんだ」

 鬼島の歩幅に合わせて少し大股で歩く紫苑が返す。

「ろくに年も違わないのによくいろんな店を知ってるって思ってましたよ」

「後輩を連れてくのにチェーン店じゃ恥ずかしいからね、二十歳になってすぐ必死に探してたんだよ」

 子どもだったね、と眉を下げてから紫苑は目についたラーメン屋を指さした。

「一番空いてそうだからここで」



 店内に他の客の影はなく、奥のテーブルに通された五人は破れたシートにガムテープを貼った椅子を引いた。

「目はもういいのか」

 座るときに少しふらついた芥田に鬼島が言うと鋭い視線だけが返ってきた。


 注文を取りに来た店員にラーメン五つを頼んでから紫苑が「瓶ビール一本」と付け足す。

「昼間から飲むんですか」

「戦勝祝いだから飲まなきゃ」



 沈黙に耐えかねたのか、氷下魚が隣に座った芥田に聞く。

「芥田さんはもうお酒飲める歳なんですか」

「今年二十歳になったばかりだけどな。高校卒業してすぐ除霊隊に入った」

「私も高卒でお店に入ったんです。って、私と一緒にされたくないですよね」

 卑屈な笑みを浮かべた氷下魚に芥田が少し戸惑って否定した。

「誰かへの態度とはえらい違いだ」

 口を挟んだ浅緋を睨んで、芥田が雫のついたグラスを握る。


「俺の妹が怪異に襲われたんだ。生きてはいるが寝たきりだ。元凶を殺せば治るかもしれない。そのために入った。腑抜けた奴が何人去ろうと怪異との戦いを諦めない紫苑先輩に拾われて光栄だと思ってる」

「ストレートに言われると恥ずかしいね」

 紫苑がネクタイを緩めて手で顔を仰ぐ仕草をした。

「怪異も、その戦いから逃げる連中も憎い。だが……」


 両手にどんぶりを持った店員が現れて芥田は口を噤んだ。沈黙する五人の間を目の前に置かれていくラーメンの湯気が漂った。



「じゃあ、無事で帰って来られて、その上勝てたってことでみんなお疲れ様」

 紫苑の声に合わせて浅緋を覗いた全員がグラスを上げる。ガラスが小さくぶつかる音の中で一番端の席から麺と汁を同時に啜る音が響き、鬼島が舌打ちした。

「お前も参加しろ」

 湯気の向こうで顔を上げた浅緋は驚いたような表情で鬼島を見返し、どんぶりを持ち上げた。



「ヒダルガミを使いこなしてるなんてすごいね。私でも後鬼ごきを使うのでやっとだよ。芥田くんもまだ前鬼ぜんきの腕しか召還できないし」

 亜麻色の髪を耳にかけて紫苑が割り箸を割る。

「式神として使ってる訳じゃないですよ。成り行きで封印が解かれて押し付けられたんです」

「飯代だけで後はただ働きの鉄砲玉だ。勝手がいいだろ」

 浅緋は箸も使わずにどんぶりの半分を空にしていた。

「いいもんかよ。飯代だけでうちのバイトの人件費超えそうだ」



 鬼島は透明なスープにレンゲを差し入れてひと口啜った。

 ポンと音を立ててビールの栓を抜いた紫苑が鬼島のグラスに泡立つ液体を注いだ。

「あぁ、俺が」

「いいの、気にしないで。あ、でもせっかくだからやってもらおうかな」

 既に口に泡をつけた紫苑が空のグラスを差し出す。受け取った瓶を傾けながら、鬼島は列車の中で倒れていた彼女の姿を浮かべた。


「先輩は……」

 紫苑が首をかしげる。

「先輩もあの列車で悪夢を見たんですか」

「お酒が不味くなる話だなあ」

 鬼島は忘れてくれと示すために手を軽く振り、注がれたビールを飲み干した。



「見たよ」

 紫苑の静かな声に鬼島が顔を上げる。彼女の頰は酒気でかすかに赤くなっていたが、目は湯気の先の何かを見つめるように暗い翳りがあった。

「私も氷下魚ちゃんと一緒かな。実家では嫌われ者だったから」

 唐突に話を振られて、麺を啜っていた氷下魚が噎せた。


「陰陽師って昔は朝廷とかでも大きな力を持ってたけど、今の時代はそうはいかないでしょ。うちの親戚はみんなもう一度政治に関わるような偉い存在になりたいって躍起になってたの。化け物退治を頑張りたい私は厄介者だったの」

 紫苑の目が細くなり、眼差しが鬼島の方に向いた。

「だからね、真剣に悪い怪異を退治しようって思ってついて来てくれる冴人くんに会えて、何とかやってこられたんだ」

 知らなかったでしょ、と紫苑が微笑む。

 鬼島は言葉を探したが、何も言えずに手酌でビールを注ぎグラスを唇に近づけた。



 誰も口を開くものがなく咀嚼音だけが響いた。

「貝みたいに黙っちまいやがって」

 浅緋がどんぶりを音を立てて降ろす。

「お前らの敵の妖怪よりお前らのがよっぽど寿命が短いんだぜ。みんな最後の最後に必死に何か言おうとして言えずにくたばっていくんだ。死骸を俺みたいな奴に食われてな」

 浅緋は水差しの水を一気に飲み、グラスに残った氷を噛み砕いた。どんぶりの底には汁一滴すら残っていない。


「お前は死骸は食ってもひとのもの奪って食うことはしねえんだな」

 鬼島に言われて、割り箸をかじっていた浅緋が目を丸くした。

 ぼろぼろになった先端を咥えてあぁと呟くと、

「盗もうってのはある程度共生できてる奴の発想だな。俺は近寄っただけで人間が瘴気に当てられてぶっ倒れちまう。営みの中に入るってことができねえ。だから、死骸を食うんだ」

 食い千切った木の欠片を吐き出した。

「何だぁ、高尚な話でも期待してたか?」


 浅緋以外の四人はまだ食べ終わりそうにない。

 鬼島は自分の器から赤みがかった厚切りのチャーシューを一枚箸で取り、空のどんぶりに放り込んだ。

「臨時報酬かよ」

 浅緋のどこか気の抜けた声を聞いて鬼島は苦笑した。



 会計を済ませて外に出るとぬるい空気が吹きつけた。

 空は薄紫に変わり始め、店先の看板や提灯の赤い光で裾に火がついたように見える。

 流れてきたひとの動きに逆らって五人は駅の方へ向かった。


 赤信号の前で足を止めると、生温かい風が工事現場にかかったブルーシートを揺らし、映り込んだネオンも揺れた。



「鬼島冴人」

 唐突に芥田が切り出した。

「フルネームで呼ぶなよ」

「俺は怪異もその戦いから逃げる連中も憎い。だが、今回は助かった」

 鬼島は彼の横顔を見た。意志の強そうな太眉の下の瞳は横断歩道を真っ直ぐに見つめたままだった。


「何故お前は除霊隊を辞めたんだ」

 小鳥の声に似た呑気な電子音が鳴り、信号が青に変わる。

「さあな……」

 鬼島は自由通路の影の下へと進むひとの波に足を踏み出した。



 ***



 上野の一角、八坂やさかは雑居ビルの非常階段で手摺に腕をかけながら、四方を囲む壁と遥か上の空を眺めていた。

 学ラン姿の少年が錆びた階段の鉄板を鳴らして駆け上がってくる。

「彼らが大宮を出発し、これから東京へ戻るそうです」

「ご苦労様。きみも若いのによく働くね」


 少年はわずかに頬を染めて目を逸らした。

「やはりヒダルガミは強力なんですね。三つの怪異を殺るなんて」

 八坂はパンプスから踵を抜いてぶらぶらと揺らして唸り、

「ヒダルガミも勿論だけれど、彼を使役している鬼島くんもかな。彼が封印を解いたのは僥倖だったね」

 そう言ってから足を動かすのをやめた。



 雨だれに汚れたビルの壁と暗くなり出した空に視線を走らせ、八坂は表情を険しくする。

「鴉天狗、彼らの迎えに誰か陰陽師を派遣した?」

 少年は首を横に振る。

「やられたな……電車と駅は別で考えるべきだったか」


 八坂は少年の方へ身体ごと向き直った。

「渡月会長に連絡を。息子さんじゃなくお父さんの方ね。上野駅新幹線ホームに大至急信頼できる陰陽師を派遣して。山手線各駅をレイラインとした結界を貼る。それから、私も出ます」



 ***



 弾丸のように快速列車が駆け抜け、薄暗いホームにひとつの影だけが残された。


 男は真夏にも関わらず痩せた身体をインバネスコートに包み、蒼白な顔で落下防止用の柵の手すりに触れる。

「茅場町の次は高田馬場……厄介だな」

 男の声は細い声で呟いた。



 容姿と仕草から急病人と思ったのか、駅員が男に近づいて肩を揺らした。

「大丈夫ですか」

 男は一瞬戸惑うそぶりをして、苦痛を隠すような笑みを返した。

「大丈夫です。あともう少しで終わりますから」

「何かお手伝いしましょうか?」

 男の痩せた指が駅員の肩に触れた。

「お前にはできない」


 聞き返す前に駅員は目を見開いたまま点字ブロックに崩れ落ちた。


 男は駅員をまたいで無人のホームを見渡すと、蛍光灯の光に導かれるように階段の方へ向かった。

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